山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

景清と宮宿との結縁

2024-11-29 22:15:51 | アート・文化

 歌舞伎十八番の「景清」が東海道53次の「宮宿」にいた。宮宿と言えば名古屋の熱田神宮の門前町・港町にある。伊勢参りへの旅人もにぎわう東海道の中心的宿場町でもある。原画の広重の浮世絵には、「御馬塔(オマント)]という作物の出来を占う競走馬をはやす半纏チームが描かれ、近隣の町村が馬を奉納する「馬追祭」神事が中央に配置されている。裸馬に菰を被せてはやし立てている庶民の顔が緩んでいる。画面の天地には墨色が塗られ、火を焚いている様子も描かれているのでこれは夜の時間軸であることがわかった。また、右の鳥居は熱田神社のある現在地を暗示している。(画像は東京伝統木版画協働組合webから)

  

 三代目豊国は広重の錦絵を背景に援用して、源平合戦で源氏を苦しめた勇猛な武将・平景清を登場させている。景清は歌舞伎・人形浄瑠璃・能・落語などの主人公としてヒットする。それは「景清物」と言われる地位さえ確立している。実在した歴史的人物だが、ときの権力にストレスを感じていた庶民にとっては反権力のダークヒーローともなり、日本の各地に広範囲に伝説となっている。

  (歌舞伎事典webから)

 さて、景清と宮宿とのかかわりだ。壇ノ浦の戦いで敗れた景清は熱田神宮に隠れ、神社の姫と結ばれる。しかし、頼朝殺害を企み、秘密の宝を知る罪人として捕縛され牢に閉じ込められてしまう。その牢の目の前で妻と娘が過酷な折檻をされてしまう。それを我慢していた景清はついに牢を破戒して妻子の解放を遂げる、という歌舞伎の真骨頂「荒事」が仕組まれる。

  

 この豊国の役者絵は、八代目市川團十郎(1823-1854)を描いている。八代目は、粋で色気もあり、上品であるところから絶大な人気があったが、32歳の若さで原因不明の自殺をしてしまう。先代の名優「七代目」が生涯で5人の妻がいたり、子どもが12人もいるなど、その奢侈な暮らしに天保の改革の影響で自宅が壊され、江戸追放となるなど波乱万丈の生涯を送った。そのため、若くして突然「八代目」になった團十郎は、筋を貫徹する性格のためか家庭でも孤立し、そうした環境に適応できなかったのかもしれない。

 そんな背景を踏まえたのか、景清の「隈取」は、上半分が紅色の筋で激しい怒りを表し、下半分が藍色でやつれた悲壮な心境を表している。景清と八代目をダブらせているのかもしれない。

 

 この豊国の「役者見立て東海道」の役者絵を最初に見たときに、右上の景清と書いた表題が神社の扁額だとは気が付かなかった。よく見るとその後方に鳥居もあるのを後でわかった。浮世絵が仕掛けられた謎解き絵でもあるのを実感する。

   

 版元は幕末の「井筒屋」庄吉。彫師は天才と言われた「小泉巳之吉」(1833,天保4~1906,明治39) の「彫巳の」プロである。とくに髪の毛の細さは筆で描いたような繊細さで世界を驚異させた。このさりげない所の上に、二つの印がある。それは名主2名の検閲印だとわかった。ひとりは「浜弥兵衛」であるのは解明できたが、その隣が解読できなかった。おそらく、「村松源六」ではないかと推察する。

  (丸印の中に干支と数字の月)

 これらの印からこの錦絵がいつごろのものかがある程度特定できるという。つまり、「極」印を使った時代(1791-1815)、名主の「単印」の時代(1843-47)、名主印が二つの時代(1847-52)、名主印2個と「年月印」の3個の時代(1852-53)、「改」印と「年月印」の時代(1853-57)、「年月印」ひとつの時代(1858)、一つの円の中に「十二支・数字・改文字」がある時代(1859-71)、十二支と数字による年月印のみ(1859-71)、という8期に分れる(吉田漱氏による分類)

 本錦絵は、「子五」つまり「子(ネ)」の年の5月に許可されたもの。それに名主印2個の計3個の印がある時代ということで、嘉永5年(1852)~嘉永6年(1853)の間に発行され、嘉永5年5月に発行されたのがわかる。浮世絵にはこうした謎解きが満載しているから面白い。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生の軋轢・欺瞞を運ぶ電車!?

2024-11-08 22:10:40 | アート・文化

  オラが若いとき、校内の演劇部が「欲望という名の電車」を上演するという目立たない看板があって、気にはなっていたが観に行かなかったことがあった。そんなこともあって、ブロードウエイ(1947年初演)で爆発的に評判となった作品をDVDの映画版でやっと見ることになった。

 

 裕福な地主の実家で育った姉・ブランチ(ビビアンリー)は破産者となっていて、妹の住むニューオリンズに転がり込む。しかし、そこは暴力的で粗野な労働者の夫・スタンリー(マーロンブランド)がいる狭い長屋だった。二人の育った環境の違いは、アル中気味だったブランチがどんどん追い込まれていき、近所のミッチとの結婚に望みをかける。しかし、その幸福は無残にも壊れ、ブランチは過去の裕福な幻想の世界にしか生きられなくなる。

 

 その経過は、近松浄瑠璃の心中物へのストーリーに似ている。その意味で、西洋も東洋も包含した作品の人間の真実を描いた不朽の名作だということにもなる。映画の公開は1952年。第二次世界大戦が終わり、戦勝国アメリカは超軍事大国(今もそうだが)となった。大量生産・大量消費が始まり、中産階級の生活が向上するが、南部では「黒人差別法」が生きており、人種隔離がフツーにあり、工場地帯と農地プランテーションとの桎梏もあった。

 

 貴婦人の洋装を変えられない姉と下着だった汗まみれのTシャツのスタンリーとの対照的な服装は、南部のいやアメリカの現実・価値観の格差を象徴するものだった。問題の社会的深刻さをブランチの精神的病いへと追い込むことで、ブロードウエイやハリウッド、そしてアメリカの繁栄の病巣、さらには人間の醜さ・欺瞞に釘を刺した意欲的な作品となる。

 

 ビビアン・リーの鬼気迫る演技にアカデミー賞主演女優賞をはじめ、監督賞・男優賞など4部門の受賞となる。それは能天気なハリウッドの映画にも骨太な影響を与える。名作「エデンの東」も描いた監督のエリア・カザンらは1947年、俳優養成所「アクターズ・スタジオ」を創設し、映画・演劇界の超有名な俳優を次々掘り出していく。しかし、米ソ冷戦の影響から、マッカーシズム旋風がハリウッドをも襲い、カザンやチャップリンらも生贄になってしまう。そこから、体制に順応するか、沈黙を守るか、逃避するかなどの選択が問われていく。

   (<ZUTTO>webから)

 脚本の「テネシーウィリアムズ」の家庭環境は、この「欲望という名の電車」そのものと言っていいほどの現実だった。だからこれはリアリスティックなストーリーにならざるを得ないわけでもある。それほどに、アメリカの階級社会の現実はまだまだ解消されていない。トランプを大統領に再選させた背景の本質を考えると、本映画の迫力の根源とつながる思いがしてならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪人は悪人らしい?リアリズムへと

2024-11-02 21:33:47 | アート・文化

 1828年(文政11年)、幕末に近い文化・文政時代に発行された役者絵、五代目松本幸四郎の錦絵を見る。四谷怪談で有名な鶴屋南北が実際の事件をヒントに書き下ろした「絵本合法衢(ガッポウガツジ)」の歌舞伎公演からの一場面だ。鶴屋南北は、従来の町人生活を描いた「世話物」や有名な歴史劇の時代物」に飽き足りず、最底辺に生きる都市のリアルな人間・世相を暴いた「生(キ)世話物」やおどろおどろしい「怪談物」のジャンルを開拓した。

 さらには、早替わり・宙づり・戸板返しなど奇抜な演出「ケレン(外連)の活用」で注目を浴び、また悪事を冷血に行い相手を残忍に殺してしまう美しい二枚目を登場させてしまう、当時の歌舞伎界の革命児である。

  

 それを体現したのが五代目松本幸四郎であり、五代目岩井半四郎らの錚々たる名優たちだった。この絵は特大の鼻を持つ幸四郎の特徴を絵師の「国貞」(三代目歌川豊国)の技量がよく表現されている。この役者絵は、「たて場の太平次」という街道筋の人足の姿でどうやら人を殺めようとしたときの場面のようだ。背景の黒い渦はこれから起きる危うい空気か、または次の画像にある火との関係があるのだろうか、観劇していないのでわからない。

  

 どちらの絵にも松の枝の残骸があるが、劇の内容を知らないとその意味が分からない。かように、役者絵は読み解きがあるパズルなのだ。上の画像の「孫七」(坂東三津五郎)も妻ともども返り討ちに合って殺されてしまう。『合法衢(ガッポウガツジ)』の「合法」とは最後に幸四郎らへの仇討ちに成功した側の人名で、「衢」とは辻・分かれ道であるのがわかった。登場人物も多く、ひとり二役であることもあり、見る側もかなり集中しないとわかりにくいのではないかと思われた。

 

 松本幸四郎・太平次の着物は縞模様のシンプルな柄だ。これには幕府の奢侈禁止令の影響があったのかもしれないが、上等な衣服・デザインであることがわかる。西洋での縞模様は異端者が着るもので不吉な対象だったというが、日本では縞模様に工夫が練られ、体のラインをスレンダーに見せる「江戸の粋」を発揮する柄でもあった。その縞柄衣服の上側には、縦横線が交差する「弁慶格子」模様がさらりと描かれている。歌舞伎にはしばしばこの柄の衣服が止揚されている。シンプルだが強烈な柄として愛用されている。

 幕末を控えた当時の閉塞の時代は今日の日本や世界の混沌とした世相と似ている。そんな中だからこそ、リアリストの鶴屋南北や歌舞伎の極道路線の先陣性が庶民の不安感を巻きこんだ。

 

 画家の国貞は、「五渡亭(ゴトテイ)」を名乗っているが、かつて江東区亀戸の「五の橋」際に住んでいて、その渡し船の株をもっていたので、川柳の太田南畝(ナンポ)から贈られた画号だという。国貞が生まれた亀戸駅近くに「三代豊国五渡亭園」という庭園が現在観光スポットになっている。国貞(三代目豊国)は、当時の写楽や北斎より人気のある画家で、作品数も1万点を越える巨匠でもあった。

 冒頭の役者絵も該当する絵が結局探索できなくてずいぶん苦労した。さらにその版元の「山に大」マークも見つからなかった。これらのことから、世界から注目されている浮世絵が日本での研究がかなり遅れていることをまたもや痛感する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぎこちない言い訳する熊五郎を温かく

2024-10-19 21:57:26 | アート・文化

 柳家小三治の古典落語の人情噺「子別れ①②」をCDで聴く。と言っても、いつものように車の運転をしながらだけど。一般的には、子別れは「上中下」の三部構成の長編大作だ。「上」編は主人公の大工・熊五郎が弔いに行くと言って酒びたしのまま吉原へ、「中」編は4日間吉原にいてから帰宅して妻と大喧嘩して離婚、「下」編は改心した熊五郎が息子と会う、という流れ。本CDはそれらを2枚のCDに編集している。

 

 1枚目のほとんどが、酔っぱらいの熊五郎オンリーパレードだった。ほかの落語家ではできないような迫真の酔っぱらいが充満する。ストーリーというより得意の「まくら」のようなノーマルなさりげない語りに笑いを誘う、これだけで見事な名人芸だった。このダメ人間再生物語は、名作「芝浜」と似ているストーリーだ。本作は、幕末に活躍した初代春風亭柳枝(リュウシ)の創作落語で、それが現在にまで受け継がれていったというから、古典落語にふさわしい重厚な題材でもある。

 

 最近では、春風亭小朝の愛弟子の「五明楼(ゴメイロウ)玉の輔」や金原亭伯楽が「下」編を演じた「子は鎹(カスガイ)」や、おなじみの「立川志らく」の「子別れ」も見聞きしたが、小三治が笑いを取った同じものを彼らが演じても笑いが取れない余裕のなさが残念。ただし、酔っぱらい役がいまいちだった「志らく」が、言い訳がましい熊五郎が息子の亀吉や妻からの問いにどぎまぎしてしまう姿が好演だった。志らくの優しいまなざしがにじみ出ていたのが出色。

 いっぽう、古今亭志ん朝の「子別れ」は聴衆の心に届く歯切れの良さはさすが天才肌が良く出ていた。泣いてしまった聴衆もいたという。小三治・志ん朝・五代目圓楽・談志らの落語を聞いてしまうと筋を追うだけの若手の落語家の凡庸さが残念ながら際立ってしまう。

  

 小三治の熊五郎は本当の酔っぱらいに聞こえたほどの名演技であるとともに、人情噺の中にもしっかり笑いを加味しているところはさすがの人間国宝だ。人間のちょっとした所作や機微を見逃さないディテールが強みだ。前編の熊五郎の泥酔と吉原遊びから後編の妻子との再会での熊さんのどぎまぎの変化が人情噺の深みを醸し出している。小三治の代表作と言ってもよい長編噺だ。五代目圓楽だったらいかように演じたか聞きたかったが、酒をやらない圓楽には難しかったに違いない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリカンドリームの金字塔

2024-10-05 21:27:25 | アート・文化

 雨続きの日々、ついでながらミュージカル映画の金字塔と言われる「雨に歌えば」のDVDを観る。かなり前に観た記憶があるが、これが1953年上映された傑作であることをあらためて思い直す。というのは、70年以上も前に上映されたものだが、そのミュージカルのスキルはまったく色褪せていないということだった。とくに、タップダンスをはじめとする踊りの超絶スキルは今見てもアクロバティックでコミカルな新鮮さがあった。

 

 主人公を扮するジョン・ケリーは、監督・脚本・演出・振付・踊り・歌と完璧な力量を発揮するが、その相棒であるドナルド・オコナーの踊りの切れもまたケリーをしのぐほどの圧巻でもあった。アメリカンドリームを想起するスタジオに配置された家具・家電用品・インテリア・ピアノなどの調度品の充実は、戦勝国そのものの象徴でもあった。また、ハリウッドらしい華麗な衣装・当時は先進だったクラシックカーの登場・ビリヤード・絵画など、それらを大量生産・大量消費を旨とする資本主義経済の荒々しい華麗なセットでもあった。

 

 そうした背景は1950年代のアメリカの経済発展と上流階級の生活モデルが中流階級へと広がる「アメリカが最も輝いていた時代」だった。同時にそれは、主要なメディアはラジオからテレビへとそしてそれはテレビ・ソファのあるリビング中心のライフサイクルへの変転でもあった。本映画は、サイレントからトーキーへと変わる裏方の苦労が出てくるのも見どころでもある。

 銀幕では、マリリンモンロー・ジェームスディーン・マーロンブランド・オードリヘップバーンなどが活躍していた。また、音楽界では、エルビスプレスリーなど人種を超えたロックンロールが登場する。

 

 本映画は上映された当時は今ほど評価は高くなかったが、その後じわじわとそのクオリティの高さが見直され、2006年アメリカ映画協会が100周年記念で「アメリカ映画史上もっとも偉大なミュージカル」として発表された。

 舞台ではできないような有名な雨の中でのシーンでは、クレーンによるカメラワークのショットも斬新だった。「雨に歌えば」の歌詞では、「雨に歌えば 心は浮き立ち幸せがよみがえる 大空を覆いつくす雨雲を笑い飛ばし 心には太陽が輝き 恋の予感がする」というのがあったが、それを雨の中で表現した長い踊りのシーンは確かに圧巻だ。

 

 しかし、時代は長い冷戦がはじまり、マッカーシー旋風の「赤狩り」はハリウッドにも吹き荒れ、チャップリンも追放される。人種差別の横行は差別撤廃運動として市民運動になっていく。最近になってハリウッドの人種差別やアカデミー賞の白人至上主義がやっと取りざたされるようになった。本映画のキャストには、有色系人物が除外されているのも気になる。

 映画の中の「ブロードウェイメロディ」という歌では、「ブロードウェイにしかめっ面は合わない ブロードウェイには楽しいピエロを 悩み事なんてはやらない ブロードウェイは常に笑顔があふれている 無数のライトが輝く中で 無数のハートが鼓動を早める 劇場の街の上にはいつも青空があり これぞブロードウェイメロディ」という歌が披露されているが、なんとも能天気な歌詞と言わざるを得ない。ハリウッドの華麗な装置の裏にはアメリカの深い闇があることを忘れてはならない。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

対照的な怪談話の絶好調

2024-09-28 17:56:32 | アート・文化

  5代目圓楽の特選落語集のDVD全4巻をやっと入手した。発行はNHKエンタープライズだけに画像は鮮明で解説もついている。今まではCDだったので圓楽の表情や所作はわからなかったが、まずは、1977年上演の「お化け長屋」を見てみる。そこには三遊亭圓楽の卓越した江戸庶民の世界があった。 同じ表題の立川談志の映像もTVで見たが、話術の勢いやテンポの速さはやはり名人芸の域でもある。しかし、5代目圓楽の話術は相手の心に届けようとする「間」と人間力が名人芸と言ってもいい。噺の隙間に笑いが止まらない絶好調の噺だった。

 

 談志は若者向けにはぴったしのスピーディな江戸の粋が出ているが、悪く言えば下品だ。圓楽は高齢者にも響く丁寧な語りの魔術があり艶やかさと上品さが漂う。オラが小さい時、近所に大陸からの引揚者の長屋があった。江戸の長屋よりもっと狭い住宅だった。でも、そこに住んでいる人たちの朴訥さは圓楽滑稽噺に出てくるような面々でもあった。

 さて本題に戻ると、空き室を倉庫代わりにしていた長屋の住人たちは、大家がその家を他人に貸し出すというのを阻止するために、幽霊が出るからと借りたい人を追い払う。しかしそううまくいかないのが人生であり、この噺の旨味だ。

  (画像は墨田区立図書館webから) 

 次の、「豊志賀の死」の噺は、原作は茨城で実際にあった殺人事件をヒントに創作した初代三遊亭円朝の「真景累ヶ淵(シンケイカサネガフチ)」という怪談話の一節だ。「豊志賀(トヨシガ)」は独身の浄瑠璃・富本節の女師匠31歳。そこに内弟子入りした21歳の「新吉」とやはり弟子のお久、ここから怨念や嫉妬が絡まる凄惨な事件へと陥っていく。

  

 これは、歌舞伎・演劇・講談・映画・漫画などにも取り入れられ、多くの落語家も挑戦している。「お化け長屋」の面白さとちがってこちらは本格的な怪談話。圓楽はそこに深入りせずに、「年増女と枯れ木の枝は、登りつめたら命がけ」という都々逸の飄逸さを紹介しながら、怪談の深刻さをいなしていくのが見ものだ。前半は怪談話というより、幽霊は標準語でないとしまらないというように笑わせているが、さすがに後半は怪談話に突入していく。

 

 「お化け長屋」で圓楽は、「本当は大家さんの方に理があると思うのですが、店賃を溜め込んで頭が上がらない連中の、報復なんです。でも、結局終わってみれば失敗だったという、いつものあれですね。」と、庶民に共感する圓楽がいる。

 「豊志賀の死」で圓楽は、原作はずうっと長く緊張感の連続となるので、そこにあまり笑いを入れると噺の邪魔になる、とその難しさ分析する。そこで、「新吉が好きになる女は七人まで取り殺す」という豊志賀の遺書を「オチ」にして、嫉妬の怨念と今後の凄惨な事件の余韻を残したまま切り上げている。二つの対照的な幽霊話が見どころ、聞きどころでもあった。 

   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「厩火事」から夫婦の契りを問う

2024-09-21 21:32:29 | アート・文化

 古典落語「厩(ウマヤ)火事」は物語の展開といい、中身の時代性といい、優れた噺として多くの落語家が演じている。生粋の江戸の落語で、文化4年(1807)、ネタ帳「滑稽集」に「唐の火事」を元にしたといわれる演目。最近では、三遊亭円輔三代目や桃月庵白酒がEテレで演じていて、ストーリーは外していないが物足りない。人間国宝の柳家小三治のきめ細かい描写は期待通りだ。

 夫婦喧嘩をする度に兄さんへやって来る髪結いのお咲きは、亭主の本心を知りたいと相談する。
 兄さんは、馬小屋の火事で白馬を失った中国の孔子と、皿を持ったまま階段を滑り落ちる奥様に驚いた麹町の旦那の話を比較して聞かせて、亭主の本心を試そうという物語だ。

 

 やはり5代目圓楽の視点が深い。「オチ(下げ)」は最高のブラックユーモアで誰もが同じ「オチ」ではあるものの、圓楽は、妻の「女性のはかなさ、哀れさというものが」際立っていて、また亭主の「半公」という稼ぎのない男の酷さに人間の本性を踏まえながら「オチ」にしている。

 当時の髪結いと言えば自立した羨望の職業婦人で、安定した暮らしができていたぶん、亭主は遊んで暮らせてもいたわけだ。その甲斐性のない亭主のあり方・性格をいかに演じるのかが決め手だと圓楽は言い切る。その意味で、この噺は「今後も多くの噺家が演じるでしょうけれでもやはりこの世に男と女がある限り、不滅の名作だ」と語る。

 

 『論語』(郷党篇)では、孔子の馬小屋が火事になって白馬が焼死したとき、「だれか怪我した者はいなかったか」と問い馬のことはなにも言わなかった、と言う。

 孔子がなぜ馬を問わなかったのか、この点について『新釈論語』(1947年刊)の穂積重遠(シゲトオ)は、「まず人を、次に馬を、と解する人があるが、それは考えすごしだ」と記している。つまり、責任問題の起こることを避ける意味で馬を不問に附されたのだ」と穂積は言う。

  (画像は国会図書館webから

 昭和24年12月28日、東宮仮御所が全焼したときのこと、殿下の留守中のことだったので、「身の回りの品を何一つ取り出せなかった」ことがあった。その時、殿下は「人にけがはなかったか」とおっしゃったきりであられたと言う。穂積はすぐにこの「論語」の話がよぎったという。(myコンテンツ工房/丸山有彦さんから)

 穂積重遠と言えば、まもなく終了する朝ドラの「虎の翼」に登場した穂高教授(小林薫)のモデルとなった日本の「現代家族法の父」である。渋沢栄一の初孫にあたり華麗な一族の男爵でもあった。

  

 古典落語に出てくる長屋のキャストには善人が多い。そこには口は悪くても性格破綻者でも仲間にしてしまう寛容な精神がある。金持ちや武士をコケにしてしまう庶民感覚が健在でもある。しかも、知識や常識でみんなをまとめる相談役の「大家」さんもいる。この落語を聞いて、一人前のおとなになっていくモラルというものが秘められてもいる。

 現代では、こういう笑いや知恵ではなく瞬間的な笑いをとるために汲々としている。その意味で、古典落語がお笑い芸人にジャックされたマスメディアになかなか登場しないところに落とし穴がある気がしてならない。同じお笑いでも本質的にこの違いが日本の文化の亀裂となっていく。

  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京に出てみたけれど

2024-09-14 21:06:46 | アート・文化

 1936年に公開された小津安二郎監督の映画「一人息子」を観る。満州国建国(1932)、国際連盟脱退(1933)という戦時背景は画面には出てこないが、製糸工場の女工であるシングルマザーの母・おつね(飯田蝶子)は生活苦を打開するには一人息子(良助・日守新一)だけが希望の星だった。

 担任教師の大久保(笠智衆)に「これからの時代は学問を身につけなければ、田舎でくすぶることになる」と言われて、おつねも一大決心をして良助を東京に出し、大学まで進学させる。そのため、結果的に息子の進学を応援し、東京で働くようになった息子を訪問するが。

 

 この辺りは、明治生まれのオラの親父の長男に期待する生き方と重なる。それに応えてオラの長男はエリートコースを邁進するが結果は赤貧の苦汁をなめてきた親父の期待を裏切ることになる。それはこの映画以上の残酷で運命のはかなさを末っ子のオラに見せつけることになる。それはまだまだ語れないが、監督がいわんとしていることと重なる。

   担任だった大久保先生も東京に行ったがわびしいとんかつ屋を、良助も安月給の夜学の教師となった。母のおつねも訪問したときの息子夫婦の親孝行ぶりには感動するが、生活の苦しい現実を知ることとなる。

 

 要するに、webの「note.com」(画像の引用のそこから)によれば、様々な作品を通して監督は「敗者の現実」を描いてきたのではないだろうか?という指摘に大いに共感する。 

 本作の冒頭には、『人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。』という芥川龍之介の「侏儒の言葉」を画面に引用していたが、その現実を映像の最後まで貫いていて希望をシャットアウトしている暗い作品になっている。そこに、33歳だった監督の早い「無常観」が直截に出ている気がする。それは戦争に従軍しても、戦後になってもその姿勢は変わっていない。

 

 立身出世して周りから評価されても、また安定した裕福な家庭をもてても、それが直ちに幸せを獲得しているとは思えない、というのがオラが見てきた人生の実感だ。その意味でも、この映画はそれをまざまざと見せてくれる。フィルム状態は悪く、画面の雑な飛躍が気になるが、戦後の小津映画のパターンはすでに出来上がっている。

 生活が苦しくとも、古典落語に出てくる長屋の明るさや人間模様の寛容さが素晴らしい、と思うし、さらにそこに、自然との苦くも共生や感謝が見つかれば生きる豊かさを実感できる。そういう根拠地を自分の足元に構築したいものだ。これからも、小津監督の無常感からそれをキャッチしたい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小津安二郎の様式美そのものの風景

2024-09-07 09:09:20 | アート・文化

  大雨が続いた台風だった。土砂崩れの情報が多かったので念のため寝る場所を山側から居間に変更した。このところ、ムカデの親子がしばしば出没するので簡易テントの中での家内キャンプだ。雨が多いとDVDの映画を見るチャンスでもある。1951年公開の小津安二郎監督の「麦秋」を観る。キネマ旬報ベストワンを誇った作品だ。監督は「人生の輪廻・無常を描きたかった」と言う。いつもの映像パターンからそれをいかに表現できるかが見どころだ。 (画像は松竹webから)

 

 

 小津安二郎の基本構図は、日本的な襖・障子・柱・窓の真ん中にちゃぶ台があり、箸でごはんやおかずを食べ、何気ない会話が交わされ、それをローアングルのカメラが追っていくというものだ。本作品もその通りのパターンだった。そして、今回はおしゃれな喫茶店が出てくるのがポイントの一つだ。小津作品には絵画がそれとなく出てくるが、今回は大胆でシュールな壁画が印象的であるのと、登場人物の和洋のファッションが見どころだ。

   

 海外のデザイナーが服装・場所・小物などのこれら和洋の組み合わせから、日本の美の緩やかさに注目しているという。原節子や三宅邦子らのファッションは当時としてはかなりニューモードな革新性があったと思われる。

 父と娘のとの会話で、康一・笠智衆「終戦後、女がエチケットを悪用してますます図々しくなってきつつあるあることは確かだね」、紀子・原節子「そんなことはない。これでやっとフリーになってきたの。今まで男が図々しすぎたのよ」という場面があったが、そこに戦後まもなくの当時を切り取って見せているのもさりげない。(上の2枚の画像は、「カイエ・デ・モード」から)

  

 また原節子のご飯を食べる所作の大胆な食べっぷりにびっくりしたが、ありふれた日常生活の中に違うリズムをひょいと投げ入れるのが監督の特異性と言えるかもしれない。オラが若い時は小津の映画を見てもいつも寝てしまっていたが、今見るとその斬新さというか熟成を感じ入る。さらに、子どものやんちゃな場面を挿入して淡々としがちな日常の画面にユーモアを撮り入れることも忘れない。

 監督の色紙には何気ない湯呑の絵に「車戸の重き厨や朧月」という俳句を発見したが、そんなところにも監督のまなざしがある。

 

  1937年に徴兵された小津は、中国戦線で毒ガス部隊にいて上海・南京などの主要都市の侵略にかかわり軍曹にも昇進。その後、軍部映画班員としてシンガポールに従軍、1946年帰還。そのあたりの戦場の阿鼻叫喚は黙して全く語らないが、「麦秋」では、次男省二の戦死という形でヒロインの紀子・原節子の結婚を決める背景になっている。戦火で見たであろう経験は作品の中では具体的に描かれず、家族という狭い小宇宙に安堵と陥穽と無常を刻んでいる。

 終章には、家族がバラバラになっていくなかでの、村の花嫁行列や麦畑を描写することで、日常生活の喜怒哀楽の中に人生の亀裂やはかなさを静かに諦観する監督のまなざしがローアングルでとらえている。東山千恵子の凛とした表情と悲哀とが作品の中での存在感を増している。原節子の美しい笑顔と東山千恵子の安定した重量感が対照的だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エアコンなくても涼を呼んだかつての叡智

2024-09-04 22:53:34 | アート・文化

 東団扇(アズマウチワ)とは、 江戸特産のうちわで、初めは割り竹に白紙を張っただけの無地のものをカラーなどの絵にした江戸うちわシリーズ。それを役者絵にしてしまう江戸の絵師・版元が斬新だ。モデルは、両国橋で夕涼みする歌舞伎役者・4代目市村家橘(カキツ)。画像の浮世絵は慶応3年発行、慶応4年(1868/8)に市村座で5代目尾上菊五郎を襲名したが、翌月明治維新で明治に。幕末から明治に活躍したいなせな役者だ。四角い「版元」印と丸い許可印の「改印」は、黒塗りされているかのように絵師のサインの隣にあるが解読できない。

   

   藍染めの浴衣は、「橘屋」の家紋をアレンジした「橘鶴(タチバナツル)」なので、ファンは当該の役者は市村家橘であることがわかる。背景には、緑の「麻の葉模様」と「レンガ柄」を配置。「八百屋お七」を扮した岩井半四郎が女形の役でこの「麻の葉模様」の衣装を着たことから江戸で爆発的に大流行。とくに、麻の葉模様を白玉で描いた赤地の衣服は若い女性はもちろん子どもや男性にも使われた。

 

 画像左上には、軒から吊るした風鈴が涼を呼ぶ。その「しのぶ玉」は苔と土とで球を作り周りにシダ植物の「ノキシノブ」で形を整えている。このノキシノブは、「水がなくとも耐え忍ぶ」という江戸っ子らしい粋が込められている。この「釣りしのぶ」の形も「橘鶴」を考慮しているらしい。しかもその短冊には、「たちばなの 薫るもうれし 橋すずみ」との家橘が詠んだ句が挿入されている。当時は橘が身近にあった植物だったようだ。これでもかの「橘づくし」の役者絵は家橘のPRちらし・プロマイドのようなものだ。

  

 同じような表現パターンがいくつかあるようだが、なかなか資料が出てこない。左手に楊枝を持つこの役者は、幕末から明治にかけて人気のあった4代目「中村芝翫(シカン)」であることが短冊からわかるが、崩し字がなかなか解読できない。歌舞伎役者の俳諧はけっこう盛んだったらしいが、その研究もまだまだ発展途上のように思える。背景の模様・釣りしのぶ・風鈴の形がそれぞれ微妙に違うのが面白い。きっと、それぞれに意味があるのだろうが、オラの能力を超えている。

    これらの役者絵の絵師は、「豊原国周(クニチカ)」で、同時代の月岡芳年・小林清親と並ぶ「明治浮世絵の三傑」と言われ、最後の浮世絵絵師である。しかし、生涯で妻を40人余りも変え、転居の回数も本人曰く117回といい、さらに「宵越しの金は持たない」とばかりに散財したため極貧の暮らしだった。船越安信氏の『豊原国周論考』は海外の資料をも駆使した優れたweb上での労作があり、その情熱に敬意を表したい。

 なお、絵師のサインでは、「国周画」は30歳まで、「国周筆」は30歳から、「豊原国周筆」は36歳からということだ。したがって、当該の家橘の役者絵は30歳代の作品ということになる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする