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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

シャクトリムシも多様なデザインがある

2016-06-30 20:57:29 | 生き物
 夜になるとわが家に突入してくる蛾が多くなった。
 その目立つ蛾は、尺取虫として身近な「シャクガ科」の蛾だった。
 よく目にする「ヒョウモンエダシャク」の豹紋は、豹柄の目立つデザインで自分を守ろうというのだろうか。

                           
 シジミチョウより小さめの「シロオビアオシャク」もよく侵入してくる蛾だ。
 緑の蛾は珍しいが、いろいろなパターンのデザインがあるようだ。
 そのなかでこのアオシャクは地味なデザインだった。

             
 地が真っ白で帯が茶色の「シロツバメエダシャク」もときどき目撃する。
 この尾状突起がツバメの尾に似ているところからツバメとネーミングしているが、ウーン。
 デザインはジャパンを感じる慎ましさがいいね。

 きょうは終日、畝立てに専念。
 小さな畝を6か所形成。
 ぐっしょり濡れてシャワーを浴びる。
          

                      

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キュウリ第1号、トマトまもなく

2016-06-29 19:24:47 | 農作業・野菜
キュウリがいよいよ実ってきた。
 毎年心配はしてきたが、今年も種から順調に育ってきたようだ。
 梅雨の時期からうどんこ病が発生するが、なんとか葉を除去して実の充実を図ってきた。

                          
 ミニトマトも色づいてきてちょこちょこいただいている。
 つい肥料が多くやってしまうので、下のほうの葉も除去している。
 トマトも病気に弱く、すぐ対応しないと伝染してしまう。

      
 大玉トマトもなんとか大きくなってきた。
 暑い夏にはトマトにかぶりつくのが最高だ。
 うっかりすると脇芽が伸びすぎてしまうので、トマトとまめに対話することが必要だ。

       
 2年もかかって育ったキャベツに重宝している。
 100株以上もあったキャベツの苗は植える畝がなくてポットでしばらく待機してもらった。
 「捨ててしまえ」と言われながらも少しづつ畝に移植しているうちに2年も経過。

 きょう収穫したキャベツは今まで以上にずっしり重い。
 枯れそうだった5cmほどの苗がかくも緻密な結球となっている重さに生命のパワーを実感。

  
 
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合鴨に会いに行く

2016-06-28 21:22:53 | 農作業・野菜
 和宮様が「ぜひに合鴨を見たいのじゃ」とおっしゃるので、NPO法人「楽舎」がやり始めた合鴨農法の田んぼに行く。
 耕作放棄地だった荒地に田んぼが増えている。
 田んぼに近づいたが合鴨の姿は見えない。
 さらに近づいたら突然合鴨が飛び出して逃げ出した。

                           
 ただし、田んぼの周りに網を張ってあるので田んぼ以外には行けない。
 しかも、鳥による被害を防御するための網も張ってある。
 これだけの広さを張るのはたいへんな作業があったことがわかる。

                           
 稲を植え付ける前は、雑草をいろんな手法の草取りを挑戦している。
 なにせ、無農薬で稲を育てようという構想だ。
 そうした無謀な構想を実現するにはプロ農家ではできない。
 
         
 そのうえ、「東屋」を建設して休憩を兼ねた地域の交流の場を作ろうというのだ。
 じっさい、担い手に若手がいることもあり、幼児連れの夫婦も支援と見学にかけつける。
 合鴨の管理も繊細のようでいつの間にかいなくなったり、死んでしまうことも少なくないようだ。
 しかしながら、こうした試行錯誤をしながらもこの中山間地で希望を現実のものにしていくことは、未来をたぐりよせることでもある。


 中東情勢はもちろん、イギリスのEU脱退やアメリカのトランプ旋風も世界はますます排外主義と目先の困難をデジタルに呼応する衆愚政治に陥没しそうだ。
 日本も景気や経済成長ばかりを宣伝して原発や憲法改変に関心がいかないよう操作された世論誘導の選挙攻勢が目に余る。
 こうして日本も戦前を「風化」させた成功手法を現在も繰り返していく。
 だから、歴史は繰り返し、過ちは繰り返す。


 そんなとき、儲けにはならないが環境に優しく生きる希望を手に入れようとする合鴨農法の担い手たちの志が光る。
人並みの暮らしとはどんなことか。
 中山間地でつつましく生きている暮らしを全国で展開すれば豊かな心と自然が生かされる暮らしがすすむ。
 EUのスケール大きいロマンに比べて日本のロマンとは何なんだろうか。

 田んぼのそばに「キササゲ」の木があった。
 伐採しないで貴重な大木を大切にしてくれている心が美しい。
 
 
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桃に初めて袋がけをする

2016-06-27 20:35:35 | 農作業・野菜
なにしろ、畑の隣に梅の木だと思っていたのが、桃の木だった。
 そういえば、実が成るのが数個しかつかなかったあげく、大きさも梅ぐらいの大きさにしかならなかったのだ。
 それが数年前カラスがなんどもねらっていたり、動物が食べた跡があったのでやっとわかったのだった。

                       
 今年は異変が起きたのだ。
 なんと実が50個近くもできたのだ。
 大きさもテニスボールくらいに近づいている。
 もちろんかじられてもいる。

                        
 あわててホームセンターで果実専用の「袋」を買ってきてさっそく袋掛けをする。
 しかし初めての経験でうまくできない。
 袋の上に短く柔らかい鉄の線が入っている。
 それを袋に入れながら折り曲げて留める。

                        
 そのうえに、寒冷紗をかけてみる。
 樹が小さいのでなんとかカバーできた。
 それにしても、うれしい異変だった。
 昨年、強剪定し、肥料をたっぷりあげたせいなのだろうか。

     
 落ちてしまった実・摘果した実・傷ついた実の皮をむいて食べたところ意外にうまい。
 和宮様が砂糖を少し入れて実の肉を暖めて、食べてみたらまるで桃の缶詰の味だった。
 枯れそうだったモモが奇跡の復活だ。

                 
 これから大きくなるかどうかまったくこころもとないが、じゅうぶんだ。
ありがとう。
     
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山里の「公民館レストラン」

2016-06-26 20:31:33 | 市民活動・まち育て
 やっとやりくりがついたので、町内の砂川(イサカワ)集落の「公民館レストラン」に初めて行く。
 今年公民館に営業許可が下りて宇野茶園夫婦を中心に毎月第4日曜日にレストランが開催されている。
 公民館の黒板にはきょうのメインメニューが「フランスの田舎料理」であることが明示されていた。

                           

     
 お昼前に到着したので料理はまだ作られていく途中だった。
 厨房は予想通りてんやわんやの忙しさだ。
 時間と共にお客は若い夫婦を中心に高齢者へとだんだんと増えていった。

                           
 厨房のスタッフの一翼に集落の自治会や婦人部など既成の組織が全面的に支援してくれるのが理想だ。
 初めて出向いた人にとってレストランのシステムやメニューの価値を教えてくれる人がいないのも残念。
 個人的には公民館でレストランが行われるのはきわめて画期的だと評価しているが、その担い手をいかに確保・育成していくかが課題のようだ。

     
 食べたメニューは、「鶏肉とナスのトマト煮+マッシュポテト」、「キュウリのライタサラダとニンジン・レモンのサラダ」、「ズッキーニと新ジャガのケークサレ」、デザートの「いろいろ豆水菓子」、Yukkoさんお手製の天然酵母パン、と盛りだくさん。
 原材料の食材の味を大切にしているのが伝わってくる。

                          
 山里のつつましさは人の心も食の豊かさも育んでくれる。
 公民館の機能も新たな地域づくりの拠点として新たなデビューを果たしている。
 この空間世界が変わってきたことの意味が大きい。

 食べることは生きることだが、食べることは人づくり・地域づくりであることを宇野夫婦は身をもって実践している。
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野菜じゃないよ、虫の収穫じゃよ!?

2016-06-25 21:49:24 | 生き物
 わが家は毎晩のように虫がやってくる。
 大きな音を立てて突然障子にぶつかってきたのは、「ヒゲナガカミキリ」だった。
 オスの髭は体長の3倍近くもあるらしいので、これはメスのようだ。
 蚊が出てきたので蚊取り線香を点けるとその周りは小さな虫の死体だらけ。
 掃除機で吸い取らないと歩くスペースを確保できないほどだ。

       
 センダンの葉によくやってくるのは「シリアゲムシ」。
 蛾でも蝶でも蜂でもない。
 蝶や蛾の祖先だという。

                                
 縁側近くに転がっていたのは、「センチコガネ」らしい。
 カナブンでもないし、エンマムシにも似てるし、ゴミムシにも近い。
 糞に集まるということだ。

                           
 畑では「カノコガ」を発見。
 今までは同じ仲間の「キハダカノコ」という黒と黄が体を規則的に並ぶのが多かった。
 翅の模様は同じ。

       
 和宮様が率先して捕獲しているのは、ピーマン・ナスを食害する「カメムシ」だ。
 ペットボトルに集めたカメムシは万華鏡で見ているようで嫌な気分はしない。
 「虫を愛でる姫」(「堤中納言物語」)はさすがに捕るのがうまい。
 しかし、虫に刺される確率が断然高いのが玉に傷。

 きょうは雨があがったせいかばかに虫が集まる。
 湯呑に虫が次々入ってしまうー。

 
 
                         

                      
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池波正太郎の「自前」の思想

2016-06-24 18:40:13 | 読書
 怪しい雲行きの中、午前中にやっと耕運機に活躍してもらった。
 午後から雨が落ちてきたのでこれできょうの仕事は終わり。
 いつものように昼寝をしてからそのまま寝そべりながら池波正太郎の世界に入る。

                       
 最近は切れ味がいま一つと感じているものの舌鋒鋭い評論家「佐高信」とフィールドが広い江戸研究家「田中優子」が対談した『池波正太郎・<自前>の思想』(集英社新書・2012.5)を読む。
 「自立」は経済的な側面が強いニュアンスがあるが、「自前」の生き方とはどういうものか、70歳過ぎてもまだまだわからない。
 
       
 二人の言葉からそれは、「強くなくても生きられるってことですよ」「何かひとつ持っていればいいんですよ」「何かひとつ持つというのは、権威に頼らないで済む生きかたですね」という、田中優子の言葉に励まされる。
 池波文学に出てくる密偵は、元犯罪者だがたった一つのまっとうさを生かして生きよ、と池波は彼らにメッセージを送る。

                      
 代表作『鬼平犯科帳』(文春文庫、2000.4)の主人公長谷川平蔵は江戸の「火付盗賊改方」長官として辣腕を振るった実在の幕僚だ。
 平蔵は若いとき放蕩無頼の暴れ者だったが、盗賊たちには「鬼の平蔵」と恐れられるほど特別警察権を持って取り締まりの成果を上げている。
 そうしたベースのもとに、池波は人間を勧善懲悪の一面的なとらえ方ではなく、佐高のいう「下情(カジョウ)」に通じた人間観だ。
 小説に登場する犯罪者でさえ感情的に糾弾するどころか、その価値を考える。
 そして「情の裏うちなくして智性おのずから鈍磨することに気づかなくなってきつつある」として、情知一致によって一人前になるのだと説く。

     
 庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説と言えば、山本周五郎・藤沢周平・帚木蓬生らがあげられる。
 その中で、池波正太郎作品は町人が描いた時代物と言える。
 若き長谷川平蔵の放蕩無頼はそのまま池波正太郎の人生と重なる。
 だからこそ、人間を多面的に受け止めるのだ。
 
 田中優子の言葉が的確だ。
 「畳に手をついて頭を下げる。その手の身体側が自分、つまり自らの<分>であり、手前である。その自らの空間に全てを引き受けるのが、<自前で生きる>ことだ。」
 そして、「自前が…社会における己の姿勢を練り上げていく楽屋空間だとすると、そこは<あそび>の空間でもあるはずなのだ。」と。
 そうしたリキまず・ブレない洒脱な生き方を展開するとしたら、ずいぶん距離があるなー。
 
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挿し木のあじさいが成長して大輪の花開く

2016-06-23 19:55:17 | 植物
 幾たびかの冬を耐え、挿し木で育ったあじさいがついに花開いた。
 生き残ったあじさいは数えるほどだったが、今では畑や荒地のまわりにじょじょに花を咲かせるまでになった。

                         
 幾たびか枯れる危機をのり越えて大輪の花を咲かせてくれたので、幾本かを切り取り玄関前の亀に投げ入れてみる。
 1本もなかったあじさいが自前で飾れるほどになった歳月を想う。
 あじさいの枝を提供してくれた人に感謝する。

     
ガクアジサイのバリエーションは奥が深い。
 花びらに鋸歯があったり、「ベニガク」のように白から赤に色変わりするもの、中央の花と装飾花とが色が違うもの等々。
 わが家のあじさいの品種は多くはないが耕作放棄地だったところに、まずは花が見られるようになったことをよしとしたい。 
 

                     
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あじさい寺の石灯篭・宝篋印塔

2016-06-22 22:01:35 | 石仏・石造物
 森町のあじさい寺に行ったときに最初に出会ったのが「宝篋印塔」。
 「宝篋(ホウキョウ)」とは「宝箱」、「印」は「価値ある」の意味で、この塔に安穏長寿の呪文(真言)が書かれたお経が納経されている。
 釈迦没後100年後、インドのアショカ王が全国に小さな仏塔を作ったことで、中国でも同じく作成されたのを留学生が日本に導入して広まったという。

                        
 堺市の「浜田石材店」のHPによれば、こうした「宝篋印塔」は、平安中期から鎌倉時代以降に流行したそうだ。
 その形には、「関東型」と「関西型」とがあるが、これは関西型だろうか。 
 しかしよーく見ると、梵字が書いてある塔身がなんと二つ重なっているではないか。
 これは大発見。
 おそらくこれは二つあった宝篋印塔を一つに合体させたのではないかと思われた。

   
                         
                          
 石灯籠の多くは奈良の春日神社にある「春日型」の石灯籠に多く出会う。
 火が入る「火袋」の彫刻には、鹿・雲・三笠山(+月)・透かし格子(+波)の4面のデザインが定型化されている。
 しかも、①火口 ②神鹿 ③雲 ④火口の後戸 ⑤三笠山 ⑥格子 という順番も決まっている。
 しかしこちらのデザインはけっこう個性的にアレンジしているのがいい。

    
                             
 それ以上に、子安延命地蔵尊前に奉納された石灯籠はじつに独創的で素晴らしい。
 民家が火袋というのがローカルで、正面の鶴、横面の梅という斬新なデザインが彫られている。
 あじさいばかりではなくこうした石造物の意外性がまた好奇心を増幅させてくれる。
 二十数軒しかいないという檀家が支えるあじさい寺の行く末は厳しいものがあるが、観光バスでやってくる団体客がいたのはホッとする。
 庭の管理を託されている好々爺にまた再訪することを約束して帰路に就く。  
 
          
 
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キュウリ・インゲンの誘引を行う

2016-06-21 18:07:24 | 農作業・野菜
 昨夜から雨が降り続いていたが、お昼前に雨が止んだので、今がチャンスとばかりにキュウリ・インゲンの誘引を行う。
 無農薬のキュウリにはウリハムシという強敵がいる。
 苗が小さいとあっという間に食べつくされてしまう。 

                           
 したがって、ある程度大きくなるまでは防虫網で防御する。
 きょうはその防虫網を取り除き、竹の枝を打ち込みそこにキュウリの茎を紐で誘引する作業。
 今のところ、うどんこ病は発生していない。
 キュウリの赤ちゃんがすでに成っていたので週末頃にはキュウリの収穫が始まるかもしれない。

     
 つるなしインゲンも順調に育ってはいるが、マメコガネがけっこう葉をかじっている。
 また、支柱がなかったため倒れていたので取り急ぎ支柱を打ち込んで誘引する。
 マメ科のわりには肥料が必要なインゲンだという。

                           
 ナスやピーマンの収穫が本格的に始まる。
 きょう初めて茄子漬を食べてみた。
 食べ出すと止まらなくなる。
 新鮮な野菜が「隣にある豊饒」に感謝する。

                       
 そうして閑話休題、今日の経済政策についてオイラが注目している佐伯啓思京大教授は説く。
「新たな技術を次々と開発し、経済成長と結び付けることで人間の幸福を増大できる、という西洋発の近代主義は極限まできている」と、指摘する。
 けっきょくのところ、「国際化やグローバル化の掛け声よりも、われわれが今日必要としているのは、われわれ自身の哲学である」とする。
 それは、「西洋に起源をもつ、自由や民主主義」のグローバル化がイスラムとの衝突となり、日本もアメリカに追随した「グローバルな文明はどこか借り物であった」と分析する。
 「自由はグローバルな金融中心の資本主義へとゆきつき、民主政治は大衆的な情緒や気分で不安定に流動する」結果、「自由や民主主義の限界」が明らかになったとする(「異論のススメ」朝日新聞、葵の隠居さんからいただいた切り抜き)。


 なーるほど、「隣にある豊饒」は、利潤を産まなければ価値がないとする実態の経済。
 「隣にある豊饒」を切り捨ててしまう幸福論は、某党の選挙公約では「景気回復」と口当たりいいスローガンとなっている。
 世界の今日の混乱は佐伯教授が予想したように動いていることに刮目する。
 当たり前とされる「自由な民主主義、個人の基本的権利、合理主義と科学技術、市場競争原理」を普遍的価値とする西洋文明に対し、東洋的・日本的文明開化を構築する時代になっている気がしてならない。

                                    
 だから一方、つまらない事件が人を殺戮する。
 政治家の劣化も原発の風化もはなはだしく浸透する。  
 こういうときこそ、危ないカリスマが残念ながら出現する。
 したがって、選挙も黒子の演出通り世論操作が成功する。
 
 
 
 
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