昭和6年(1931年)に「福岡日々新聞」に連載されたという夢野久作『犬神博士』(角川文庫、1974.7)を読む。ときあたかも、満州事変が始まり軍部の中国侵略が本格化していく背景での執筆だった。表紙のイラストは俳優の米倉斉加年(マサカネ)。本書を読み進んでいくうちに、この表紙の人物は犬神博士だったんだろう、米倉の感性の鋭さに脱帽する。この眼の鋭さは本書の主人公の人間や社会を見る心眼そのもののように思えた。
残念ながら、新聞社の都合で連載は未完で終わったようだが、連載が続いたならば長編の代表作にもなったに違いない。冒頭は、博士の少年時代の哀しくもまた痛快回想録というところからスタートする。本当の親かどうかわからないいかさま旅芸人のもとで赤貧の暮らしと虐待体験を受けながら少年は各地を放浪する。そこでこれでもかと追い詰められた数々の事件を、「異形異端」の少年は超能力で難局を乗り越えていく物語だ。
軍靴が跋扈している時代に、純文学でもなく、怪奇・推理小説でもなく、プロレタリア文学でもなく、強いていえば児童文学に近く、従来になかったジャンルを開拓している。地方新聞だったこともあり限られた読者層しか流布していなかった。そこへ、戦後になり再評価のスポットを全国的に当てたのが鶴見俊輔だった。たしかに、今日読んでも通用する痛快活劇を読むような清涼感と底辺の庶民目線とが後押した小説だった。それは、『竹取物語』のような現世の人間や政治家を揶揄した展開もあり、軍事体制を強化していた国家権力からの圧力がなかったのが意外だった。
本書の時代内容は日清・日露戦争あたりの明治末期、戦争を支えるエネルギーとして九州筑豊の炭鉱が後半の舞台となった。そこに、藩閥政府と利権にからむ政商・やくざに対して、不平士族や壮士を中心とする政治結社「玄洋社」とが対立・暴動に発展していく。政商とは「三角(ミスミ)」「岩垣」という名前を使っているが、これはかの有名な大企業であるのがわかる。また、実名の結社「玄洋社」の楢山到は「頭山満」であるのもわかる。著者が子どものときから可愛がってもらっていた頭山満のおおらかな風格が克明に描かれている。
玄洋社というと、右翼のテロリスト集団のような面もあるが、アジアを外国の植民地支配から解放するという観点からインドのボースや中国の孫文ら革命家を匿ったり支援をしていた。頭山満や著者の父である杉山茂丸の人格の大きさがその運動を支えていたことが伝わってくる。
なお、異端文学に詳しい松田修は、「チイ=犬神博士とは、神そのものであった」とし、日本の神々の特性は少年、両性具有、流浪であったという。そして、「その伝統が、基層的部分である底辺の芸能者によって継承され」、夢野は本書主人公の女装の少年(犬神博士)に憑依させたのではないかと分析したようである。
加えて、著者の代表作『ドグマ・マグラ』を読む前にほかの短編を読んでおくといいよ、というブラボーさんの助言に従って本書を読んだわけだが、パラパラと『ドグマ・マグラ』をめくった結果、確かにオラの脳幹には難解であり読み終わるのも時間がかかりそうなのがわかった。ブラボーさんと夢野久作とがしばしばダブってしまった。犬神博士の超能力が欲しい。