山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

景清と宮宿との結縁

2024-11-29 22:15:51 | アート・文化

 歌舞伎十八番の「景清」が東海道53次の「宮宿」にいた。宮宿と言えば名古屋の熱田神宮の門前町・港町にある。伊勢参りへの旅人もにぎわう東海道の中心的宿場町でもある。原画の広重の浮世絵には、「御馬塔(オマント)]という作物の出来を占う競走馬をはやす半纏チームが描かれ、近隣の町村が馬を奉納する「馬追祭」神事が中央に配置されている。裸馬に菰を被せてはやし立てている庶民の顔が緩んでいる。画面の天地には墨色が塗られ、火を焚いている様子も描かれているのでこれは夜の時間軸であることがわかった。また、右の鳥居は熱田神社のある現在地を暗示している。(画像は東京伝統木版画協働組合webから)

  

 三代目豊国は広重の錦絵を背景に援用して、源平合戦で源氏を苦しめた勇猛な武将・平景清を登場させている。景清は歌舞伎・人形浄瑠璃・能・落語などの主人公としてヒットする。それは「景清物」と言われる地位さえ確立している。実在した歴史的人物だが、ときの権力にストレスを感じていた庶民にとっては反権力のダークヒーローともなり、日本の各地に広範囲に伝説となっている。

  (歌舞伎事典webから)

 さて、景清と宮宿とのかかわりだ。壇ノ浦の戦いで敗れた景清は熱田神宮に隠れ、神社の姫と結ばれる。しかし、頼朝殺害を企み、秘密の宝を知る罪人として捕縛され牢に閉じ込められてしまう。その牢の目の前で妻と娘が過酷な折檻をされてしまう。それを我慢していた景清はついに牢を破戒して妻子の解放を遂げる、という歌舞伎の真骨頂「荒事」が仕組まれる。

  

 この豊国の役者絵は、八代目市川團十郎(1823-1854)を描いている。八代目は、粋で色気もあり、上品であるところから絶大な人気があったが、32歳の若さで原因不明の自殺をしてしまう。先代の名優「七代目」が生涯で5人の妻がいたり、子どもが12人もいるなど、その奢侈な暮らしに天保の改革の影響で自宅が壊され、江戸追放となるなど波乱万丈の生涯を送った。そのため、若くして突然「八代目」になった團十郎は、筋を貫徹する性格のためか家庭でも孤立し、そうした環境に適応できなかったのかもしれない。

 そんな背景を踏まえたのか、景清の「隈取」は、上半分が紅色の筋で激しい怒りを表し、下半分が藍色でやつれた悲壮な心境を表している。景清と八代目をダブらせているのかもしれない。

 

 この豊国の「役者見立て東海道」の役者絵を最初に見たときに、右上の景清と書いた表題が神社の扁額だとは気が付かなかった。よく見るとその後方に鳥居もあるのを後でわかった。浮世絵が仕掛けられた謎解き絵でもあるのを実感する。

   

 版元は幕末の「井筒屋」庄吉。彫師は天才と言われた「小泉巳之吉」(1833,天保4~1906,明治39) の「彫巳の」プロである。とくに髪の毛の細さは筆で描いたような繊細さで世界を驚異させた。このさりげない所の上に、二つの印がある。それは名主2名の検閲印だとわかった。ひとりは「浜弥兵衛」であるのは解明できたが、その隣が解読できなかった。おそらく、「村松源六」ではないかと推察する。

  (丸印の中に干支と数字の月)

 これらの印からこの錦絵がいつごろのものかがある程度特定できるという。つまり、「極」印を使った時代(1791-1815)、名主の「単印」の時代(1843-47)、名主印が二つの時代(1847-52)、名主印2個と「年月印」の3個の時代(1852-53)、「改」印と「年月印」の時代(1853-57)、「年月印」ひとつの時代(1858)、一つの円の中に「十二支・数字・改文字」がある時代(1859-71)、十二支と数字による年月印のみ(1859-71)、という8期に分れる(吉田漱氏による分類)

 本錦絵は、「子五」つまり「子(ネ)」の年の5月に許可されたもの。それに名主印2個の計3個の印がある時代ということで、嘉永5年(1852)~嘉永6年(1853)の間に発行され、嘉永5年5月に発行されたのがわかる。浮世絵にはこうした謎解きが満載しているから面白い。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウクライナの慟哭を弾奏する

2024-11-27 16:50:54 | 市民活動・まち育て

 一時消滅しかけた集落が復活した。以前、ひと気のないそこの集落に行ったことがあるが、空き家だらけの荒廃しかけた無念が漂っていた。そこへ、街から前田さんらがここ過疎の地へ移住してきたのだった。公民館のような立派な集会場がリフォームされた。そこで、ウクライナ出身のロマン・フェディウルコさんのピアノ演奏会を開催するというのだ。

  

 ところで、「浜松国際ピアノコンクール」が浜松市制80周年を記念して1991年に開催され、3年に一度行われる若手ピアニストの登竜門ともいえる高水準の国際コンクールだ。今年は47か国638人が応募し、ロマンさんも2次予選進出の24人の中に入ったが、3次予選には進出できなかった。本選では6人が入賞し、鈴木愛美さんが日本人として初めて優勝した。

 

 山を切り開いたような場所での会場はやや寒く、ロマンさんはコートを着ての演奏だった。ロシアによるウクライナ侵攻があったとき、ロマンさんはオーストリアに音楽留学生として滞在していたので、直接の被害はなかったようだ。現在は20歳の若さ。端正な落ち着きは逆に祖国の悲壮な現実をしっかり内実化しているようだった。

 

 演奏は、バッハ・シューマン・ラフマニノフらの楽曲だったが、オラのクラシック音痴にとっては知らないメロディーばかりだった。しかし、内容は起伏の激しさもある演奏で、聴いていて祖国への不安と慟哭とがからんだものだったように思えた。その演奏には聴衆に媚びず自らの思いを真っ直ぐ貫く戦士の姿だったように思えてならない。

 

 聴衆の多くは近隣から来た地元の人ばかりだったように思う。クラシック音楽とは程遠い面々ではあるようだが、こうしたイベントに短期間で駆けつけた有為の人々でもある。聴衆は約50人ほどにはなっていたと思われる。それは驚異的な数字だ。というのも、この場所は知られていないし、しばらく人の出入りがなかったし、何よりも前田さんらが移住して間もないからでもある。人間に出会うのも少ない過疎地でクラシック音楽を開催するという前田さんの「冒険」にたまげる。

 

 ということは、こうしたイベントを待っている住民が少なくないということでもある。住民がどんどん少なくなっている過疎地において、機会があればこうした場を求めているともいえる。オーナーの前田さんは「勢いで主催してしまった」と言われるが、その勢いのパトスの伏流水の激しさがわかる。問題はそれをフォローするスタッフの確保だ。さすれば、ここの集会場が地域の交流拠点として実っていくのに違いない。オラもできうる範囲でのささやかなフォローを捧げたい。今回は、いただいてきた篭いっぱいのユズや挿し木で育てた苗木約10本・レモングラス等をプレゼントした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウィルスか「虫えい」か赤い実の謎

2024-11-26 19:10:03 | 植物

 

パソコンの不具合で四苦八苦していたときだった。解決方法があまたありやっとやっとたどり着いてブログ更新に着手できた。M社の独占的優位に忠犬の日本はどうかしているぜ、といつも痛憤するばかり。まったくー、わかりやすくしてくれー。

 玄関近くの道に落ちていた赤い実。今まで見たことのない実だった。一見、ヤマボウシの赤い実に似ているので食べられるかもと期待したが、見るからに病気のような奇妙な形だった。虫の住み家でもなかった。

  (画像は京都九条山自然観察日記webから)

 調べてみたら、「サネカズラ」(マツブサ科)であることが分かった。実はブドウを丸くしたような集合果で、赤くない小さな実は受粉できなかっためしべのようだ。この集合果なら見たことはある。つる植物の割には相手に絡まりつく貪欲さはなく控えめだ。だけど、しっかり生きている。

   (画像はhimekyonの部屋webから)

 そのためか、古来から和歌で登場する。百人一首にも「なにしおはば あふさかやまのさねかずら ひとにしられでしるよしもがな」(藤原定方)という恋心を詠った名句がある。紫式部の曽祖父が右大臣の藤原定方だった。左大臣が今でいう総理大臣なので、右大臣は官房長官という地位かな。『万葉集』では藤原鎌足や柿本人麻呂もサネカズラを詠っている。昔の政治家は、文学の素養がなければなれなかったのに、今の政治家はなんとも「さもしい」限りの狭量であることよ。

 さて、サネカズラは、茎の皮をむき水に浸すとどろどろの液体ができ、それが男性のほつれた髪を直す整髪料にもなった。そこから「ビナンカズラ(美男葛)」の別名も誕生する。また、この液を塗ってヒビやアカギレも直したという。生垣でよく見られたが、わが家では鳥が運んできたのかジャングル形成の藪状態に貢献している!?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先日の「死んだ男が残したものは」!!

2024-11-22 19:24:44 | 意見・所感

   先週の13日、詩人の谷川俊太郎(1931-2024/92歳)が永眠した。谷川俊太郎の詩はオラの青春とともに伴走してくれていた気がしてならない。ちょうど、アメリカのベトナム侵略の時期だった。今のイスラエルと同じことをアメリカがベトナムでジェノサイドをしていたわけだ。そんなとき、フォーク歌手の高石友也の「死んだ男が残したものは」の歌がグサッとオラの心に刺さってきた。(画像は音楽ナタリーwebから)

  (画像はオークフリーwebから)

 「死んだ男の残したものは ひとりの妻とひとりの子ども 他には何も残さなかった 墓石ひとつ残さなかった」という歌詞がフォークギターとともに静かに始まる。「死んだ兵士の残したものは こわれた銃とゆがんだ地球 他には何も残さなかった 平和ひとつ残せなかった」「死んだ歴史の残したものは 輝く今日とまた来る明日 他には何も残っていない 他には何も残っていない」と結ぶ。

  (画像はyoutubeから)

 そして、森山良子が叙情豊かに歌い上げると涙が出そうになった。作詞は谷川俊太郎だった。なんて見事な世界を切り取ったことだろうと、つくづく感心した。それが谷川俊太郎との出会いだったと思う。この歌は、アメリカがベトナムの北爆を始めた「力の戦争」に対し、翌年の1965年、「ベトナムの平和を願う市民の会」からの要請を受けて谷川俊太郎が作詞し、作曲を武満徹が担当した名曲だった。

 

 その後、オラは結婚し子どもができたらさっそく谷川俊太郎の翻訳絵本の『スイミー』(レオ・レオニ)を何度も読み聞かせたものだった。そして、彼の詩の的確なセンスや切り取り方の深さに傾倒し、彼の詩集を何冊か読んだのだった。今の時代こそ、この「死んだ男の残したものは」の詩を繰り返せなければならないと痛感する。森山良子さん、平和ボケの某CMになんか突出しないでこの歌を強く推奨してもらいたい。それはマスメディアの怠慢ともいうべきだ。

  先週に「死んだ男の残したものは」、人間や自然や地球に対する賛歌であり怒りであり哀しみであり希望でもあった。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桃栗3年柿8年ゆずの大馬鹿18年 !?

2024-11-20 23:17:02 | 野菜・果樹

   近所から声がかかり、ユズとカボスの収穫に行く。近所の裏山の斜面には柑橘類の果樹が並んでいて、ここ数年丸抱えでわが家がその果実をいただいている。というのも、酸味が強い果実の消費は普通では結構持て余してしまう。さいわい、わが家の野菜ジュースには酢や梅肉エキスを入れて柑橘類をほぼ毎日数個使っているから、年間にするとかなりの消費量となる。ニンジンの葉をはじめ訳あり野菜も活躍しているので野菜ロスはかなり少ない。

 最初は箱ザル3ケースの花ユズを収穫したが、「もっと持っていきなよ」と言われて、次の日同じくらいを収穫。その分は知人におすそ分けする。

 

 いただいた大量のユズやカボスは冷凍にしてわが家で穫れる野菜やブルーベリーやキウイをブレンドしてシコシコのどを潤して健康を保っている。上の画像は、左から花ユズ・本ユズ・獅子(鬼)ユズの大きさ比較だ。本ユズは「ユズの大馬鹿18年」というくらい、実ができるまでには時間がかかる。しかもとげが鋭く痛い。(画像は望月農園webから)

 しかし、花ユズは「一才ユズ」と言われるくらい数年でたわわな実が採れるし、果汁も多いので鍋料理などに重宝する。わが家では、皮を刻んで冷凍にもするので一年中薬味は欠かさないし、果汁はポン酢にも活用できる。

  (画像はedit oitaから)

 上の画像は左から、カボス・ユズ・スダチ。果実の大きさ・果肉の色・種の数が比較できる。カボス生産量は大分県が全国の95%を占めるほどの圧倒的なパワー。ユズの生産量は四国が全国の80%でそのうち高知県が54%のシェア、木頭村ユズが有名だ。

 

 近所のカボス(香母酢)を収穫してたら、「全部採っていって下さい」との張り紙の伝言があったのでお言葉に甘えてすべていただく。画像にある数のおよそ倍をいただくことになった。

 大分には樹齢2~300年もある古木のカボスがいくつかあり、古くから栽培されてきたことがわかる。さらにオラが注目してきた大分県村一品運動」の中でも、かぼすはその旗手としての役割を果たすようになったのは自然の成り行きだった。和宮様には毎年のように大分カボスが献上されている。見ず知らずだった近隣とのありがたいつながりが生きる希望に弾みをつける。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

落花生はほぼ全滅だったのに!?

2024-11-18 21:39:18 | 農作業・野菜

  植えるのが遅かったのでやっと収穫に乗り出したのが、落花生の二つの畝。しかし、よく見るとその根元に落花生の殻が散乱している。不吉な予感がよぎる。あわてて、収穫してみるが肝心の生さやが見あたらない。それになんと、畝に野球ボール分の地下道がまっすぐ通っているではないか。

  

 残っているのは未熟な子房柄の鞘ばかり。ひと月前の試掘では順調に育っていたのを確認したのに、がっかりだー。あきらめきれずネズ公の見逃した落花生探しを始める。以前はカバーをしていなかったので、アナグマに荒らされこれも見事に全滅だった。それから今回、カバーで覆ったものの今度は地下から侵入とは想定外。

 

 とりあえず、ネズミ様のおこぼれをいただくことにする。すぐにと茹でてみたがやっぱり食べるところが少ないか、食べられない状態。トホホ、落花生を割って南京豆を取り出す喜びが体験できなーい。 次回は唐辛子を撒いてネズ公を退散させるっきゃない!! ネズ公も体重の25%の食料を確保しないと生きていけないそうなので必死だ。だから、ネズ公もモグラのトンネルを仁義無用で利用しているらしい。モグさんにはメリットがあるのだろうか。

  

 無農薬菜園をやるわが家なのでミミズも多く、モグラも健在だ。そんなおり、知り合いから和宮様に献上された大量の落花生を偶然にも入手することができた。この品種は「おおまさり」と言って、茹で豆用落花生として作られたジャンボ落花生だ。待ってましたとばかり、鍋いっぱいの茹でた「おおまさり」に食らいつく。食べだすとエンドレスになるので途中から食べる量をセーブする。

 困っているとき、救ってくれる人が身近にいることが心強い。このところ、そうした近隣からのいただきものや献上品などが食卓を豊かにしてくれる。それは和宮様が周りの人々に余った野菜や手作り加工品などをときおり差し上げているのが程よい流通網になっているのは間違いない。ありがたい!! 深謝!!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

庶民からの視点で絵巻物を見る

2024-11-16 22:56:52 | 読書

 1980年代から2000年にかけて歴史家・網野善彦氏らを中心として日本中世史ブームが起きる。それは従来の農民と武士・貴族との中心史観だけではなく、職人・女性・海民・山民・部落民ら今まで光が当たらなかった庶民からの日本社会の分析でもある。そうしたいわゆる「網野史学」の端緒は、異端の民俗学者・宮本常一(ツネイチ)の丹念なフィールドワークからの影響が強く反映されている。庶民の膨大な用具や諸分野の暮らしの聞き取りに裏打ちされた宮本氏の視点から、古代以降の絵巻物を読み解いていったのが本書『絵巻物に見る日本庶民生活誌』(中央公論社、1981.3)だった。

 

 絵巻物は関係者以外なかなか見る機会がない。本書には絵巻物の図版画像が119点も掲載されている貴重な公開となっている。そこには、行事・民具・子供・便所・家畜・船・漁具・建築・風俗・履物・植物・狩猟など当時の暮らしの多彩なモノ・人・自然を観察することができる。ただし、本書がハンディな新書本なので、絵も小さく不鮮明でもあり、画像を読み解くのには苦労する。

 

 本当は絵巻物の画像をブログに引用したいところだが、読み手の視点からは極めて見にくく技術的に至難の業だった。そこで、宮本氏の本の表紙を多用することとなった。

 さて、宮本氏は冒頭に開口一番、「絵巻物を見ていてしみじみ考えさせられるのは民衆の明るさ・天衣無縫さである」という。庶民の単調で素朴な生活にもかかわらず、「日々の生活を楽しんでいる」のが絵から伝わってくると氏は強調する。

  (更級日記紀行、平安時代の肉食)

  対照的に、貴族・僧侶らの行事や儀式は堅苦しいものに終始しているのを庶民は物見高く見物している。そのうえついには、それを祭りとして自分たちで楽しく演出してしまう器量をもっていたと氏は評価する。こうした好奇心旺盛な庶民の姿は、幕末にやってきた外国人が自由闊達な子供たちをみて一様に感動しているのと共通点がある。

 その意味で、日本人のおおらかさを失ってしまったのは明治以降ではないかと思われる。幕藩体制の江戸時代では分権国家の側面もあったが、明治政府の強権的さらには軍国的体制の徹底は、違う考え方を排除するタブーというものが暗黙の裡にはびこっていく。その延長が日本社会の基層の重しとなって同調圧力を産み出したのではないか。

  

 現在、大河ドラマで「光る君へ」の平安王朝を放映しているが、当時の王朝の建物は、高床式で壁が少なく隙間だらけで冬が寒いのがわかる。そのため、女性の衣服がなぜ十二単になってしまったかが読み取れる。いっぽう、民衆は竪穴住居もどきの土間住まいがしばらく続いたようだ。

 同じく、大河ドラマでは公家の烏帽子にこだわっているのがわかる。本書でも烏帽子をかぶったまま就寝している絵巻を紹介している。

  

 従来の裸足の生活から履物を履くようになったのは、土間住居から床住居へと変化し、稲わらが利用されてきたことと関係したのではないかと氏は分析する。また、便所というものがない時代、足下駄については脱糞放尿用として利用されたのではないかという提起も納得がいく。

 

 それにしても、宮本氏の聞き取りの謙虚さが相手の心を和ませていくのが伝わってくる。それらのさりげない情報が氏のかけがいのない知的財産となった。したがって、何気ない絵巻物の中から庶民の発する暮らしの喜怒哀楽の詳細を汲んでいったのだと思えてならない。 

 なお、本書は1981年3月に発行されたが、宮本氏が亡くなったのが同年1月のことだった。したがって、本書は最晩年の一冊となった。そのためか、巻末に「著作目録」が付随されている。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カマキリへの催眠術!!

2024-11-13 22:55:42 | 生き物

  冬に突入したのか、秋の終わりなのか、はたまた夏の延長なのか、不可思議な季節は相変わらず人間の欲望過多の行為に祟りを投入しているかのようだ。そんなとき、勝手に居候となったカマキリ2匹がオラをにらみつける。つい目と目があってしまう。

 

 前足・カマの内側に黒い模様があったのでおおきさが小さめなのも勘案して、この当該カマキリは「コカマキリ」に違いない。最新のニュースでは、アスファルト上で死ぬカマキリが多くみられるが、その原因は寄生虫である「ハリガネムシ」の妖術だという。ハリガネムシがそのようにカマキリを操っているのだと、京大の研究チームが解明した。

 

 たまたまカゲロウも来ていたので、カマキリはそれを狙っていたような気もする。翅の斑紋があったので「ウンモンヒロバカゲロウ」(ヒロバカゲロウ科)と思われる。いつの間にかいなくなったのはどうしてだろうか。カマキリの餌食になったのか。

  (ameblo.jpのwebから)

 以前、バッタがミイラになって草の茎に止まっている姿を畑で見たことがあるが、それも同じような現象のようだ。自分以外の生命体の命令によって動かされているのだ。同時にそれは、人間界も同じことが言える。つまり、「カネこそ全て」「人のことより自分さえよければ」「他国のことより自国第1主義」というカゲの言葉に支配され、追い込まれ犯罪や戦争や人間・地球への裏切りをやってしまう。夢遊病者のように。M・エンデの『モモ』の世界が現実となってしまった。

 わが家にいた2匹のバッタはハリガネムシのせいとは言わないけれど、先日死体となって畳に転がっていた。同じ居候の鬼軍曹・アシダカグモがこのカマキリを食べていなかったのが幸いだった。それで今、二匹のカマキリは野菜の肥料となっている。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逆襲ついに始まる

2024-11-11 21:54:11 | できごと・事件

 イノシシの逆襲がついに始まった。先日、イノシシが侵入している茶樹のトンネルに枝を投入して防御を図ったところ、次の日には、こんどはその腹いせか、裏の畑の道路側の石垣を崩し始めたのだった。どういうわけかわからないがイノシシは石垣の際を掘る習性がある。そこには、ミミズが多いのか、山芋が多いのかそれとも人間に対する腹いせのストレス解消か、もの凄いパワーであった。

 

 石垣があったはずの所が崩され、植わっていた茶樹も根こそぎ掘り出されていた。それが見事わが私道沿いに10mくらい続いていたのだった。あまりの壮観に怒り狂うというより呆れてしまうばかりだ。とても、修復しようという意欲は今のところ失ってしまった。

 

 さいわい、近くのトンネル栽培の大根の若い芽は荒らされていなかったのがホッとしたところだ。このイノシシの狼藉を見ると、冬を前にして腹が空いていたのかもしれないが、やっぱり前日の人間の防御策に対する腹いせとしか考えられない。こんな仕打ちはここ数年、なかったのだから。

 

 ここ数年、イノシシからの大きな被害がなく、むしろシカの食害の方に煽られ、防護柵建設が課題だった。小さな山林を含めた2500坪近くあるわが土地に電気柵をやるのはとても予算も労力も足りない。だから、年金生活者はシコシコと自前で補修を重ねるしかない。

 

 たまたま、地元の組長が来たので現状を見てもらい自治会長に報告してもらうことになった。とはいえ、役所を期待することはできない。組長の話では、近隣の耕作放棄地にも同じような事態があり、石垣が壊されたということだった。人間が鶴嘴をもって掘り出してもこれだけのことはできない。イノシシは短時間であっという間に道具を使わずやり切ったわけである。ハンターの出番を待つしかないのだろうか。そうすれば、その肉をやけ食いしてしまうぞ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生の軋轢・欺瞞を運ぶ電車!?

2024-11-08 22:10:40 | アート・文化

  オラが若いとき、校内の演劇部が「欲望という名の電車」を上演するという目立たない看板があって、気にはなっていたが観に行かなかったことがあった。そんなこともあって、ブロードウエイ(1947年初演)で爆発的に評判となった作品をDVDの映画版でやっと見ることになった。

 

 裕福な地主の実家で育った姉・ブランチ(ビビアンリー)は破産者となっていて、妹の住むニューオリンズに転がり込む。しかし、そこは暴力的で粗野な労働者の夫・スタンリー(マーロンブランド)がいる狭い長屋だった。二人の育った環境の違いは、アル中気味だったブランチがどんどん追い込まれていき、近所のミッチとの結婚に望みをかける。しかし、その幸福は無残にも壊れ、ブランチは過去の裕福な幻想の世界にしか生きられなくなる。

 

 その経過は、近松浄瑠璃の心中物へのストーリーに似ている。その意味で、西洋も東洋も包含した作品の人間の真実を描いた不朽の名作だということにもなる。映画の公開は1952年。第二次世界大戦が終わり、戦勝国アメリカは超軍事大国(今もそうだが)となった。大量生産・大量消費が始まり、中産階級の生活が向上するが、南部では「黒人差別法」が生きており、人種隔離がフツーにあり、工場地帯と農地プランテーションとの桎梏もあった。

 

 貴婦人の洋装を変えられない姉と下着だった汗まみれのTシャツのスタンリーとの対照的な服装は、南部のいやアメリカの現実・価値観の格差を象徴するものだった。問題の社会的深刻さをブランチの精神的病いへと追い込むことで、ブロードウエイやハリウッド、そしてアメリカの繁栄の病巣、さらには人間の醜さ・欺瞞に釘を刺した意欲的な作品となる。

 

 ビビアン・リーの鬼気迫る演技にアカデミー賞主演女優賞をはじめ、監督賞・男優賞など4部門の受賞となる。それは能天気なハリウッドの映画にも骨太な影響を与える。名作「エデンの東」も描いた監督のエリア・カザンらは1947年、俳優養成所「アクターズ・スタジオ」を創設し、映画・演劇界の超有名な俳優を次々掘り出していく。しかし、米ソ冷戦の影響から、マッカーシズム旋風がハリウッドをも襲い、カザンやチャップリンらも生贄になってしまう。そこから、体制に順応するか、沈黙を守るか、逃避するかなどの選択が問われていく。

   (<ZUTTO>webから)

 脚本の「テネシーウィリアムズ」の家庭環境は、この「欲望という名の電車」そのものと言っていいほどの現実だった。だからこれはリアリスティックなストーリーにならざるを得ないわけでもある。それほどに、アメリカの階級社会の現実はまだまだ解消されていない。トランプを大統領に再選させた背景の本質を考えると、本映画の迫力の根源とつながる思いがしてならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする