山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

穏やかな秋をゆるりと生き抜く

2022-10-31 19:09:55 | 市民活動・まち育て

 昨日は、プレイパークの遊具づくりの助っ人に行く。5日に県の公園で行う冒険遊び場に使う遊具を作るという。今まのプレイパークは、人がある程度集まると近隣から苦情もあり、個人の場所ではなかなかその確保が難しい。地方では開けた平地がないこともあるし、人もどんどん少なくなっている。地域で子育てする担い手が激減している現実。子どもも大人もマイホームという洞穴に封じ込められるから、そのストレスやもやもやが人格解体を引き起こし、事件にも「拡大」してきている。

         

 そんななか、幼児を持つ30代の親を中心にプレイパークを準備・運営するというのだ。渋谷に行けばひまな若者がわんさといるというのに。ここでは8人ほどの大人が大工仕事や炊事に汗をかいている。

 オイラは様子を見て、遊具そのものの制作は若者の発想に任せて、側面からのフォローに徹することにした。若い親や幼児たちの腹ごしらえのために、大量にいただいていた「里芋」をダッチオーブンで蒸すことにした。さいわい、近くに乾いた樹の根っこや枝の山があったので、「薪」には苦労しなかったのがうれしい。

           

 アルミホイルで焦げるのを防止した効果があったようで、強力な火力にもかかわらず焦げつくのはあまりなかったのが幸いだった(画像は蒸す前)。ただし、アルミホイルを二重にした「焼き芋」は取り出すのが遅かったせいか、おこげが多くなってしまった。いっぽう、七輪で沸かしたお湯で「コーヒー」を楽しむのは定番となった。中心のフキちゃん夫婦らは、忙しい合間に薪で炊いた羽釜のご飯と野菜たっぷりのみそ汁をお昼に作ってくれた。

   

 子どもたちは慣れたもので作られてきた部品でさっそく遊びを創造している。ゴルフボールを流して木琴や鉄琴の音やコースを外れた意外性を楽しんでいた。この緩やかな空間には、韓国の群衆雪崩の悲劇もロシアの一方的な地域抹消・人間の殺戮もない。日本の真綿に絞められたような軋轢やストレスは、仮装で表現するしかないのだろうか。それでしか注目されない若者の「孤独」を感じる。

        

 「書を捨て、街に行こう」ではなく、「都会を捨て、田舎に行こう」が最も先駆的なクールとなった。穏やかな秋空の下、ここでは同じ若夫婦のつながりがある。そこには緩やかな信頼・やりがいの共有がある。さらにそこへ、高齢のエンジニア・山猿さんも豊富な経験値を側面から投げつけてくれる。 

 そこへ、徘徊している鶏が食べているご飯を狙ってくる。傍らにご飯を置くとあっという間に群がってくる。油断ならないが人懐っこい。攻撃的でないので子どもたちもひょいと抱きかかえる。この山に囲まれた風景に溶け込んでいる。

          

 この褐色の鶏の品種は「もみじ」というらしい。茶色の卵を産む。肉や骨はラーメンや中華料理のスープの材料としている。この足部分を甘辛く煮込んだ大分県日田市の郷土料理にもなっている。この足が「もみじ」の葉に似ているから命名された。この鶏の「種」の94%を輸入に頼っているという。輸入がストップされると日本の養鶏は壊滅的な被害がある。したがって、国産は6%だから、ここでも食料自給率が問われる。 

 そんな背景は別にして、「もみじ」諸君の食欲は旺盛だ。それでも、野放しの「諸君」を見ていると心が穏やかになってくいく。のんびりやの鶏諸君・汗を流していた親子の諸君。これらの光景を共有していく日本にならなければならないとつくづく思う。壁は韓国や渋谷のハロウィンの圧殺のようにそれは残酷であるのが現実だ。それでも、ここの空気と空間には希望に満ち満ちている。    

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愛用の七輪真っ二つ !!

2022-10-28 23:03:43 | 野外活動

  名古屋から旧友が久しぶりに来ることになった。あわてて焚き火の準備をする。茶樹の根っこで熾火を作って七輪にいれ込む。そのうちに、なーんと、七輪がスローモーションのように割れていったのだ。この七輪は元の地主が山に埋めてあったものを掘り出したものだった。だから、もともと見るからに危ういガラクタでもあった。

        

 しかし、毎月のように使っていてもう10年は経っている。よく頑張ったものだと頭が下がる。けっこう、厚さがあったこともわかった。確かに、ひびができていたのは確認済みだったが、こんなにきれいに自壊するとは。人生初めての目撃となる。七輪に衝撃を与えたものでもなく、七輪みずから終末の姿を見せてくれた。ここまで頑張ってくれた大団円を看取った瞬間でもあった。

        

 今までの豊穣を産み出してくれたのを感謝しながら、おもむろに次の七輪に熾火を移す。七輪の原材料は、植物プランクトンの化石が堆積した珪藻土だ。珪藻土は呼吸もするので人間にも環境にもやさしいということで壁にも活用されている。炭も七輪も、遠赤外線を輻射するダブル効果で肉や魚の外側をパリッと焼き、中側をジューシーにすることで、旨味をますます引き出す効果がある。

  

 その後は、旧友とともに、次の七輪でお湯を沸かしコーヒーを入れたのは言うまでもない。今回は定番の焼鳥やクサヤについては焚き火の熾火でじっくり焼いてみた。遠方からやってきた旧友は手術して間もないにもかかわらず、その元気さに煽られる。夕方には長野に行って泊っていくという。予約していないので泊りがダメな場合は車中泊するともいう。もっぱら「閉じこもり」状態に張り付いているオイラにはまぶしい行動力だ。

          

 割れた七輪を少し砕いて、砂利にする道に撒くことにする。土・道に還ることで、これで七輪も循環することになる。破砕しても役に立つことの証明だ。

 さて今後は、くたびれた七輪からやや新しい七輪に代わるわけだが、今までとは違う感触を楽しむことになる。エネルギー・電力事情が厳しくなったウクライナに七輪を贈ったらきっと喜ばれるに違いない。

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往年の「鍛冶衆」気質が!!

2022-10-26 21:30:44 | 石仏・石造物

 前回に続く路上観察。浜松駅に近い大通りをちょいとそれた所に、「金山神社」が静かにたたずんでいた。信玄を滅亡させた(1582,天正10年)家康は、浜松の城づくりに甲斐から鍛冶衆を呼び寄せたという。城づくりに必要な釘・くさび・蝶番・飾り鋲などを作る職人だ。その集団が周辺に住み始め、神社を建立し鉱山の神・金物の神を崇める。関係商工業者や地域からの支援もあり、明治36年9月に建てられた石の鳥居に扁額が掲げられているが、それは金属製である。なるほど。

        

 敷地を囲む石の「玉垣」の入り口には、左右に小さな狛犬が鎮座していた。普通は拝殿前で迫力を競う狛犬だが、子犬とはいえ顔はいかつい表情で神域を防禦している。遊び心も心意気も伝わる。

     

 「吽形」の顔の口からは犬歯が鋭く出ているが、「阿形」のほうは不鮮明な顔立ちだ。しかし、こうした狛犬の配置といい、形態(背中がまっすぐ)といいなかなか珍しい狛犬と思うが、意外に見過ごされているようだ。

    

 拝殿に向かって突き進むと、左側に「洗心」と刻まれたどでかい手水鉢があった。よく見るとフツーの神社のそれの2~3倍はあるような大きさだ。この辺にも関係者のパワーが感じられる。

 また、玉垣の先には小さな灯篭が左右に構えていた。ふつう灯篭は丸い「柱」「竿」で構成されるが、それは「火袋」も一緒に四角い。また、火袋の下には、「受け」という皿のようなものがあるはずだが、あえて省略されて、真っ直ぐな四角にこだわっている。明治38年4月、乗松さんが寄進している銘がある。

         

 いっぽう、隅っこには、春日灯篭に似た「寛永寺」型ともいうべき立派な灯篭もあった。てっぺんの「宝珠」から「受け」までがずっしりとして、長いはずの「柱」・「竿」が短いのでずんぐりしている。装飾の手が込んでいて傘の「蕨手」もなかなか素晴らしい。「受け」・「中台」に武田家の家紋が刻まれているのが気になる。

 拝殿の左右には、背の高いオーソドックスな灯篭があった。街道筋にもときどきみられる「常夜灯」だ。昭和20年の空襲で全焼した神社だったが、それぞれの灯篭や石造物は無事に生き残ったのだろうか。

    

 拝殿前には、狛犬の「阿吽像」が左右に鎮座していた。「吽像」の顔が欠けているので表情が読み取れない。こちらが戦火をくぐった古い像なのだろうか。両者とも怒りの表情に迫力がある。石工の心意気のようなものがよく表現されている。

 

 

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ぷらっと路上観察で…

2022-10-24 22:57:21 | 路上観察

 先日、浜松駅近くに車で行った。久しぶりの大都会だった。過疎の山間地を出発してからどんどん外の世界が変わっていく。後期高齢者となって都会での運転はしばらくやってこなかったので心配もした。それでも、むかし都会に住んでいたオイラは路地裏レンジャーだった?? 時間があれば街歩きを楽しんでいた。ちょっとした隙間時間があったので、100mくらいの距離を往復しただけだが久しぶりにマンホールの蓋を探し回る。

 三つのマンホールを発見した。いずれも旧浜松市の市章が真ん中にあるマンホールだった。そこには「下水道」の文字が彫られていた。一つ目は、お台場のような方墳のような四角い突起を周りに散らした滑り止めのデザインだ。左右にフック掛けの鍵穴があった。機能重視のシンプルなデザインだった。

  

 次に見たのは、やはり中央の市章に「下水道」の文字をあしらってあった。その下のほうに「汚水」の文字が見られた。左右に鍵穴があったがそれぞれの形が違うのもポイント。円と直線に雨粒か人間かを表現したように見えたが、よく見られるデザインだ。このデザインは「東京市型」だ。JIS規格の参考図として掲載され全国的に普及した。ただし、それぞれ微妙に違うのでよーく比較しないとわからない。

 「受枠」が6分割のモルタル仕様であるのがレトロっぽい。古くなると雨が降った時は滑りやすい。なお、旧市章のデザインは遠州灘に打ち寄せる波を表現したもの。

  

 最後は、小さな市章に「下」とだけ刻まれたマンホールがあった。下水道かと思ったが、その下側には「ごうりゅう」と刻印されていたので、雨水と汚水との合流管のようだ。中央の周りには亀甲紋とその六角の「原子」がデザインされている。これなら滑り止めはばっちりだ。鍵穴は3か所。

 そしてその外周には、将棋の駒のようなものが並んでいる。星の下の都会の「家」という表現だろうか。その家の大きさには大小あるというのが大発見だ。大を「1」とし、小を「2」とすると、「121121112112」と並んでいるのがわかった。が、この並び方の意味は分からない。

 最近は、カラー版のマンホールが多くなりそのカードも売り始められた。全国を回る余裕があればそれらを見たいところだが、とてもそんな時間はない。しかし、ときどき都会に出かけたときの隙間時間での発見は感動がより大きい。

     

 日本はそのマンホール技術はトップクラスだ。外国はマンホールと道路との隙間があるのでガタガタして騒音がするという。それを解決したのが「勾配受け」という技術だ。しかし、密着度が過度になってしまい蓋を開けるのが厳しくなった。そこで登場したのが「RV」という技術革新だ。これは他の追随を許さないものがあるという。(上の画像は「裏読みWAVE」小林明さんから)

  

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建国の中心は関東・東北にあった !?

2022-10-21 17:55:53 | 読書

 人類は日本列島をめざして移動しながら拡散した、と「豪語」?している田中英道氏の『日本の起源は日高見国にあった』(勉誠出版、2018.1)を読む。

 地学専門誌からの引用として、田中氏は、日本の縄文時代の中期の人口は遺跡数の推定から約26万人と言われ、その東日本と西日本の人口比は、100対4だという。その後の気候変動により人口は南下し、弥生時代には100対68になる。うちわけは関東・近畿・九州は約11万人前後と地域的拮抗がはじまっていった、という。

 

  要するに著者によれば、縄文の中心は東北にありそれが気候変動により南下することによって、関東の常陸の国が「高天原」となりそれが国のはじまりであり、それが「古事記・日本書紀」の神話となったと解釈する。神が住む「高天原」はどこかということは諸説あるが、常陸説は古くは新井白石が唱えた説でもある。一般的には、「高天原」は九州のイメージが強い。

           

 著者は、縄文から弥生の時代に、この東北から関東にかけての「日高見国」が日本建国のルーツであると説く。それが神話に隠された歴史上の事実であることを検証していく。だから、鹿島神宮は日本の最古の神社であり、近くに「香取神宮」もある。オイラは神話にまったく興味がないし、神様の名前も長ったらしいうえに似通ってもいて、それだけで拒否反応をしていた。

         

 神話に出てくる「国譲り」「天孫降臨」「神武の東征」は、日高見国の歴史ドキュメントではないかと、従来の歴史観への挑戦状をたたきつける著者だが、なかなか雄弁だ。中身は過激だが語りは静かな牧師のようだ。環境考古学の安田喜憲は感性豊かな吟遊詩人のようだった。二人は世界観こそ違え、共通している所論が少なくない。学会から異端であるのも共通している。

       

 西洋美術史家でもある著者は、縄文土器を「世界のあらゆる粘土造形の中でも飛び抜けて抽象性、美術性を帯びている」と、岡本太郎のような評価を下しているのがまた鋭い。この縄文土器の精神性に「日本の神道の原型がある」と著者は示唆し、唯物論者が多い考古学者はそういうことは言わないとまで揶揄している。

       

 アニミズムとしての神道には共感しないわけではないが、戦前、「国家神道」として権力に利用された経過もあるように、国家と神道がつながると危ういというのは歴史的な事実だ。しかも、侵略戦争に加担したことをまったく反省していない現在の神道の思考停止状態は、嘆かわしいどころか厭きれるばかりだ。

 さりながら、田中英道・安田喜憲両氏の投げかけた「いにしえの神」の意味するところは、あらためてオイラも再考することにしたい。また、「日高見国」の存在はますます現実味を帯びてきているように思えてならない。

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「森の妖精」というより「月の女神」!!

2022-10-19 22:12:03 | 生き物

 「大きな不思議なイモムシが歩いておるぞ」と和宮様がわざわざ教えに来てくださった。さっそく御殿?の庭に参上すると、きれいなアオムシくんがゆったり歩いていた。フムフム、大きいといえばスズメガを想定していたが、これは初めて見たイモムシくんかも。

         

 体はサボテンのような突起がある。毛虫のような針に触ると危険かもしれないと警戒する。さっそく、小学館の『イモムシとケムシ』の児童向け図鑑を開くとすぐ出ていた。ヤママユガ科の「オオミズアオ」だった。そうか、あの幻想的な綺麗な蛾だったんだと感心する。そういえば、しばらく出会っていなかった。8年前ブログに載せて以来かもしれない。

  

 体の横の気門の「サイドライン」(気門線)が橙色も特徴らしい。オオミズアオ(大水青)は、「森の妖精」と言われるほどの人気者だが、英語では「月の女神」という。こちらのほうが成虫の雰囲気にはぴったりだ。最近では住宅地などの乱開発などで数が減ってきている。以前、夜の公衆トイレの灯りにやってきたオオミズアオに何回かあったことがある。

          

 幼虫の顔はアザラシのようでいかつい。前方にある4つの突起は褐色だが、これが黒っぽいと「オナガミズアオ」という準絶滅危惧種の珍しい蛾となる。これから蛹へとなるのだろうが安全な場所はあるのだろうか、と心配になる。成虫になると口器が退化して食事をしなくなる。そのうちに、子孫を残すだけとなった成虫はまもなく短い命を閉じる。女神のあでやかさは幼虫の時から美しい。   

 

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そして藁から合繊になった!!

2022-10-17 22:16:09 | 出会い・近隣

 昨日は地域の祭礼があった。しかし、コロナのこともあり祭事だけでお祭りは中止だった。同じように、わが10軒の集落のお宮も宮司さんを呼んだ祭事だけでにぎやかな「直会」(ナオライ)は中止だった。今年は、初めて藁ではなく合繊のしめ縄が登場した。毎年藁で作っていたしめ縄をやめて、丈夫な合繊のしめ縄をついに購入したというわけだ。

   

 というのも、集落の頭数が減っていき、同時に高齢化も進行し、田んぼの藁の確保も難しくなり、毎年地元で作るしめ縄が作れなくなったというのが理由だ。しかも、近隣のいくつかの地区も同じように合繊のしめ縄を購入となった。丈夫で金色に輝くのはいいが、太陽光や雨ざらしに弱いので祭事が終わり次第、その日のうちに片付けとなってしまった。数年前には幟も購入したのでそれらの財政負担は年金だけの収入しかない生活者には厳しい。

             

 前回のブログで紹介したように、安田喜憲先生によれば、しめ縄は雌雄の蛇が合体した豊穣のシンボルだという。「稲作漁撈民」は蛇信仰が共通していて、日本も南米も▲印の蛇マークを土器や調度などの模様に描いている。

 注連縄は一般的には、岩戸に閉じこもったアマテラスが外に出たとき、再び戻らぬよう岩戸を縄で塞いだという神話からの由来が多い。同時にしめ縄は、雲を表すという。しめ縄に付ける紙垂(シデ)は「雷」を表し、同じく細い藁を付けるのは「雨」を表すのだともいう。そのことで五穀豊穣を願うというわけだ。(以下の画像は藁を使用していた時のもの)

     

 加えて、神が降臨するというしめ縄の意味は、神聖な場所と現世との境界・結界だというのもよく言われる。さらに、しめ縄は「注連縄」と表示する。「注連」とはもともとは中国で死者が出た家の門に張る縄のことだという。故人が再び戻らぬよう結界を作った風習にちなんでその言葉を引用したということだ。

 いずれにせよ、地域の祭りが成立しなくなるとその波はいっそう深刻化する。少子化で人口が減少していくのは数十年前から言われてきたのにもかかわらず、根本的な対策をしてこなかった政治の貧困がはなはだしい。都会は潤っても地方は寂れていくばかり。地方の国会議員とそれを支える選挙民の在り方が問われるのだが、いまもって変わらない。今までどおりの現状を糊塗する政治では何も生まれないのに、とぼやくばかりの日々だ。家の玄関の上にしめ縄をつければいいのかなあ… 。

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日本神話のルーツは長江にあった、だと!!??

2022-10-14 21:54:47 | 読書

  たまたまテレビで放映中だった岡本太郎特集。彼は人類は進歩していないと断言した。「太陽の塔」で表現したのはそのことでもあったという。太陽の塔の裏側に黒い太陽が描いた意味はそこだ。進歩だけが独り歩きしていた万博を一人で異議申し立てをしていたのが太郎だった。

 その太陽の塔のルーツは縄文文化でもあった。そこに注目してきた安田喜憲『日本神話と長江文明』(雄山閣、2015.5)を読んだ。

    

 著者は、環境考古学の立場から世界の古代文明の花粉分析などのフィールド調査を行ってきた。その結果、砂漠化したほとんどの古代文明は森林伐採によるものであることがわかった。その理由は、煉瓦造りの燃料・牧畜の放牧場・材木の輸出・都市化・戦争などによるものだった。その結果、古代文明は滅亡していく運命となった。

 それに対し縄文文明は1万年以上も続いた。それは環境を必要以上に破壊しない暮らし方があったからだ。前者は「畑作牧畜民」、後者は「稲作漁撈民」と著者はまとめる。

   

  長江にいた民族は、「力と闘争の文明」の「畑作牧畜民」に侵略され、山岳地帯や南方に逃げ込む。長江文化を調査していた著者は、日本のイネと長江のイネも同じDNAであり、さらに長江にいた山岳民族の神話は日本の神話と似ていることを確認する。

  

 その長江人の一部が海を渡り日本列島にやってくる。そして、長江から出土した土器や山岳民族の風習から蛇信仰の類似性や「柱」「鳥」、そして「太陽」などの造形・風習が似ているという。その日本への影響は、神社の御柱、ヤタガラス、しめ縄(雌雄のヘビの絡み合い)、日の丸などに見られるという。

 いっぽう、「畑作牧畜民」は一神教をかかげ、領土を力で拡大し富を蓄積していく。それは現代における主流勢力を占め、世界情勢を形成している。岡本太郎が言うとおり、人類は進歩していないのだ。

  

  神話の類似性についてはまだ納得はできない。著者の論調が相変わらず緻密でないのが気になる。著者は、神武天皇から9代の開化天皇までは長江派の影響があったが、10代の崇神天皇からは「畑作牧畜民」が権力を奪取したとする。しかし、それらの天皇の実在すらわかっていない。しかも、神武と崇神は同一人物だという説もある。

 ただし、著者の言わんとする趣旨は大いに共感する。結論的には、「環境調和型の持続型ライフサイクルを選択した稲作漁撈民」の生き方は、「命と水の循環を維持し守る」ことにある。それは21世紀の希望・めざすものであり、その延長に「桃源郷」があり、それが「究極の生命維持装置」だとする。その視点は同感だ。

           

 その意味で、今世紀に跋扈する弱肉強食の「畑作牧畜民」の現状をふまえて、「美と慈悲の文明」である「稲作漁撈民」の植物文明の先駆性を伝えるしかないのは確かだ。数十年前だったか、長江とその周辺の土器や青銅器の出土品の展示イベントに行ったことがある。その文様や異様な生き物の顔立などは、南米の古代文明の出土品と似ていた。土器も縄文土器ではないかと思えるほどだった。モンゴロイドが南米にまで進出した証左ではないかと確信した次第だ。同じように、著者は立命館大学で「環太平洋文明研究センター」を開設したほどだ。

 ちなみに、長江文明は、揚子江に偏在した紀元前14000~1000年前に繁栄した国だったが、黄河流域の漢民族に滅ぼされた。

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木下恵介のまなざしを探る

2022-10-12 18:15:37 | アート・文化

 木下恵介生誕110年を記念したシンポジウムに参加した。パンフには「庶民の日常生活に潜んでいる喜び、悲しみ、怒り、哀れを冷徹なまなざしで見つめながら、数多くの人間味溢れる傑作を世に送り出し、多くの観客を魅了」した、と的確な案内が記されていた。会場は記念館二階の小さな講堂だった。聴衆は約50人ほどが参集した。

      

 登壇者は3人だった。先端を切ったのが家族の一員だった原田忍さんだった。恵介は親からのたっぷりした愛情を受けて育ったようで、親が怒ったのを聞いたことがないという。そして、貴重な手紙や写真を紹介しながら、恵介は養子をはじめとする12人の大家族をとても大切にしていたという。しかも、映画関係者ばかりか近隣の人を気軽に巻き込んでにぎやかに過ごすのを愉しんでいたのだった。恵介のまなざしの原点は、そんな優しさが映画に貫かれていたのではないかと回想する。詳細は12月に幻冬舎『木下恵介とその兄弟たち』として出版される。

               

 次は、フランス人で日本映画史の研究者であるマチュー・カペルさんだった。カペルさんは、恵介の存在を小津安二郎や溝口健二、さらには戦後の双頭だった黒澤明に比べて評論家は控えめな扱いに甘んじていた。それは世界映画史の盲点ではないかと提起する。恵介が撮ったカメラワークや演出は斬新だったが、ほかの監督はそれを踏襲こそそれ、そうした功績も見逃してはいなかったかとたたみかける。

  

 作品ごとに実験的な技法を駆使してきたその作風は、大島渚・吉田喜重監督などを育ててきたことも忘れがちではなかったか、という。そうして、人間の格差・立場に触れ、そのあたりまえの「人生の儚さや時間の残酷さ」を表現した稀有の監督だったとカペルさんは評価した。

 そうした「木下組」は、山田太一・松山善三・勅使河原博・小林正樹などの錚々たる脚本家・映画監督が育っていく。

            

 最後に、静岡文芸大の加藤裕治教授が、テレビ業界で活躍した恵介の役割をドラマ「記念樹」を紹介しながら分析。恵介が渡仏したときにテレビの可能性を発見したようだったという。1964年(昭和39年)、TBSの「木下恵介劇場」を皮切りにテレビ業界に着手し、「木下プロ」も創立して旺盛にドラマを茶の間に感動と共感の涙を送っていく。

 映画界からはブーイングもあったようだが、映画とテレビとを橋渡しした功績は大きい。木下プロを経営的に持続する厳しさはあったようだが、映画と同じく、差別・人間の弱さ・優しさなどを描いていく視点は変わらなかった。

            

 司会は、記念館の館長・村松厚さん。地元のヤマハから海外への出張経験長く、文化への造詣が深い。また、進行を担当していたタイ・シュキさんは有能な中国人だった。館長の「まなざし」の確かさが伝わってくる。こういう文化人がもっと市井で活躍していくと地域が豊かになるのだが、とうらやましく思う。

 ついでながら、たまたま中国の朱丹陽さんの木下恵介についての論文に出会う。要するに、改革開放の中国は世界第2位にはなったが、老人の孤独や人間関係の冷淡さなどがどんどん進行していく現状から、あらためて木下恵介が描いてきた映像からその現代的意味・価値を得られる、という。そういうことを提起する学生や若者はどれだけ日本にいるのだろうかと考えさせられた。

            

 松竹は恵介の言葉を紹介している。「映画監督っていうのは、本当の人間を描くために、毎日毎日考え日夜苦労しているわけです。理屈で言っても忘れちゃうけど、泣いて映画を見れば、心はいつまでも印象に残るんだと思う。それが映画監督の社会における義務だと思う。」

 珠玉の言葉だ。映像にも描かれている、温厚だが自分を曲げない監督の自負に触れた。あさましい日本の政治家・実業家に学んでほしい視点はここにある。

 

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木下恵介記念館は白亜の洋館だった

2022-10-10 22:35:58 | 歴史・文化財

 友人の紹介があって「木下恵介記念館」に行くことになった。浜松の都会に出るのは何年ぶりだろうか。山奥から出たので都会のビル群の風景の変容に圧倒される。近くの駐車場から歩いて記念館に着いたら、いかにもモダンな建物があった。前身は、銀行家らのサロンとして1930年に(昭和5年)建てられた「浜松銀行集会所」だった。浜松大空襲になんとか生き延びた貴重な歴史的遺産でもある。

       

 半円のアーチ窓の上の白壁にユニークなレリーフ模様があった。よく見ると、おじさんの顔のように見えたのは観察眼が鄙びた斜視のせいだろうか。当時の先端を切ったであろうこの白亜の洋館は、アメリカの旧スペイン植民地の建築様式の影響を受けた「スパニッシュ様式」のようだった。玄関前のポーチ・車寄せだけでも当時の住民を驚かせたに違いない。その前にあるソテツ・シュロの植木は地中海風デザインが彷彿とさせる。設計者は、浜松出身の中村輿資平(ヨシヘイ)。

        

 彼は、1921年(大正10年)に米・独・仏・英など17ケ国を1年かけて視察している。静岡県内の公共建築の中心は彼が手掛けたと言ってもいいほどの活躍ぶりだ。しかも、植民地朝鮮・満州国や都内の学校や銀行などにも精力的に建設している。当代一流の辰野金吾の設計事務所で頭角を伸ばし独立していったというわけだ。記念館の中は、輿資平の資料やもちろん木下恵介のポスター・愛用品なども展示されている。

   

 館内をゆっくり回る余裕はなかったが、アールデコ風のガラス窓や高級感あふれる家具・調度が目を引いた。ガラスの模様はバラの花だろうか。当時「日本楽器製造KK」(現・ヤマハ)は家具も生産していて、輿資平と旧制中学の同窓だった川上嘉一社長との関係で、特注品の家具が配置されていてそれも見どころだ。

 また、輿資平の次男で戦死した兼二は、作家・竹山道雄の従兄弟にあたり、兼二の死は『ビルマの竪琴』の執筆の動機となった。記念館にはこうした多様な坩堝にあふれている。

 

 

 

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