広島・長崎に会いに来たフランシスコ教皇(画像はLivedoor newsから)。その戦闘的なメッセージに日本国民として恥ずかしいと思った。広島市の平和記念公園の「平和の集い」に出席した教皇は「戦争のために原子力を使用することは、犯罪以外の何物でもない」と指摘し、「核戦争の脅威で威嚇することに頼りながら、どうして平和を提案できるか」と核抑止力を唱える国々を批判した。
さらに、フランシスコ教皇は人々に三つの行動を呼びかけた。これからの世代に「二度と繰り返しません」と言い続けるために「記憶すること」。自分だけの利益を後回しにして、平和に向かって「ともに歩むこと」。そして、原爆と核実験、紛争の犠牲者の名の下に「戦争や兵器はもういらない」と叫び、平和を「守ること」。これらが「広島においてより一層強く、普遍的な意味を持つ」と強調した。(記事は朝日新聞digitalから引用)
核兵器廃絶をはっきり明示し、その行動も提起したのも画期的。ここまではっきり世界に提起した宗教指導者はどれくらいいるだろうか。日本の政治家はもちろん仏教・神道の高位の指導者からのメッセージは聞いたことがない。日本宗教者平和協議会(日本宗平協)の動きも注視したいが政党色の臭いがときおり出てしまって本来の趣旨が活かしきれていない。そのためか、メディアも取り上げるのに慎重だ。
とは言っても、日本の宗教界の長老は平和を実現するためにどれだけ汗をかいただろうか。内輪では小さな発信をしているだろうが、葬式仏教に相変わらずうつつをぬかし、現状を打破できないお粗末さをどれだけ痛恨としてとらえているだろうか。また、国家神道によって戦時体制に関与してしまった神道はまったく反省がない。天皇を盾にうやうやらしく利用してしまい、祭政一致の疑問すら持たない思考停止は、国民の大衆迎合主義(ポピュリズム)を着々と強めているではないか。
その意味で、今回のローマ教皇の戦闘的発言と弱者に寄り添う姿勢は日本の沈滞と閉塞を穿つ契機となる。個人的にはかつてのキリスト教の宣教師が帝国の植民地支配の尖兵となった歴史的経過もあり、それをいまだ払拭できていない現状は不満ではあるが、教皇の弱者へのまなざしに本物を感じる。
加えるに、教皇が安倍首相に世界の核廃絶の仲介を明確に要請したとき、安倍くんは胸を張って「橋渡しに努める」と断言したが、これはまるで国会答弁と変わりはない。憲政史上、在任期間が歴代第1位を更新している総理ではあるが、その期間中平和への強い行動は全く見られなかった。むしろ、防衛予算増額つまり軍備増強と、アメリカへの忖度・依存をますます強化するばかりではなかったか。安部くんの言う「積極的平和主義」とは、アメリカの世界戦略に積極的に加担するというふうにしか受け取れない。平和のための予算を積極的に増額もしていない。教皇のメッセージを謙虚に内面化するどころか胸を張ってしまうところが致命的だ。