建築にはまったくの門外漢のオラだが、以前から「建築探偵」として研究室からフィールドワーク重視をしていた建築史家・藤森照信氏に注目していた。先駆者の今和次郎をはじめ、藤森氏とともに活動していた赤瀬川原平・南伸坊らの路上観察に共感もし、今やブームとなったマンホールなどの観察をオラも30年前ごろ始めていたのだった。その影響か、戸袋のデザインの小さな違いが面白くなって場末の品川・大井中央通り商店街をうろついたというわけだ。
歩いてみると、和風フレームに細石を塗りこんだモルタルが多いのに気が付いた。左から、寿司屋・運送屋・八百屋だったが、共通しているデザインは和風デザイン枠を太くして漆喰などで塗りこんでいることだった。この商店街の左官職人は同じだったのではないかと想像する。美的センスはいまいちでシンプルで似たようなデザインが多い。
左は商売をやめた「しもたや」のようだが、戸袋の色はウグイス色、中央は陶器店で戸袋の色は黒っぽいダーク。右は美容室で、戸袋は和風枠デザインというより枠はすべて直線で、中央に横の直線も入っている。藤森氏が調べた看板建築はいずれも江戸っ子らしい心意気のこもった模様入りの銅板などの戸袋だった。それに比べ、いかにも都会の場末にある静かな商店街のたたずまいがここに漂う。時代は高度経済成長を遂げた日本の「豊かさ」の中で、ここに残されたワンテンポ外れたサブカルチャーが活きている。そしてバカボンのパパが言う。「これでいいのだ」と言ったんだけどね。
その意味で、単純なラインだけの戸袋デザインもあった。左から、蒲団屋・洋品店・貸本屋だった。「看板建築」は、関東大震災の後、バラックの商店をとりあえず建てて、一階が店、二階が自分たちの住まいとしたいうのが由来のようだ。したがって、正面から見るとドラマのセットのような平面的な装いが特徴。戸袋が木造からモルタルになったのも、大震災や戦災からの教訓で「防火」という需要があったようだ。
また、あずき色のダイヤのデザインのある戸袋が隠れるようにしてあった。ここは旅館かアパートだったか。さらに、縦縞二本模様のシンプルな戸袋は呉服屋だった。
特徴ある戸袋は、木材3軒・スチール6軒・モルタル12軒(うち和風デザインは6軒)の、計21軒だった。地域的には、大井や山王の高級住宅街も背後にあるが、近くには旧国鉄大井工場や役所もあり、郊外の楚々とした労働者街の雰囲気がある。
都会の中心地区の豪快な看板建築は、地上げ屋の恫喝や不審火で消滅の運命となり、それに代わり、いまやビジネスビルやマンションへとドラスティックに変容してしまった。街はまさに収益のための装置となった。したがって、この看板建築は絶滅危惧種となったわけである。いま、この大井中央通りの商店街がどう変わっていったかは確認できていないが、間違いなくモルタルの戸袋はアルミやサッシに交代させられただろう。
その意味で、今となってはこの路上観察は一時活躍した戸袋のささやかな晩歌になったのではないかと思う。