他者の信仰と儀式の尊重 2014年1月24日
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数回にわたり 印度の哲学者・宗教家であるムルティ師が
13歳に書いた、小誌の翻訳からご紹介してきて
今日が最後になる。
筆者が感じることは魂の覚醒度は年齢に比例しないこと。
その理由は魂は何度も輪廻(生まれ変わり)を重ねて
そのたびごとに目的(悟り)に向けて確実に向かっていること
~をムルティ師の言葉を通して実感するばかりだ。
悟りとは 輪廻の枠組み から外れて、自分自身の本性に
回帰したときをいう。
その時は病や健康、生や死、悲哀や歓喜という感情さえ
ない、静かな安堵に満ちた安寧と至福の境地に魂は
ただようだろう。
しかし、悟りの境地を待つまでもない。
本来の健康とは 今、ここで、そうした本来の自己を想いだすこと
から始まるゆえに、少年ムルティ師の覚醒の一旦をご紹介している。
寛容についてムルティはこう語る:
“あなたはすべてのものに、寛容であるべきです。
別の宗教の教義にも自分たちの宗教と同じように関心を持つことも
大切です。
他の宗教も、最も高いものに至る道を説いているのです。
このような完全な寛容さを得る前にしなければならないことが
あります。
それは、頑迷(がんめい)と迷信から自由になることです。
あなたは 何も儀式は必要でないということを知るべきです。
そうでないと、儀式を行わない人々よりも、自分のほうが
いくらかでも優れていると考えてしまうでしょう。“
ここで言う儀式とは 宗教的儀式のことだろう。
あるいは 祀りであり、祈りの形式やそれに関する決まり事に
精通しているということかもしれない。
いずれにしても、決められたしきたりの中で行う、厳粛な儀式に
関連したことをさすと思われる。
人は儀式を知っているということだけで、自分が優れている
とか霊的だと、勘違いすることへの戒めでもあるだろう。
そして、 頑固さ を一掃しなければいけないというその意味に、
他の宗教の排斥や信念への中傷批判をしてはならないという
意味が、含まれているということだ。
だからといって、反対に 儀式に精通している人を侮っても
いけない。
だから ムルティは次のように言葉を続ける:
“まだ儀式にしがみついている人々を非難してはなりません。
好きなようにさせてあげなさい。その人が真理を知っている
あなたの邪魔をするわけではないのですから。
もし、その人があなたが生長して、もう必要なくなって脱した
儀式のようなものをあなたに押し付けてきても、事情をくみ
取って親切に接しなさい。“
ここで ムルティは 儀式と対角的に、真理を置く。
結局、儀式を行うにしても、究極の真理を知ることが大事なの
であり、儀式のみ、一生懸命行っても、本来の意義があまり
見いだせないということだろう。
儀式をすることで 自己満足に終わりがちだ。
“あなたの目は開かれたので、昔の信仰や昔の儀式は
ばからしいと思うかもしれません。
なぜなら、実際、それはほんとうにばかばかしいこと
だからです。
あなたはもう、それに関係することはありませんが
それがまだ、大切な意味を持っている善良な人々の
ために尊重しなさい。
古い信仰、儀式はその役目をもっているのです。”
此処でいわれる寛容とは、他者の信仰に対する寛容さを
さしているから、どんな宗教も、どんな信仰も、どのような
ステージに信者の魂がとどまっていても、寛容に、それぞれ
の意義を認め傲慢にふるまったり、不親切な態度で接したり
しないようと(13歳の)ムルティは 戒めている。
4番目は快活について述べている。引用すると
“苦しみがやってきたとき、自分のカルマの解消と知り、
耐えなければなりません。
どんなにつらくても、さらにいっそう悪いものでなかった
ことに感謝しなさい。
悪いカルマが除かれて、自由になるまで、まだ人のために
大師のお役にたっていないことを覚えておきなさい。
カルマはあなたが一番好きなものや、一番愛している人々
さえ取り上げてしまうかもしれません。
それでも、あなたはいつでもどんなものでも 手放す覚悟が
あれば快活でいられます。”
5番目に 専念 という項目があげられている。引用すると
“心に留めておくべきただ一つのこと、
それは、大師(覚者)の喜ぶ仕事をするということです。
人の助けになる非利己的な仕事はすべて 大師の喜ぶ
仕事です。
小さな部分に最善を尽くし、心からそれを行うのです。
もし、大師(覚者)があなたの仕事を見に来るとしたら、
それを事前にあなたが知ったら、自分の今の仕事を
どのように整えるか想像してみなさい。
そのような時と同様に常に、仕事に対して接しなければ
なりません。
専念という意味は、自分が選んだその道から、瞬時も
方向を変えない事です。
誘惑からも、世俗的楽しみからも、その方向性を変える
力にならないでしょう。
あなた自身と道は一つです。道から離れることはあなた
自身から離れること、それをあなたは知っています。“
(引用以上)
以前 ブログで発表したタントラの伝道師のグルである
B師の言葉をここで思い出す。
B師は、ムルティを非難したという。
それは ここに掲げたような言葉、13歳にして厳格な
修道士を思わせる言葉、例えば、
“道を外れるな。五官の楽しみの誘惑にはまって、道から
それてはいけない“という かたくなに欲望を否定する
ことへの現実的な矛盾点を指摘したうえだった。
タントリックな教義では 五感の誘惑を手ではねのけても
意味がないとする。
なぜなら ますます その誘惑は手を変え品を変えて、
その人に接近するだろうから・・・
しかも、その人の誘惑に対する 魅了される心がなくなら
ないまではいかなる抵抗も無意味だとする理由からだった。
むしろ、五感の誘惑に陥る煩悩のエネルギーを昇華
させることによって、悟りへ近づくとも考えられている。
人は”~してはならぬ” の言葉をそのまま、”はい、わかりました”
~と納得するほど、単純ではないということをきっと、
大人へと成熟した時、ムルティは理解しただろうのだろうか?。
これまで読んだ13歳の少年導師の言葉は大師に教わった理念
をそのまま、当時の自分の魂で咀嚼してかかれたものだろう。
年を重ねて、行間に蘊蓄(うんちく)を含ませた表現がみられる
ようになったのではないかと察しているが、どうなのだろう?
しかし、ここに述べられている、様々な心の側面に対する
真理は、根本的に、いささかもぶれてはいなかった筈ではある・・・
参考) ”扉をたたくもの” クリシュナムルティ著 田中恵美子訳
S・44 関西神智学研究所発行