ばたばたしながらもついに平成最後の晦日を迎えてしまった。中島みゆきではないが、時間とは時代とはなんと早いものだろう。熟成しないまま未熟な高齢者となって毎日を足踏みしている現状だ。まさに「時間よ止まれ」と言いたいところだ。そんなことをぶつぶつ言いながら年越しそばを口にする。
和宮様のお手製の天ぷらを畑から収穫した人参やシイタケを下賜してくださった。うやうやしくほお張っていく。シイタケは冬を耐えてきたので旨味と食感とが絶妙だ。渋谷にはあてもない若者がどんどん集まり機動隊が配備についた。平和ボケ日本の象徴でもある。矢部宏治の『日本はなぜ、基地と原発を止められないのか』という本源的な問いにいまだ応えていない。そういうことはなるべく避けて「紅白歌合戦」でも見て思考停止し、そのことで平静(平成のように)を確保しようというのだろうか。
まもなくカウントダウンが始まる。そのうちに「平成」を封じ込める。いっこうに変わらない政治。同質であることを確認しあう乾杯で同化しあう体質。そこにどれだけ肉薄できる「来年」を開拓できるだろうか。それには「個」の確立がますます大きくなる。これからの時代はそこがキーポイントになると思えてならない。いま、山本周五郎の小説と伝記を並行して読んでいるが、どうにもならない境遇の中で苦悶と葛藤に追い込まれながらもその闇の中の光を見出そうとする作品に惹かれる。それは光を探そうとしないと入手できないのだ。光は向こうからはやってこない。要するに、光を求めようとする「個」の持続的な生き方が全てなのだ。来年はその一歩をさりげなく歩んでいきたいと思う。