前回、坂本龍馬を陰で動かしていたのはイギリスだったことを暴いたノンフィクションを読んだが、それを裏付けるような回想記、アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新/上・下』(坂田精一訳、岩波文庫、1960.9)を読む。サトウという名前は偶然で日本とは関係ない。20歳そこそこのサトウが来日した1863年の6日後にはさっそく生麦事件が起きている。
それは、徳川幕府から明治政府へと変貌していく生臭い坩堝を直接関与していくこととなる疾風怒濤の時代だった。横浜に着任してからその後、薩英戦争・下関戦争・外国人殺傷事件等の砲火弾雨や事件をくぐり、攘夷の白刃にも幾度も狙われながらも、維新の過程に深く関与していったのが読み取れる。
本書は、1862年(文久2年)から1869年(明治2年)までの7年間の回想録となっているが、きわめて緻密で的確な情勢分析が記述されている。実際は合計25年も日本に滞在して通訳・情報収集に奔走し、維新後は駐日英国公使となった。当時の日本語・和文にも正確な解読ができ、日本の文化・登山・民俗等にも深い造詣があった。
サトウは、幕末から明治にかけて活躍した主要な志士・要人のほとんどと関わっていたのも驚きだ。
例えば、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、勝海舟、徳川慶喜、桂小五郎・坂本龍馬・陸奥宗光・後藤象二郎、五代友厚・高杉晋作・井上馨・岩倉具視・三条実美・大隈重信・明治天皇など。
江戸城明け渡しの頃には、頻繁に勝海舟・西郷隆盛と接触している。つまり、敵味方双方との太いパイプを持っていたということだ。大河ドラマにもサトウ役がときおり登場している。
この回想記にはあまり触れられていない事項は、白刃に倒された龍馬や武器商人・グラバーたちだった。それは大英帝国を代表する立場からの裏工作にかかわることだけに書けないということに違いない。五代や龍馬の資金源が豊富だったのが推定できるし、サトウも情報収集やまわりにもふんだんに金を消費しているのがわかる。記述はないが、グラバー邸の隠し部屋でも志士たちと会っていたのも推定できる。
当時、「世界の銀行」と言われた大英帝国にも植民地・インドの反乱が始まったころでもあり、イギリスとしては倒幕にするか佐幕にするかの難しい判断もあった。その点では、佐幕に立ったフランスとは違い、勤皇を頂点とした国家統一が現実的と判断していったサトウらイギリスの老練な分析が伝わってくる回想記でもあった。
外交に通訳に自衛にという激務の中でも、その合間にサトウは日本じゅうの村や町や山を散策している。そこで出会った植物にも詳しい。1871年(明治4年)ごろ、日本人女性と事実婚している。その次男は植物学者であり・日本山岳会の創立メンバーの武田久吉(尾瀬を世界に紹介し、その自然保護運動に貢献)だったのもなるほど偶然ではない。