山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

山並み見ながら古民家カフェ

2024-12-09 21:06:16 | 市民活動・まち育て

 昨日は、山並みが素晴らしい市内砂川(いさがわ)にある「風香(ふうか)つきみ亭」を初めて訪れる。昨年11月に開業した古民家カフェである。お昼近くだったせいかお客が10人以上もいて30分ほど待ってしまった。場所はオラがいつも気に入っている一等地にあるビューポイントだった。カフェの裏側は、数百年にもなる風格ある「カゴノキ」が鎮座し、その隣に公民館・元寺院が控えている。もちろん、目の前はこの地区で一番風光明媚な高台にある。雨上がりの山並みの雲海にははたと見とれてしまう。

 

 急峻な斜面には端正な茶畑が山並みと競うように緑の模様を形成する。しかも、この茶畑は先験的な「有機 JAS認定農地」となっている。そうした魂は、若い入植者を呼びおこし市内の静かなムーブメントともなっている。その雄大な自然背景とみずみずしい人間のネットワークは、荒廃し無気力になっている日本や地域の資源ともいうべきものだ。「カフェ風香」はそんな息吹に囲まれているわけで、ぜひ成功させたい交流スペースだ。

 

 「風香」の正面は、お店というより民家そのものだった。休みは水・木曜日、営業時間は8時~18時まで。オラはお弁当を注文した。残念ながらその撮影を忘れてしまったが、幕の内弁当のようなデザインでとくに地元野菜を使った混ぜご飯は味のコクが沁みてうまかった。冬でなければ、山の景観を楽しみながら外でお弁当をほおばるのが最高に違いない。

 

 店の中は、テーブル・イスもあり、座卓もある。天井は手を伸ばせば触れる高さにあった。きっと、高台にあるので風よけのために天井を低くしてあるのかもしれない。天井の仕様はわが家のボロ家と同じだった。所々に、陶器や置物があり、ゆったりくつろげるように工夫されていた。

 

 奥には、見事な和ダンスが鎮座していた。欅の模様だろうか日本らしい木目模様が生かされている。また、タンスの隅金具も手が込んだ職人技が光る。周りの障子やガラス格子戸も昭和レトロを感じさせるインテリアとなっていた。築100年を越す古民家はここで育った若い柔軟な発想を持つ女性の手で見事に改装・復活していた。コンサートも主催していたり、新聞にも紹介されたようで今のところ客足は順調のようだ。 

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ウクライナの慟哭を弾奏する

2024-11-27 16:50:54 | 市民活動・まち育て

 一時消滅しかけた集落が復活した。以前、ひと気のないそこの集落に行ったことがあるが、空き家だらけの荒廃しかけた無念が漂っていた。そこへ、街から前田さんらがここ過疎の地へ移住してきたのだった。公民館のような立派な集会場がリフォームされた。そこで、ウクライナ出身のロマン・フェディウルコさんのピアノ演奏会を開催するというのだ。

  

 ところで、「浜松国際ピアノコンクール」が浜松市制80周年を記念して1991年に開催され、3年に一度行われる若手ピアニストの登竜門ともいえる高水準の国際コンクールだ。今年は47か国638人が応募し、ロマンさんも2次予選進出の24人の中に入ったが、3次予選には進出できなかった。本選では6人が入賞し、鈴木愛美さんが日本人として初めて優勝した。

 

 山を切り開いたような場所での会場はやや寒く、ロマンさんはコートを着ての演奏だった。ロシアによるウクライナ侵攻があったとき、ロマンさんはオーストリアに音楽留学生として滞在していたので、直接の被害はなかったようだ。現在は20歳の若さ。端正な落ち着きは逆に祖国の悲壮な現実をしっかり内実化しているようだった。

 

 演奏は、バッハ・シューマン・ラフマニノフらの楽曲だったが、オラのクラシック音痴にとっては知らないメロディーばかりだった。しかし、内容は起伏の激しさもある演奏で、聴いていて祖国への不安と慟哭とがからんだものだったように思えた。その演奏には聴衆に媚びず自らの思いを真っ直ぐ貫く戦士の姿だったように思えてならない。

 

 聴衆の多くは近隣から来た地元の人ばかりだったように思う。クラシック音楽とは程遠い面々ではあるようだが、こうしたイベントに短期間で駆けつけた有為の人々でもある。聴衆は約50人ほどにはなっていたと思われる。それは驚異的な数字だ。というのも、この場所は知られていないし、しばらく人の出入りがなかったし、何よりも前田さんらが移住して間もないからでもある。人間に出会うのも少ない過疎地でクラシック音楽を開催するという前田さんの「冒険」にたまげる。

 

 ということは、こうしたイベントを待っている住民が少なくないということでもある。住民がどんどん少なくなっている過疎地において、機会があればこうした場を求めているともいえる。オーナーの前田さんは「勢いで主催してしまった」と言われるが、その勢いのパトスの伏流水の激しさがわかる。問題はそれをフォローするスタッフの確保だ。さすれば、ここの集会場が地域の交流拠点として実っていくのに違いない。オラもできうる範囲でのささやかなフォローを捧げたい。今回は、いただいてきた篭いっぱいのユズや挿し木で育てた苗木約10本・レモングラス等をプレゼントした。

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炎天下でもなんのその

2023-07-24 23:04:14 | 市民活動・まち育て

 昨日の日曜日は炎天下の中のプレイパークだった。西田夫妻が準備してくれたテントで日陰ができたし、午後は木陰ができていった。さらに、軽トラック2台を使ってなんとプールができていたのだった。この発想にはため息が出るくらい斬新だ。ご夫妻の並々ならぬ心意気が反映されている。沢の水がチョロチョロのハプニングはあったものの、子どもたちはしばらくここから離れなかったのは言うまもない。

           

 いっぽう、お父さん方は羽釜で炊き込みご飯や味噌汁の定番ランチを用意していった。さいわい、雲も出てきて酷暑は回避できた。オラも久しぶりにテントの下でモカ珈琲の生豆をフライパンで焙煎する。火力が弱く浅煎りとなってしまったが、野外で焙煎したコーヒーを飲めるだけでもおとなにとっては愉快な世界となる。締めは、ハブ茶の原料のエビスグサの豆を焙煎してみんなでいただく。

          

 そのうちに、ご飯もできてランチとなる。今までのなかでも最高の出来の釜炊きとなった。古典落語じゃないが、「釜のフタが開けけられる」幸せを実感した瞬間でもあった。羽釜で炊くご飯はテレビで見るバーチャルな情報となっているが、ここではリアルな現実なのだ。

             

 手作りの「コンポストトイレ」を利用する。こんなときにも、バイオトイレで地球に負荷をかけない生き方がさらりと同伴してくれる。トイレットペーパーホルダーはたまたま来ていたオラの娘が、後日マクラメや太い糸を編んで作ってくれたものだった。

         

 食後は、常連の電子ピアノが登場して親子の楽器演奏会となる。参加者家族は二けたには達しなかったものの、このゆったりした穏やかさには、ミサイルも殺人も兵器も無縁な世界であることを再認識する必要がある。そうした世界を若い西田夫妻はさりげなく創り出していることを忘れてはならない。

 こうした活動を推進していくには情熱だけでは長続きできない。そろそろ限界点に近づいているのを二人はすでに察しているのがわかった。ここをどう打開できるか、正念場を迎えているのは間違いない。仕事・家庭・農業・活動との両立はどれだけ可能か。オラも後方支援の応援団としてなにができるかを模索しているところだ。

        

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伸びやかに緩やかに!!

2023-06-26 22:28:45 | 市民活動・まち育て

  第4日曜日はプレイパーク(冒険遊び場)の定例日。10時ごろから10組近くの親子がチラホラ集まってくる。そこにオイラのようなジイジも参入する。お昼にはいつもの羽釜のご飯に味噌汁が焚き火など直火でつくられる。隅っこの方では女子中学生がお母さんが薄くスライスしたジャガイモを油で揚げてポテトチップを作っている。

               

 黙々とその中学生がポテチを揚げていく姿が穏やかな中山間地の空気とマッチしている。全国のニュースでは悲惨な殺害・傷害・強盗が毎日のようにひしめき合っているし、世界もそれ以上の深刻な戦争と環境破壊が繰り返されている。その同じ地球で、この穏やかで伸びやかなプレイパークという空間はなんと居心地がいいのだろう。

  

 オイラは畑から持参したハーブ2種類をブレンドしたハーブティーを飲みながら目の前に見えるニワトリの動きに心をあたためる。もちろん、七輪でお湯を沸かして生のミントを投入して、みんなにも味わってもらう。いつもなら、コーヒーの生豆をフライパンで焙煎したコーヒーを飲んでもらうのだが、きょうは初参加で師匠の黒ちゃんが抹茶のお茶を振舞ってくれた。

           

 そのうちに、子どもたちがニワトリが卵を産んだよと歓声を上げていた。さっそく大人たちが見に行くと確かに立派な褐色の卵が日陰の繁みに産まれていた。定例会があるたびに、十羽ほどのニワトリを運んでくれる西田夫妻の配慮がいつもながらありがたい。

   

 子どもたちは、ドラム缶風呂に入ったり、廃車の軽トラックプールに入ったり、そこからベニヤ滑り台を上り下りしたり、じつにたくましく伸びやかに過ごしたのだった。人数的には少なかった子どもだが、用意された環境は見事に子どもたちを満足させるものだった。

 オイラは新島直送の「クサヤ」を焚き火で焼く。初めて食べた人もいたし、クサヤに誘われてやってきたという人もいた。また、こぼれ種で芽を出したゴーヤの苗二十数個を持ち込んでお土産とした。

           

 そのうちに、この日が誕生日だった子どもにケーキが運ばれた。みんなで歌を歌って誕生を讃え、ケーキを分け合った。野外での最高のバースデーとなった。こうした経験値の数々は子どもにもおとなにも穏やかな心の風景を刻んでいくに違いない。「勝手連」応援団のオイラとしても、「ジコチューミーイズム」を払拭するうえでもジイヤの存在価値を確認する世界でもある。

 

 

 

 

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ジャングル化した梅林へ!?

2023-06-19 21:37:49 | 市民活動・まち育て

 数日前に急遽連絡があり、昨日プレイパークに集まり、近くの梅林に行くことになった。というのも、しばらく手付かずになってしまったという山の梅林で梅を収穫しようという次第だ。プレイパークでよく出会う親子十数人と現場に行く。そこは樹形が伸び放題の暗い梅林で、脚立か木登りしないと実は獲れない状態だった。できる範囲でノコギリでやや強い剪定をしながらまずは収穫に専念する。

           

 市販されているような斑点のない梅は皆無に近かった。枝が上に真っ直ぐ伸びたり、徒長枝が暴れていたことで実に太陽がしっかり当たっていないせいかと思えた。この斑点はカビやウィルスによるようだが、中身には大きな影響はないそうだ。樹は老木が多く更新もされていないから、文句は言えない。

          

 本当は、上のイラストのように樹形が横広で樹高を低くするのが生産用梅の理想の樹形だ。ここの梅林を時間をかけて少しずつ剪定していこうということになった。子どもたちも木に登ったり、転がった梅を拾って集めたり、奇声を上げて収穫作業に参加している。また、子どもと鬼ごっこをやってくれるママもいた。ふだんはひっそりした山あいに子どもの歓声が久しぶりに炸裂する。

 最後に、地主さんに敬意を払う意味で、枝をまとめて整理したり、捨てられた梅を数か所に集めたり、誰かが無断で廃棄した燃えないゴミを回収してから現場を後にする。(イラストは、[ともさんのHP]から)

   

 プレイパークに戻ってからはいつものように食事をとったり土やニワトリと遊んだり、親子でゆったりした臨時のプレイパークとなった。いつもながら、脚立・ダンボール・かごなどの荷物や参加者らのピストン輸送にがんばる主催者の西田君らの熱気がありがたい。

 高齢者が多くなり梅林の管理も厳しくなった中山間地に若い親子がこうしてかかわっている姿がまぶしい。このような風景の実現を行政はなぜ推進・応援できないのだろうか、考えさせられる。行政マンやその退職者が地元でボランティアをやっている姿はなかなか出会わない。だから、ボランティアの意味やその心もつかめない。それではボランティアの組織化もできないわけだ。

          

 梅仕事を毎年やってきた和宮様に収穫した梅を献上したら、今年はできないと思っていたら適度な量の梅がきたのでびっくりされていた。さっそく、状態の良い梅をチョイスしながら梅シロップを作ろうと、まずは梅を選別してから洗う作業を始め出した。それから冷凍庫に選別した梅を次々入庫し始めていた。もう一週間前に収穫できたらもっと状態の良い梅を確保できたかもしれない。梅はタイミングが微妙。だけどそれ以上に、ひっそりした山間地で親子の歓声を観ることができたのが最大の収穫だ。 

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ローカルの解体に抗するしんどさ

2023-05-29 22:40:08 | 市民活動・まち育て

 今月もプレイパークに顔出しした。このところ参加者が激減している。春の陽気にあちこち目を奪われているせいだろうか。それでも、参加者からいただいたキウイを子どもたちが切ってくれて配ってくれた。そんなさりげない行為に参加した親たちの姿勢がにじみ出ている。主催側の努力や方向性が若い参加者に伝わっていないのかもしれない。当初の盛り上がりの熱気を持続していく難しさを痛感する。

       

 とはいえ、常連の元音楽教師の方のBGMが奥山の世界に活気を与えてくれる。もちろん、裸足の子どもたちも早速そのリズムに乗ってくれる。はるばる焼津から来てくれるご夫婦の応援も貴重だ。しかしながら、なかなか地元からの参加はなかなか目に見えないし、はじめのころに参加していた顔ぶれも少なくなった。地域活動の直面する課題でもある。

 哲学者の内山節さんは、グローバリズムが<ローカルであること>を次々解体していったことで、人は幸福を感じにくくなった、と指摘する。だから、手ごたえある幸福をつかむためにローカルであることの見直しを提言している。オイラはグローバリズムだけが原因とは思わないが、ローカルの解体は都市の孤独と人間の解体を促進してしまったことは間違いではない。

         

 オイラもエチオピアのモカのコーヒー豆をフライパンで焙煎しながら、そんな課題の困難さを想うばかりだ。オイラは勝手連の無責任な応援をしているが、主催者の西田夫妻の心身の負担は重くなるばかりだ。そんなしんどさを浅煎りのコーヒーをみんなと飲みながら話し合う。身に覚えのあることでもあるので、持続していける心身の暮らし方の基本を語る。

 夢や理想を持つこと自体がむずかしい現実の過程の中で、それにめげない「根拠」を当たり前の暮らしの中で確認していくしかない。つまり、定例会を減らして自分の生活としての基盤を作ること、そして定例会の中身を絞っていくこと、集団的に運営していくこと、そんな会話をさらりとかわしてみたが…。

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移動式遊び場の出前 !!

2023-02-17 23:08:40 | 市民活動・まち育て

   かかわるごとに感動がある。一昨日の14日、西田夫妻が主催する冒険遊び場にゲストがやって来た。移動式遊び場を全国で出前している星野諭(サトル)さんだ。ボディーには子どもたちが絵を描いた車がすでに来ていた。午前中に、星野さんのお話がおもむろにされた。新潟県妙高市生まれで一級建築士の星野さんが、エリートコースをあえて選ばずにこの活動を貫いてきた経過とそこから学んだこと、これからめざすものなどを焚き火を囲みながら聞く。

            

 1978年生まれの星野さんの幼少時代は、まさしく妙高という自然豊かな山野を駆け巡った。その暮らしが当たり前だと思っていたが都会に出てきてその落差に驚愕。そこから、子どもや若者の欠落しているものは、「時間・空間・仲間・隙間」の「4間」であることを痛感。それを取り戻すのは子どもの「遊び場」と人と自然との「つながり」だと、活動を開始する。

    

 さっそく、神田にあった空き家を自前の児童館にしていくのを手はじめに、それを支えるために地元の人とのコミュニケーションを大切にしていく。行動力は勿論、周りの人とのコミュニケーションを大切にしていくのが素晴らしい。若さだけではなかなかできない着眼点だ。そうした「コミュ」力を生かした結果が、全国のネットワークとして形成されていく。

    

 問題は活動の資金力でもある。当初は、さまざまな補助金や委託金を企業や行政から受けていたが、その書類を作るのに翻弄されてしまうのに気づく。子どもと直接遊ぶ暇もない。そこで、補助金や委託金をあてにしない活動を模索していく。土日は懸命に建築関係の仕事をして稼ぎ、平日は移動式遊び場を全国に出前する。遊び場の出前だけでなく、防災講座やまちづくりなどのコーディネーターもやるなどマルチな才能を発揮している。

             

 その車の中は、遊具や資材がぎっしり詰まっていた。親が車座で話をしている間に、子どもたちはさっそく遊具や資材で遊び始める。ときおり、星野さんは事故を未然に防ぐためのアドバイスを子どもに送る。

   

 子どもたちも慣れているようで危険を察知しながら遊びの天才ぶりを発揮していた。車の上に登るなんて子どもの好きな非日常の世界だ。焚き火の煙を体験するのも計算済みだ。遊び用具を一斉に出すのではなく、小出しに出している星野さんの動きもなるほどだ。女の子の方が活発に見える。

  

 プラスティックではなく木の素材のおもちゃや手作りの遊具が中心なのも星野さんのポリシーが伝わってくる。親はベーゴマやコマでむかしを懐かしむ。なかには、プロ級と思えるくらいのコマの技をさりげなく披露してくれる親もいた。

   

 そのうちに、ロープワークの講習をしてから「ターザンケーブル」を設置していく。木とトラックとをつないだ一時的な遊具だ。いずれは、林間で設置するのが目標だ。ケーブルをできるだけピンと張るのがポイントのようだ。オイラは、コーヒー豆やエビスグサの種(ハブ茶)をフライパンで焙煎する。また、竹を半分に割ってその皿に卵を落とし、目玉焼きを焚き火の熾火にかける。子どもはすぐ「食べてもいい?」ととびついてきた。

          

 限界集落と言われる過疎地に30組ほどの親子が集まっていること自体が驚異だ。集落から子どもがいなくなっているというのに。来月は「親子で桜を見る会」の花見をするという。その企画を親たちで相談する。殺人だ強盗だ戦争だという心痛むニュースが絶えない昨今、このプレーパークの穏やかな世界のなんとも心暖まる空間だろう。おかげで、ここで移住して間もなくの地元の人との交流もできた。

 こうしてこの場は、結果的に地域づくりや地域の平和に貢献している。ここに、星野さんという栄養剤・存在価値がある。今回もここで大きい感動をいただいた。おいらも老体をなんとか動かしながらその応援団・勝手連の小さな一員となった。

  

    

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閉校の校庭は親子の解放区 !?

2023-01-13 19:25:35 | 市民活動・まち育て

  昨年、といっても数週間前の大晦日だった。閉校となった小学校の校庭で親子のプレイパークが行われた。大晦日だから人は集まらないだろうというオイラの予想はまたもや大きく外れた。20組以上の親子が続々と参集した。小学校の管理は地元の民間会社に移行され、その前向きな好意のおかげで実現の運びとなった。強風の心配は杞憂だった。紺碧の空と風光明媚な山並みが若い親子を迎えてくれた。市街地から迷いながらもはせ参じた親子が多い。

  

 やはりメインとなったのは焚き火となった。直火は消防署の「指導」で実現しなかったが、山猿さんのドラム缶コンロが大活躍した。オイラもさっそく若い夫婦と子どもたちに混じりながら、お餅を焼いたり、ハブ茶の実の焙煎をやったり、焚き火クッキングに勝手に参入する。山猿さんも大量の甘酒を用意するばかりか焚き火キーパーとして参加者の焼き芋やお餅の焼け具合を見てくれた。

   

 広い校庭で子どもたちが駆け回るのをチャンスとして親同士の会話も余念がない。そんな中に、不登校の子どもたちの居場所を考えている親がいた。そこにそれを支援してくれるようなアドバイスが飛び交う。たとえば、山猿さんも木工教室のリーダーとの相談がまとまったようだ。このように、切実な問題をかかえた親子にとっても、このプレイパークの空間が生かされている。

 なにしろ、親子が持参してきたお餅・サツマイモ・焼きそば・豚汁などが焚き火という非日常を豊かにしてくれる。それ以上に、広い校庭という安心できる子どもの遊びがあるというのが、親のおしゃべりを支援してくれる。

  

 子どもたちは水たまりでヤゴを発見したり、その近くからウスバカゲロウの幼虫「アリジゴク」を確保していた。その素早い行動と感性はプレイパークならではのものでもあった。はじめは親から離れない子どもでも、いつのまにかどこにいるかわからないほど校庭を走り回る駿馬となっていた。 

 

 不思議なもので、とある参加者がどでかいエア遊具や大量の市販のおもちゃを持ちこんだが、子どもたちはあまり遊ばない。むしろ、泥・水・木・火などの魅力や手作り遊具そのものの面白さを常連の子どもたちはわかっているようだった。

       

 閉校された校内には色あせたレリーフがひっそり残されていた。そこには、宝塚の白井鐵造にちなんだスミレの花があり、急坂の上にある校舎に通う児童を見守る茶畑の大人の温かい構図が見事だ。

 過疎の小学校のゆったりした空気は都会の競争原理と経済効率には無力だった。しかし、このプレイパークにこだまする親子の弾む空気は、目線を上に空に向けられる。この空間を後押しするパワーがここにはある。生きる勇気とヒントとがそこに秘められているように思える。

     

 開校100周年を記念して建立した石碑には、「遥かなる我が道 逞しく進まん」という言葉が刻まれていた。ひっそりたたずんでいたこの石碑は、今は束の間かもしれないが息を吹き返したのだった。この言葉は、本校の児童へのメッセージだけではなく、地域に生きる人間に向かって投げられた願いでもあったのだ。この石碑を知った参加者はおそらくいなかったのではないかと思えるが、大志はいつか実現するものだと思いたい。プレイパークを主催するコアなところではすでにこの言葉は伝授されているよと申し送りたい。

 

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「夢から醒めた夢」のかなた

2022-11-28 23:26:32 | 市民活動・まち育て

   先日、知り合いが出演しているミュージカルを見に行く。会場の緞帳は、鮎・茶畑・山並・森林・花・川など地域をデザインした見事な作品だ。間もなくその緞帳が開幕される。今回の原作は赤川次郎の絵本。劇団四季はそれをミュージカルにして1000回以上の公演に成功している。

 演出・脚本はパリジェンヌをめざしていた地元出身の松井茉未さん。「劇団限界集落」のネーミングはいかにも自虐的なイメージがするが、それを逆手に取った希望のミュージカルを目指している。地元出身者も移住者もともに希望を創り出そうという空気が舞台から発散される。出演者もスタッフも素人でオール春野町というのが魅力だ。

 

           

 夏から練習してきた出演者は、幼児も若者も高齢者もいる理想的な縦割り集団だ。昔はそれが家族の単位だった。現在は核家族となったが、そのうえに単身者が急速に増えてきている。そこには、孤独な人間のため息が聞こえてくる。そんな状態にした政治の力のむなしさを感じる。そういう現実を嘆くのではなく、そこから希望を見つけ産み出していく空間を共有しようというのがここの舞台にはあった。 

      

 「生と死、愛・友情」といった重厚なテーマが爽やかに展開していった。それは主人公役の地元中学3年生の女生徒のはつらつパワーによるものが大きい。それを松井さんの演出力で発揮されたのだと思う。それに、ミュージカルにはなくてはならないピアノ伴奏の岡本さんの的確な演奏も目立った。それらを温かく支えてきた春野文化センターの応援も、指定管理者となった民間力の柔軟さが発揮されている。「限界」を突破した出演者はきっと次も挑戦するに違いない。(画像は、天竜区ツイッターwebから)     

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森とひとつになる

2022-11-07 19:48:50 | 市民活動・まち育て

 一昨日、久しぶりに広大な県立森林公園に向かう。会場は森林セラピーで出会った人で構成される「フォレスト・バロン」が主催。「音楽文化祭2022」というイベントが行われていた。「バロン」とはバリ島の森の精霊のことだそうだ。初めての参加で要領がよくわからなかったが、出店とアート「出展」、舞台での音楽ライブや対談、マッサージ、冒険遊び場などが会場に並ぶ。  

 

 先週、準備してきた手作り遊具が大活躍。会場にいた子どものすべてがおもむろに遊びにやってきたムーブメントとなったようだ。セッティングは前日の夕方から暗くなるまで準備したそうだ。フキちゃん夫婦の意気込みと情熱がぐいぐい伝わってくる。先週助っ人にやってきたプレイパークの友人たちも当日の子どもらの遊びをフォローしていた。人とのつながりの素晴らしさを再認識する。

     

 また、わかりにくい会場に着いたら旧友の田中さんが会場案内係をやっていた。フォレストバロンの活動とともに今まで多彩なワークショップをやってきたという。きょうは、森の中で田中さん手作りの竹リング遊具のセッティングを手伝う。遊び方の説明を聞いたがよくわからなかったが、とにかく言われたとおりの指示に従う。蛇の体内を探検する「輪くぐり」のようなものだった。

 

 枯葉を集めてベッドを作ったりしていた子どもたちは、近くにあったドラム缶で遊びだした。これ一つだけでも長時間遊んでいたのは、さすが遊びの天才だ。それを温かく見守る大人たちの存在も欠かせない。型にはめないおとなと枠を超える子どもたちとの共同の広場がこの文化祭でもあった。    

         

 舞台から聞こえてくるライブの演奏や歌声は、森と人間とが調和するヒーリングの調べだった。残念ながら聴衆が少ないのが気になる。イベントの趣旨は理解できるが、やはりそれを実現させていく適度な戦略というものは必要だと思った。

 オイラは肉ラーメンをすすりながらライブや森林セラピーの対談を聞く。途中で、ドイツの音響療法で使っているという「モノリナ」というハープのような演奏もあった。心と体の調律をする楽器だそうだ。それから、わが隣の地区に移住して間もない若夫婦が運営する出店に行く。そこで、「中性コーヒー」という耳慣れない珈琲を飲んでみる。三年番茶と珈琲とのブレンドだそうだ。ソフトな味覚で胃に優しい。なかなか旨味もある。

         

 さて、情報化時代の洪水の割には、国民の行動は誰かが仕組んだ「罠」にはまったようなイベントしか行かないのが現実だ。だから、木村拓哉が扮する織田信長パレードに数万人が殺到するのが大ニュースとなる。アメリカの中間選挙でのトランプ陣営の「熱気」も心配だ。

 心に沁みるイベントがこのように目の前にあるのにもかかわらずだ。多数派の中に自分を置くことで安心するのだろうか。人と異なる意見を言ったり行動したりすることが慎重・恐怖である日本の実態にいつもぶつかってしまう。その意味で、自立した人間になるためのワークショップがこのイベントなのかもしれない。

     

 

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