山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

畑で不発弾12個発見!??

2023-08-30 21:44:44 | できごと・事件

  畑の周りは雑草の天国だ。畝の隣は自由に伸びた1m以上の雑草が大地の豊穣を教えてくれる。しかし、畝の隣を歩けるようにしなければならないので、ときどき刈り込みをしていく。つる性のものは先端を伐っていく。

      

 少し刈り込みをしていくと、砲弾のような形の白っぽいものが多数見えてきた。一番長いものは44cmもあった。平均すると35~40cmくらい。「トウガン・冬瓜」だった。わが家得意の放任農法、こぼれ種農法だ。予想はしていたけれど、これだけ収穫があるとは思わなかった。1個は爆発していた。

         

 今日は11個を収穫したが、先週は7~8個だから、合計すると20個近くは到達する。こうなることは予想していたので、近隣にどんどんお裾分けした。遠くには宅急便で送ったので黒字にはなることはない。しかし、お礼の言葉や返礼品が都会的な豪華なものも贈られてくるので事実上は至福の手ごたえをいただいている。

  

 スーパーではこれだけデカイ冬瓜は売ってはいない。核家族や高齢者夫婦が多いからか、その半分くらいの大きさの沖縄冬瓜が圧倒的だ。表面の白っぽいのは沖縄冬瓜にはない。この品種は「長トウガン」という基本的な冬瓜なので、丈夫だ。ほとんど肥料をあげてない。やはり、スープがうまい。冷やしたスープは夏野菜の可能性を感じられる。歯が悪いオラにも柔らかく食べやすい。冬近くまでお付き合いすることとなるだろう。

 

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木下家の「心」は健在なり

2023-08-28 20:35:02 | アート・文化

 一昨日の26日、木下恵介記念館で開催された講演とシンポに友人と参加した。第一部は昨年12月に出版された『木下恵介とその兄弟たち』の著者であり、木下ファミリーの一員である木下忍さんの出版記念講演だ。第2部は、恵介の妹・芳子とカメラマンの楠田浩之の子である、演出家の楠田泰之さんとのシンポだった。

 学生時代の忍さんを知っているオラにとっては、目立たなくつつましい忍さんが登壇することは瞠目の事件だった。

              

 忍さんは、自分が教師になったのは恵介の「二十四の瞳」の影響であることを告白する。また、恵介やその家族が残した手紙・写真・フィルム・日記などから、恵介を中心とする木下家の優しい思いやりを確認できるし、忍さん自身も小さいころ育ったお互いを大切にする家庭環境が忘れられないという。そうした忍さんの言葉に大きくうなずく二人の若い女性が会場にいた。後でそれは忍さんの娘さんであることが分かった。

          

 第2部に登壇した楠田泰之さんは、テレビドラマの黎明期に開花した「金妻シリーズ」・「毎度おさわがせします」など、多くの脚本・演出にかかわっていた。彼も子どものころから木下家と一緒にいたことで、恵介の作品の根底に流れる人間賛歌・反戦・個性主義のまなざしを体感していったようだ。

             

 木下恵介がテレビに進出していった経過や作品の分析はまだ未解明のように思う。また、作曲家であり恵介の弟の忠司の存在とその影響力もまだまだ知られていない。

 本書表紙の右側が忍さんだが、その姿ときょう参加していた二人の娘さんの多感なフットワークのようすが、二重写しに見て取れた。これはまさに、恵介が貫いてきた家族愛・人間賛歌・つつましい庶民の生き方が「憑依」しているように思えた。木下家の心を体現している忍さんは同時に自分の家庭の中でも引き継いでいる見事さは、あらめて人間の優しさと芯の強さを描いた恵介の根源を目の前で見る思いだった。        

 

 

 

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アジアをさまよう日本という異界

2023-08-25 18:26:12 | 読書

 アジアに対する日本の在り方はそのまま日本の近現代史につながる。そんな予感から、中島誠『アジア主義の光芒』(現代書館、2001.5)を読む。日本は中国をはじめとするアジアから世界や人生を学んできた。その学ぶ謙虚さは日本の独自の文化をも刻んできた。が、今では死語とも言える「アジア主義」にかかわる登場人物には魅力的な人々もいたことは確かだ。

 しかし、「アジア主義の名の下に、否、大亜細亜主義の美名にかくれて、近代化の歴史を歩む日本人…先輩・先祖が何のために何をしたのか、またはアジア主義に殉じていかに命を落としたか」を解明したいというのが著者の目的である。

             

 とりわけ明治以降は、西洋大国の植民地主義の実態を踏まえ、地政学的な視点から日本をとらえる考え方が浸透していく。ロシアの南下政策に対する中国・朝鮮の軍事的位置から、日清・日露戦争・満州国へと日本の軍部が主導していく。そこには、北一輝・大川周明などの軍人・思想家をはじめ右翼と言われる内田良平・頭山満らが領土の膨張主義だけでなくアジアの革命家や国家の独立をも共感・支援していく。

    

 それは、岡倉天心の「ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱に他ならない」という欧米列強に対するアンチテーゼでもあった。したがって著者は、「おそらく日本近代が生んだアジア主義ほど特異なものは他に例をみない」ものであり、同時にそれは、「日本が八つ当たりのように諸外国に挑んだ戦争に共通する大義名分はアジア主義から生まれた」と断言する。

    

 そして著者は、朝鮮の儒学者を紹介して、「国家という<魄・ハク>が亡びても民族の<魂・コン>が消滅しなければ、その民族は必ず独立を回復する」との引用をしながら、「魂の抜けた<魄・経済力と軍事力>だけで戦後の日本は生きようとしてきたのではないか」と。

    

 さらに続けて、「<真の>アジア主義者が再生する可能性の少ない時代に、われわれは生きている。しかし、21世紀にこそ、真のアジア主義が再生しなければ、日本民族は、ますます不幸になるのである」とまとめている。

 昨今、欧米型民主主義の在り方が問われているが、それの対抗軸としての真のアジア主義の価値はそれなりにあったのではないか、と思える。アジアを市場としてしか見てしまいかねない大勢のなか、中国との連帯を深く進めてきた竹内好の出番・再評価を検討しなければならない。

             

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世界でも珍しいという茶色い翅

2023-08-23 22:35:45 | 生き物

 夕飯を食べ終えてけだるい眠気と戦っているとき、突然大きな音を立てて闖入した者がいた。アブラゼミだった。アブラゼミは目が悪いのか障子に何回かぶつかりながら灯火を目指していた。放っておくとうるさいので捕まえることにする。

           

 アブラゼミは茶色い模様の翅だが、世界のセミは透明な翅であるのが普通だ。日本でも透明な翅のセミが多数派だ。オラの感覚では、セミというと茶色いアブラゼミがまずイメージされる。都会の覇者はアブラゼミだった。最近はその勢力地図も変わってくるほどにアブラゼミが少なくなりつつあるという。湿気を好むアブラゼミは、地球温暖化の影響か、広がる乾燥化に対応できなくなってきているのかもしれない。

          

 その翌日だったか、庭にいた和宮様が「大変じゃぞ、セミが捕まっておるぞよ」と叫んでいる。まさか、昨日釈放したセミではないだろうなとは思いながら、現場に直行する。すると、メスらしきアブラゼミがカマキリに捕まった瞬間のようだった。オスなら大騒ぎするところだが、もう観念していたようだ。

       

 翅をしっかり捉まえてこれから悩殺して頭から食べようとする直前だった。残念ながらそれを目撃する余裕を作れなかったが、一般的には野鳥による捕食が多いらしい。セミにとって地中にいる数年間が最も安定・安心な環境なのだが、地上で生きる現実はせちがらい。人間だっていまだにそうなのだ。

 ちなみに、アブラゼミの名前の由来は、身体の油っぽさではなく、その鳴き声が揚げ物を揚げている音に似ているからという説の方が有力のようだ。メスは鳴かないから、メスを呼ぶオスの鳴き声の必死さがつらく聞こえてくる。いのちをリレーしていくのは日本人の現在では難しくなっている。それは昔より今日のほうが進歩していると言えるのだろうかと考えてしまう。

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油断大敵だ…

2023-08-21 22:29:10 | できごと・事件

 夏は携帯用蚊取り線香が必須だ。外作業でこれなしだと蚊の餌食になることは確かなのだ。とくに夕方は危険ゾーンとなる。しかも、夜には部屋でも点火するから、一日に蚊取り線香二巻き以上は消費するので当該企業には大きく貢献している。それでも、体のどこかが痒いから始末が悪い。虫刺され薬は常備薬の王座を占めている。

       

 ところが先日、作業が終了して腰に巻いた携帯用蚊取り線香を取り外そうとしたところ、ヌルヌルしたものが指に当たった。すぐにこの感覚はヤマビルであることが分かった。雑草の海にいたことは確かだからさもありなんだが、素肌を露出していなかったのが幸いだった。

          

 このところ、農作業が終わり汗だらけの作業着や下着を取り換えたときヤマビルに食われることがある。つまり、ヤマビルが服に付いていて白い素肌を見せたときが危険であることが分かった。ヤマビルの猛威は、里山の荒廃と関係する。里山の落葉掻きをしなくなったこと、野生動物の進出、森の荒廃が原因と考えられる。

 オラが子どものとき、小池という釣り堀が近くにありそこで太めの「チスイヒル」に吸われたことがあった。これは医療用としても活用されているようだが、現在では農薬の使用により激減しているようだ。35度以上だとヤマビルは絶命するらしい。このところの気温の灼熱化でそれを期待したいが、落葉の陰にいれば絶命は避けられるから、こりゃー、甘い考えだった。  

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台風一過の中で

2023-08-18 21:43:13 | できごと・事件

 台風6号・7号の長い大雨の連続は人間のパターン化した行動にストップをかけた同期性がある。それは従来の常識なるもの、当たり前とされる人間の行動に異議申し立てをするものだった。忙しい仕事・自然破壊・戦争・拝金主義・新自由主義の格差などにそろそろ大手術のメスをいれるべきだという啓示なのかもしれない。むかしで言えば「祟り」だ。

 台風の雨水を溜めてみたら285mmもあった。これだけ降ったら土砂崩れや交通障害は起こるのは当然だ。

   

 わが家に隣接する道路はささやかな川となっていた。ひどいときは200mm~300mmになるときもあるから、今回はわが地域はなんとか持ちこたえたと言えたのかもしれない。そんな中でも、茶の樹やアジサイの上に「コバノボタンヅル」が悠々と綺麗な花を咲き誇っている。じっくり見るとなかなか見事な花なのだが。

         

 久しぶりに、「タカサゴユリ」の開花を観る。台風前には蕾だったが、台風を合図に開花したみたいだ。タカサゴユリは10年前には群落ができるくらい咲き誇っていたが、近隣からもだんだん姿が見られなくなった。テッポウユリより花は大きく力強いが、侵入外来植物としてマークされてもいる。

  

 石垣の下はドクドクと雨水が溢れて夕方になっても衰えない。これを耐え切れないとまさに土砂崩れになってしまう。石垣に隙間があったことが幸いしている。ただし、ときどき蛇が顔を出すこともあるけどね。

          

 その石垣に「キセルガイ」を発見。いつも棲息しているところは決まっているが、雨の日かその翌日かでないと出会えない。石垣に含まれる石灰を食べているらしいが、貴重な陸貝でもある。かくのように、台風の中でも力強く生き抜いている生き物がいる。もちろん、雑草もそれ以上に元気なので、明日から草刈りに本腰を入れないと開通したはずの道がまた消えてしまう。トホホ…。

 

  

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地域防災隊出動💪

2023-08-16 23:43:12 | 出会い・近隣

台風7号が来る前にということで、急遽、地元衆が先週11日午前8時に集合する。すでにそこには、スコップや砂や土嚢袋が用意されていた。自治会役員や組長・消防団などの事前の準備が万端であることがわかる。さっそく、土嚢袋に砂を入れる作業が開始される。全部で150袋以上は作っただろうか。汗が流れるのがわかる。

              

 軽トラックに分乗して土嚢とともに現場に急行する。林道もかなり荒れていてトラックの振動も半端ではない。この林道は水道の水源へ行く道でときにライフラインの要ともなる。現場の林道には20mほどの亀裂があった。ここに雨水が沁みていけば土砂崩れとなるのは時間の問題でもある。民有地でもあるので行政はすぐには動いてくれない。

             

 まずはブルーシートを広げ雨水が浸透しないようにシートを敷いていく。そこに、風や雨でシートが飛ばないよう、また雨水の進路を考慮して土嚢を置いていく。100袋でも足らず、もう50袋以上を追加して軽トラックでピストン輸送する。その間に落ちた枝葉や石などを除去し林道の清掃をする。集落の水道は沢の水から取水しているので、ときどき当番が水源に点検しに行く。

   

 集落の主要な顔ぶれが集まったためか、2時間強くらいで作業は終了する。中山間地で生きる人々の作業効率の素早さに、よそ者のオラはただ指をなめるだけだった。作業は仮設だが、本格的には自治会を中心に公的な支援をすでに要請している。

 台風7号は鳥取や富士山周辺では猛威をふるっているようだが、最近の被災状況は今までにない事態が始まっている。オラの経験則からしても国道の土砂崩れは頻繁になってきたのは間違いない。従来だと数か所だった災害がここ数年では10か所以上にもなっていて、規模も大きい。地球温暖化や人類の環境破壊を阻止する活動ができるかどうか、SDGsのささやかな行動に対して自分では何ができるかが問われている。その意味で、江戸の暮らしの先進事例にも学ばなければならない。進歩することが絶対ではない。自然とともに牛歩に生きる、そんな時代が来ているのでは。

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戸袋にも風雪の歴史あり (2)

2023-08-14 18:56:02 | 路上観察

   建築にはまったくの門外漢のオラだが、以前から「建築探偵」として研究室からフィールドワーク重視をしていた建築史家・藤森照信氏に注目していた。先駆者の今和次郎をはじめ、藤森氏とともに活動していた赤瀬川原平・南伸坊らの路上観察に共感もし、今やブームとなったマンホールなどの観察をオラも30年前ごろ始めていたのだった。その影響か、戸袋のデザインの小さな違いが面白くなって場末の品川・大井中央通り商店街をうろついたというわけだ。

   

 歩いてみると、和風フレームに細石を塗りこんだモルタルが多いのに気が付いた。左から、寿司屋・運送屋・八百屋だったが、共通しているデザインは和風デザイン枠を太くして漆喰などで塗りこんでいることだった。この商店街の左官職人は同じだったのではないかと想像する。美的センスはいまいちでシンプルで似たようなデザインが多い。

  

 左は商売をやめた「しもたや」のようだが、戸袋の色はウグイス色、中央は陶器店で戸袋の色は黒っぽいダーク。右は美容室で、戸袋は和風枠デザインというより枠はすべて直線で、中央に横の直線も入っている。藤森氏が調べた看板建築はいずれも江戸っ子らしい心意気のこもった模様入りの銅板などの戸袋だった。それに比べ、いかにも都会の場末にある静かな商店街のたたずまいがここに漂う。時代は高度経済成長を遂げた日本の「豊かさ」の中で、ここに残されたワンテンポ外れたサブカルチャーが活きている。そしてバカボンのパパが言う。「これでいいのだ」と言ったんだけどね。

  

 その意味で、単純なラインだけの戸袋デザインもあった。左から、蒲団屋・洋品店・貸本屋だった。「看板建築」は、関東大震災の後、バラックの商店をとりあえず建てて、一階が店、二階が自分たちの住まいとしたいうのが由来のようだ。したがって、正面から見るとドラマのセットのような平面的な装いが特徴。戸袋が木造からモルタルになったのも、大震災や戦災からの教訓で「防火」という需要があったようだ。

            

 また、あずき色のダイヤのデザインのある戸袋が隠れるようにしてあった。ここは旅館かアパートだったか。さらに、縦縞二本模様のシンプルな戸袋は呉服屋だった。

 特徴ある戸袋は、木材3軒・スチール6軒・モルタル12軒(うち和風デザインは6軒)の、計21軒だった。地域的には、大井や山王の高級住宅街も背後にあるが、近くには旧国鉄大井工場や役所もあり、郊外の楚々とした労働者街の雰囲気がある。

 都会の中心地区の豪快な看板建築は、地上げ屋の恫喝や不審火で消滅の運命となり、それに代わり、いまやビジネスビルやマンションへとドラスティックに変容してしまった。街はまさに収益のための装置となった。したがって、この看板建築は絶滅危惧種となったわけである。いま、この大井中央通りの商店街がどう変わっていったかは確認できていないが、間違いなくモルタルの戸袋はアルミやサッシに交代させられただろう。

 その意味で、今となってはこの路上観察は一時活躍した戸袋のささやかな晩歌になったのではないかと思う。

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戸袋にも風雪の歴史あり (1) 

2023-08-11 23:37:00 | 路上観察

 戸袋の写真が出てきた。もう使うことはないとゴミ箱に捨てたが後味が悪い。それでもう一度それを取り戻して再検討してみた。戸袋や雨戸は海外ではあまり見られないそうだ。雨戸は平安・安土桃山時代にルーツがあるようだが、それが一般庶民が利用するようになったのが江戸時代だ。

 当然、和風建築に戸袋がかかせないが、その素材は、木材・銅板・漆喰が使われた。画像左側は民家だったが、見事なデザインの木製戸袋(S)だった。今ではなかなか見られない。この写真を撮ったのは1980年代の品川大井中央通り商店街。今見ればかなり変わってしまったか、なくなってしまったかとしか考えられない。

 中央の板張りの戸袋は8枚の妻板(R)からなる。こちらも右の民家の並びのそばだとは思うが場所を正確には特定できていない。また、画像右側は果物屋(E)だった。こちらは12枚の板からなる「妻板」戸袋で、おそらく住居だったに違いない。

   

 商店街の中でも、比較的新しい金属製の戸袋もあった。当時としては時代の先端だったに違いない。1950年代からスチール製の戸袋が出始める。1960年代にはアルミ製が始まっていく。商店街としてはモルタルが圧倒的に多かったがそれは次回の楽しみに。

 縦縞のスチール製戸袋があった。左の店は新聞販売所(H)だった。右はお弁当屋さん(M)だった。中央はスチールに吹き付けしたものと判断したが素人なので間違っているかもしれない。店は意外にも海苔屋さん(O)だった。

 

   

  スチール製の横縞もいくつか散見された。左は赤茶色に塗装された歯医者さん(F)だった。中央は民間のアパート(G)で当時としてはモダンな様相だ。右は鉢物を愛しているらしい板金屋さん(Q)だ。今でも当たり前に見える風景だがひび割れの弱点があったモルタルを克服した画期的な戸袋でもある。      

 

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一杯5千マルクの珈琲を飲み終わったとき8千マルクに!?

2023-08-09 23:25:56 | 歴史・文化財

  引き出しの奥から突然現れたドイツの紙幣。なぜ、そこにあったかは全くわからない。高齢の兄が医者を志していた時、ドイツ語の歌を歌っていたのを想い出す。医者はドイツ語が必須だった。その関係で入手したのだろうか。いかにも古そうな紙幣だ。数字を見るとどうやら100,000マルクの紙幣。ずいぶん、高価な金額だ。これはひょっとすると、と生ツバがうごめく。

          

 くたびれた紙幣の裏側には、確かに10万マルクとでっかく表記してある。さっそく、調べてみたら1923年2月1日、ドイツ・ワイマール共和国が発行したものと判明。第一次世界大戦で敗戦国となったドイツに1320億金マルクの賠償金が課せられた。開戦当時、1米ドルが42金マルク(1914年、金本位制)だった。政府は賠償金などの財政赤字解消のため紙幣を増刷したためハイパーインフレとなった。そのため、1923年1月に1ドル=7525マルクだったものがどんどん膨らみ、11月には1ドル=4兆2千億マルクにまで暴落。

           

  「一杯5000マルクの珈琲が飲み終わったときには8000マルクになった」という話はその意味で真実味が増してくる。発行された紙幣が子どものオモチャや古紙に使われたとか、餓死者も出たほどだとかの事例にも首肯できる。

 しかし、「レンテンマルクの奇跡」が起こった。当時の1兆マルクを1レンテンマルクと交換するとした金融政策を実施することでハイパーインフレを見事に克服させる(通貨の桁数を減少させたデノミネーション)。「レンテン」とは地代のことで、土地を担保に通貨の信用を回復させた。

 ただしその後の1920年、ヒットラー・ナチ党登場を許してしまうフラストレーションの素地ともなる。

          

 10万マルク紙幣に描かれた人物は誰だろうかと気になる。この若くて聡明そうな鋭い目線は、現実の困窮の救世主になったのだろうか。謎解きを始めたところ、彼は英国を中心にヨーロッパで広く活躍を始めた「ゲオルグ・ギーゼ」(1497~1562)という新興の商人であるのがわかった。しかしそれ以上の業績のわかる情報は得られなかった。日本で言えば渋沢栄一ということになるのかも。

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