「都市を終わらせる」という表題が衝撃的だった。それで、その本を探したが高価だったので中古でやっと買い求めた。それが、村澤真保呂『都市を終わらせる』(ナカニシヤ出版、2021.7.)だった。都市化つまり都市の拡大は、農村を隷属しながら外部の資源や人材を吸収し、自然を破壊していく過程に他ならないとして脱都会を説いた警告の書だ。
そう言えば、オラが髪の毛が邪魔だった1960年代後半、映画監督の羽仁進の父である羽仁五郎の『都市の論理』という本がベストセラーだった。西洋の古代・中世の都市国家の自治・自由を謳歌した独断的だが羽仁五郎のスケールの大きい人格が伝わる本だった。また、経済学者の宮本憲一の資本集中が合理的な都市の利益集積となり、結果的に公害をまき散らすという都市論・地域開発論にいたく触発されたものだった。
そこで村澤氏は、「都市生活によって失われた自己の生の力能を取り戻す…都市に代わる新たな生活空間をつくりだす」ことを提起している。総論の方向としてはわかるがもう少しそれを論証するような事例が欲しかった。著者は、近代の都市化には数百年かかっているのだから、脱都市化にも同じくらいの年数がかかるとしている。そう言われてしまえばそうだろうと言うしかないが。
従来の都市化は、農村から都市へと言われてきたが、東京の一極集中については、周辺の都市が東京へ吸収されるような「都市から都市へ」という新たな「超都市化」現象が起きていると分析する。これをより高度化するにはオリンピックを招聘するというウルトラCに頼ざるを得ないわけだ。しかしその実態は利権の複合的な競争だったのはご承知のとおり。祭典の裏には利権の旨味が溢れているのをつい見失う。
したがって、自らの生の力能を都市から奪い返すためには、私たちの共同性を回復し、何らかのし方で「大地」と結びなおすことが肝要と著者は説く。そのためにも、「共感と寛容」を失った大阪維新の会の橋本徹ら新自由主義・ポピュリズムを批判している。また、知のアカデミーを捨て、教養科目を削減し経済第一主義とする大学が就職予備隊に変容してしまっている現実を告発している。
そうして、都市に支配された現実は、少子化・過疎化・自然破壊・人間の孤立化など枚挙にいとまはないくらいだ。オラの住んでいる中山間地でも、昔は山の樹を数本伐採すればそれだけで一年間暮らせたという話をよく聞く。そこには山をなりわいとした集落があり暮らしが形成され、里山と人間、人間同士のネットワークが成立していた。今は集落ごと消滅してしまう事態も招いている。これが「豊かさ」の現実でもある。
里山再生の活動にも邁進している著者としては、そこを本書でもう少し展開してほしかった。著者は、都市と農村、保守と革新という従来の対立軸ではなく、「共同体を守る」ことを共通項とした市民運動に活路を見出している。そして、脱都市化が危機克服のカギとすれば、新自由主義的な消費文化への依存・加速からの脱却から始めなければならない、とする。
換言すれば、「地球規模の巨大市場経済に依拠する先進諸国の都市生活は、自然資源を過剰に消費するため、地球全体を持続不可能な状況に陥らせる原因となっている」わけで、それには、自給自足を主流とする中世のように、「自然環境が維持される範囲内で政治・経済・社会活動を営むこと」にもどるべきとする。
本書のタイトルは最初「都市の裁きと訣別するために」だったそうだ。「都市の裁き」の意味がわからなかったが、本書を読み終わって初めてその意味に納得をした。しかしもともとは、フランスの俳優・思想家のアントナン・アルトーの作品『神の裁きと訣別するために』のパクリだということだ。村澤氏は、「<都市の裁き>によって裏側に追いやられた自然ー雨や風、細菌や昆虫、動物や私たちの身体を含むーを何らかの形でふたたび表側にひっくり返す…時代に私たちは生きている、という観点」をこめている。オラのブログで昆虫や植物や過疎を取り上げている意味にやっとスポットが当てられた気がして励まされた思いでもある。
かくも犠牲者が出ているのに、神はなぜ「沈黙」しているのか、幻想と便利を振りまく都市はなぜ人間を解体させてしまうのか、巨大な「神の裁き」「都市の裁き」からオラたちは自立できるのだろうか。