自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

形而上学的癒しの病の位置づけ

2020年05月14日 | 健康と直結する”一元論”について

病の根本改善は物質的療法のみでは不可能だ。       2020/5/14

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先回の続きから)

まず、女史がどのように病を捉えているか、を、アトランダムに

著書から抜粋してみたい。

 

① *病の原因は神聖なる科学におけるキリストによって、

抹殺されなければならない。 

もしそうでなければ、いわゆる、肉体的感覚(physical sense)

が勝利するだろう

I引用終わり]

 

初めの言葉”病の原因は抹殺されなければならない。” ~ 

言い換えれば、ここで ”病は存在しない”と,エディ夫人は病を

切り捨てる。 

それを聞けば、”病が存在しないわけはない!”と多くの人は思う。 

が、’存在しているように見えているもの’と’存在しているもの’とは、

意味が違うのだ。 

 

エディ夫人が”病気は」尊際しない”という意味は、病は、実は、

存在しているように見えているだけで、本当は、”夢のような”

仮の存在にすぎないからである。

もし、病が存在するのなら、エディ夫人の言葉を借りて表現すれば、

”肉体的感覚が勝利する” ことになってしまう。

 

”肉体的感覚”とは、”病になっている”と認識する感覚である。 

感覚、視たり、聞いたり、触ったり、味わったり、触れたり、

という五感は、顛倒妄想を生み出す元で、錯覚を作り出す大元

であると、般若心経でも中心になっている考え方である。

では、エディ夫人に言わせると、この感覚が”何に”、勝利するのだろう。

 

それは、”生命”にである。  

エディ夫人の言葉を借りれば、、”永遠のキリスト”に対してである。

ここで、キリスト教ではないから、と、この意見に躊躇する読者も

おられるだろう。

キリスト という言葉の代わりに、ご自身の信仰の対象の言葉に

置き換えてよいかと思う。 

 

宇宙意識、生命、仏、クリシュナ、光、偉大なる何か(something great) 

などなど、存在する真なるものである。

さて、その説明が②に続く。

 

② もし、病気が実在するならば、それは不滅性(immortality)に属する

ことになる。

つまり、もし病気が真に本当にあるのなら、それは真実の一部

であるということだ。

 

そこで薬剤を用いたにせよそうでないにせよ、なぜ、病(真理の状態)

打破しようと試みるのだろう? 

しかし、もし病気や罪が幻想であるのなら、この滅ぶぺき夢、つまり、

幻想(顛倒妄想)から目覚めることが、真の健康と私たちの本質である

清らかさや不滅性に導くのである。

(引用終わり)

 

’病気が実在するのなら、それは不滅性を持っているとしたら、

決して治ることはないということ。

健康であるより、病気である状態が真実だ、という理屈になる。

ところが、病気は西洋医学の処方に頼らずとも、どんなに重篤であっても 

’奇跡的回復’が可能なのだ。

 

実際 エディ夫人自身が奇跡的回復体験を持ち、スチャンサイエンス

を創始した。(*2)

また、こぶし大の癌が患者の気持ちの向け方で、消えてしまうこともある。

 

”ありがとう、ありがとう”と数万回毎日唱え続けて、癌細胞が消えた人

を知っている。

その場合、”病気は実在していない”ということが明らかに言える。 

①にも書いたように、’実在する’ と ’実在するかのように見える’違いが、

こうした事例をみるとはっきりわかる。 

 

ここでエディ夫人は、”もし、病気が実在するならば、それは不滅性(immortality)

属することになる” という。 

実在するとは、永久に存在することはない。 

どんなに病で苦しんで死んでも、死体からは、病は消える。 

生命が消えれば 病はなくなる。 肉体が朽ちれば、完全に消える。

だから、病気は不滅ではない~ということだ。  

一方、不滅ではないものは何なのか?  

エディ夫人は それこそが、”真実” だと言う。

 

眞實とは何か? 教義の中の眞實、真理、神の定理、神の法則、

を指すのなら、キリスト教信者のエディ夫人にとっては、それは、

キリストそのものだろう。

仏教徒にとっては、不生不滅のバンニャーの智慧(般若の智慧)

が、”真理” である。

このキリスト教的解釈も仏教的解釈もどちらも矛盾はない。 

なぜなら、エディ夫人は

もし病気や罪が幻想であるのなら、この滅ぶぺき夢、つまり、

幻想(顛倒妄想)から目覚めることが、真の健康と私たちの本質で

ある清らかさや不滅性に導くのである” と 言っているからだ。 

 

言い変えれば、’顛倒妄想を取り去れば、空 が現れる~ということ。 

’空中には、般若心経には’老いることも無く、死も無い’”と書かれている。 

そこに不滅性があるという点で、エディ夫人のこの言葉はとても東洋的だ。

 

病気は幻影である。 顛倒妄想である。 これから般若の智慧

(般若心経の真髄の教え)によって、目覚めれば、その時は

病気はすでに消える~ということと同じだと、エディ夫人は語る。

 

③ 聖典によれば、病人は決して薬剤や衛生学、その他いかなる

物質的療法によっても、本当に癒されることはない。 

これらの方法は、問題の矛先をそらし、子供が快適に眠れるよう

甘いシロップを与え、恐怖を鎮める鎮静的な一時的役目をするに

ほかならない。(引用終わり)

 

ここでいう聖典とは聖書のこと。 薬剤や衛生学、いかなる物質的

療法を本質的に癒すことは不可能だ。

薬や物質に頼ったところで、所詮、対症療法でしかない。  

症状が消えるための一時的な処置ともいえよう。

それは、癒されたとように見えているが、症状が出なくなっただけ

の話だ。 

症状が出なければ、癒されたのか? 

否、病の原因そのものへの、本質的改善がなされることが無い以上、

再発の可能性は残る。 

それをエディ夫人は、薬の投与は、”問題の矛先をそらし、子供が

快適に眠れるよう甘いシロップを与え、恐怖を鎮める鎮静的な

一時的役目をするにほかならない。”と言っている。

 

一時的に症状を消すことで、本質的体の改善という最大のテーマ

からそれて、病という恐怖から一時的に眼をそらす様を、

物質的療法の一時的効果としてエディ夫人はみなす。

 

④ 病(症状)が消えると、また再発するかもしれないのに、

私たちや癒されたと思う。

しかし本当に癒されたと言うのには、病気が再発する状態が根こそぎ、

取り除かれるまでは早い(引用終わり)

 

コロナヴィールスもこれに似たことがあった。 

陽性だった人が陰性になり、数日後に、また、陽性反応が出たりした。 

病が消えて、また、再発する。 これは体が根本に改善されていないからだ。 

”病気が根こそき取り除かれる”=それを以て、根本改善、本当に

癒されたと言える。

では、病気が根こそぎ取り除かれるためには?

次回にエディ夫人の著書から 再び答えを求めてみたい。

 

 

引用箇所: ”Science and Health with Key to the Scriptures”, 

by  Mary Baker Eddy 

published by The First Church of Christ, Scientist,

 in Boston, Massachusetts, U.S.A  1982 

(*2)

”Then in the winter of 1866, 

Mary Patterson fell on an icy sidewalk and 

severely injured her spine. Bedridden,

 she turned to her Bible, and

 while reading an account of Jesus healing 

paralytic, she said 

she experienced miraculous healing. She later” By

 

 

 

 

 

 

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