森町天宮神社境内に移築された石塔がある。
高台にあった「地蔵山」が開発され、近くの古墳石室に使われていた「天宮砂岩」で作られたという。
そこの豪族の墓は、6世紀に筑紫の「磐井の反乱」でヤマトに敗れた一派が森町に流れたのではないかというのがオイラの独善的推理だ。
その石塔には四方に「空・風・火・水・地」の文字が刻まれていて、それは密教でいう世界はこの5元素からなるという仏の教えだ。
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正面だけ「大日如来」の字が入っている。
この石塔は正方形の壇の中央にある「大壇」で、江戸時代の初期(延宝2年、1674年)の大壇石塔だ。
いわゆる「五輪塔」を一つにまとめたものだ。
同時にそれは男根を現し、背後に女陰石が見えるが、これらのことから、生命の原点、万物の豊穣、子孫繁栄の願いをおおらかに表現している。
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境内の中ほどには、歌人で国学者の佐佐木信綱博士(号は竹柏園)の歌碑もあった。
いかにも由緒正しいエリートが謳った和歌だ(「天の宮神のみまえをかしこみと 千とせさもらふ竹柏の大樹は」)。
石碑はとても解読できないくらいボロボロだった。
「ナギ(竹柏)」が縁(竹柏会を明治31年主宰)で、昭和29年4月にこの神社を参拝して詠んだ。
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帰ろうとしたら、「神宮寺」という碑を発見、その後ろに廃寺らしきお寺があった。
廃仏毀釈の影響だろうか。
屋根側の壁にはいくつかの穴が開いていた。
人間にとってはうら寂しいが、きっとムササビにとってはアットホームだろう。
ここは国の重要無形民俗文化財に指定されている12の舞からなる「12段歌舞」の練習場になっているらしい。
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神社の静謐なたたずまいは、人間の喜怒哀楽の歴史物語が刻まれている。
表向きの顔だけではなく、その底流に流れる片鱗を境内から汲み取らなければならないとかねがね思う。
近世から現代まで、神社も寺院もあまりにも歴史に従属されている。
仏教で言えばもう一度、鎌倉・戦国仏教の自立精神に学ぶべきではないかと。
そのときの宗教者は、哲学者であり、まちプランナーであり、医療福祉カウンセラーであり、なによりも人間いかに生きるべきかを民衆に提起していた。
そうした息吹が現代の寺社には見事に抹消されている。