13歳のクリシュナ・ムルティ、無欲を語る 2014年1月16日
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先回に引き続き、印度の哲学者・宗教家であるムルティ師が
13歳に書いた、小誌の翻訳から ご紹介している。
筆者が感じることは魂の覚醒度は年齢に比例しないこと。
その理由は魂は何度も輪廻(生まれ変わり)を重ねて
そのたびごとに目的(悟り)に向けて確実に向かっていること
~をムルティ師の言葉を通して実感するばかりだ。
悟りとは 輪廻の枠組み から外れて、自分自身の本性に
回帰したときをいう。
その時は病や健康、生や死、悲哀や歓喜という感情さえ
ない、静かな安堵に満ちた安寧と至福の境地に魂は
ただようだろう。
しかし、悟りの境地を待つまでもない。
本来の健康とは 今、ここで、そうした本来の自己を想いだすこと
から始まるゆえに、少年ムルティ師の覚醒の一旦を
ご紹介したいと思う。
“メンタル体は自分を高揚に孤立して考えたがります。
自分を偉いと思い、他人を軽んじようとします。“
という出だしで、メンタル体を語る13歳のムルティは
“人々を助けようという考えの前に、自分自身の進歩は
どうなっているのかと考えさせようとします。“ という。
ムルティのここでいう、メンタル体は 形よく姿を変えたエゴの一種である。
スピリチュアルな人が陥りやすい弱点の一つかもしれない。
覚者になればなるほど、“自分はあなたに奉仕するために生きている“
という謙虚な意識をもつものだ。
例えば、キリストが弟子たちの足を一人ひとり、弟子の
前に頭を低くして、洗ったあげたように。
驕り高ぶることなく、互いに相手の真の尊敬を持ち
頭を低く、高慢になることなく、愛し 人に尽くせよ
という声なきメッセージが 弟子たちに自ら手本を見せることで示された。
話しはそれるが、筆者の知るインドの大師たちは、
寝る間も惜しみ、自分に助けを訴える人たちのために
文字通り 幽体 肉体の姿で、奔走していた。
そして”私はみなさんに使えるために、この世にいる”
と server 世話する人という言葉で自分を表現した。
ムルティは言う。
“マインドはあなたが使うためのものです。だから、ここで 再び、
識別が必要です。絶えず注意しなさい。“
そして、
“識別の中において、重要なことと、そうでないことを区別しなければ
なりません。
正義と溥儀に関しては、敵のように堅固に戦う姿勢はあっても、重要で
ないことには、人にしたがって、優しく、親切で、理性的に振る舞い、
あなたに必要な十分な自由を、人々にも残してあげなければいけないからです。“
高慢でなく謙虚で振る舞うように、とムルティは述べて、
価値あることを知る識別については次のように書いている。
“何が勝ちあることか知ろうと心がけてください。物事の大きさで価値を
判断すべきではない。
直接 大師(覚者)の仕事に役立つかどうか、それがたとえ小さな事で
あっても、世間が善いとする大きな事より、はるかに行う価値があると
知りなさい。“
世間の価値と、覚者の価値は異なること、覚者の仕事に役立つかどうか、
が スピリチュアルな人の、価値基準にあるべきだという。
しかして、悟る人、覚者になり得る。
ムルティがここでいう、覚者とは 個人的に限定した人ではなく
一般的に、悟りを得た人、解脱した人、つまり、人間の本質に
気がつき、そこに達成して ”カルマの因縁を超越した”人たちと
いえるだろう。
そういう、真理を知った人は 様々な方法で、現象界の迷妄に
右往左往して 自爆している人たちを”自由”にしてあげたいと思う。
そのために、役たつと思われることを為し、愛し、誠意で接し、
尊敬し、手を差し伸べる。
その個人の一つの行為は、どんなに小さくても、
それは 十分に価値のあるものだとムルティは言う。
“貧しい人々に食べ物をあげることは、よい、立派な役にたつ仕事ですが、
その人々の魂に糧を与えることは 肉体を養ってあげることより、さらに
立派で有益なことです。
金持ちなら誰でも肉体に食べ物を与えることができますが、知っている
(真理や識別)人々だけが魂に糧を与えることができるのです。“
と記している。
ここで、印度・カルカッタの、マザーテレサの偉業について想いだした。
マザーが行ったことは、死に瀕している人に最後の水を含ませてあげた
ことだけではなかった。
どんなに世間が見捨てたような貧しい人達、生きていたことに意義が
見出されないような人であっても、マザーは彼らに、神様の命が宿っている、
尊敬されるべき存在であることを感じ取っていた。
その念で 死にゆく人々の手を握るだけで、
マザーは 彼らが”生きてきた意味”を感じることを知っていた。
否、もっと、謙虚だったのかもしれない。
マザーは ”この施設で亡くなる名もなき人によって、私は、人間の尊厳
を知ることができたのです。”と語り、大きな意義を与えられたのは、
彼らではなく、むしろ 彼らと接する、マザー自身であったと述懐している。
ここで言う、ムルティの小さな、しかし、この上もない
意味のある仕事とは、こうしたことをさしているのだと感じる。心の糧
を与えること。
与えるとはおこがましい。
まず、一人ひとりが自分の尊厳を知り、相手にある
尊厳に働きかける。
同じ周波数が 共鳴するように、必ず、それが相手の真の心に響く行為
となるだろう。
ムルティはインド人だ。
13歳の少年の周り、家族を含めて、ヒンズー教徒だった。そんな中で
次の言葉を残している。
“神の前には皆われわれは等しき者です。その人がヒンズー教徒か、仏教徒か、
キリスト教徒か回教徒かということは全然問題ではありません。
略・・
ただ 大師(覚者)だったら、この状況をどのように対処されるだろうか?~
と考えてみてください。
それが 問題が起こったときにあなたが まず考えるべきことだと思います“
万教帰一の教え。
万(よろず)の教えは、一つ(真理・自己の中の神)に帰結する~という
意味だ。
識別の項の最後で ムルティは次のように言っている;
“利己的なことと、非利己的なことを識別しなさい。
一つの利己的なことをやっと克服したと思っても、一層強い
別の形の利己的なことが現れるでしょう。
けれども、もしあなたが 他者のことを助けようと考えて
いれば、そのうち、その考えでいっぱいになって、自分自身の
ことを考えるゆとりもなくなるでしょう。“
助けるとは?
先に述べられているように物質的なことだけではない。
“うわべではどんなに悪く見えても、すべての人、
すべての物の中にある神を見分けられるようになりなさい。
他者とあなたとは、共通に持っているものがある。
それは神の生命です。
それを識別できれば、兄弟たちを助けることが容易に
できるようになるでしょう。
助けるというのは、彼の内なる奥には、神の生命が流れて
いるということを目醒めさせること、
その内なる奥の真の自分に訴えかけることができたとき、
それ以上の助けはないことでしょう。“
続く・・・
参考) ”扉をたたくもの”
クリシュナムルティ著 田中恵美子訳
S・44 関西神智学研究所発行