自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

クリシュナ・ムルティが善行を語る

2014年01月20日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

 13歳のクリシュナ・ムルティが善行を語る  2014年1月20日

****************************************

 

数回にわたり 印度の哲学者・宗教家であるムルティ師が

13歳に書いた、小誌の翻訳からご紹介している。

筆者が感じることは魂の覚醒度は年齢に比例しないこと。

その理由は魂は何度も輪廻(生まれ変わり)を重ねて

そのたびごとに目的(悟り)に向けて確実に向かっていること

~をムルティ師の言葉を通して実感するばかりだ。

悟りとは 輪廻の枠組み から外れて、自分自身の本性に

回帰したときをいう。

その時は病や健康、生や死、悲哀や歓喜という感情さえ

ない、静かな安堵に満ちた安寧と至福の境地に魂は

ただようだろう。

しかし、悟りの境地を待つまでもない。

本来の健康とは 今、ここで、そうした本来の自己を想いだすこと

から始まるゆえに、少年ムルティ師の覚醒の一旦を

ご紹介したいと思う。

 

善行は範囲が広い。

ムルティは大師の仕訳として次のように善行を位置づけている。

1.      心(マインド)の自己統制

2.      行為の自己統制

3.      寛容

4.      快活さ

5.      専念

6.      信仰(信念)

 

それぞれの分野の補足説明が続く:

1・心(マインド)の自己統制について

先回述べた無欲を達成するために、アストラル体を

制御することが必要だった。

その次にメンタル体の統制も同様に大切だという。

 

“怒ったり、イライラしないように、気分を支配し、

考えがいつも平静沈着で神経を興奮させないようにする“

ためには マインドの統制の必要性を ムルティは説く。

 

道を求めようとする人は とかく“敏感になる”ので、

感覚の刺激や音に対し、簡単に乱されがちになると

ムルティは述べた上で、外からの刺激や圧迫の反応を

できる限り冷静に対処するよう言う。

 

平静な心を保つことで 勇気が得れるとも言う。

“平成な心を持てば、恐れずに道の試練や困難に

立ち向かうことができます。

平静な心は着実さを生む。

人生の様々な苦しみを和らげて、多くの人々が

くよくよ考えて無駄に時を過ごしていることに

煩わされなくなります。“

人が人生で悲しみや苦しみに直面したとき 

平静心を保つために次のように教える。

悲しみや心配事は、以前に行った結果です。

悪いことはすべて、一時的なものであるということ、

苦しい事があっても、快活に振る舞いなさい。

それらは過去の生涯のもので、

今のこれからの生涯に

属するものではないと知るべきです。

あなたは、それを変えることはできませんから、

くよくよしても始まりません。

それよりも今、あなたが従事していることを考えなさい。

みじめな気持になったり、しょげたりせずに、意気消沈

する必要もなく、そんな気持ちでいれば、まわりの人に

悪い影響を及ぼして、その人たちの生活を

つらいものにすることを知りなさい。

 

あなたは他人にそのようなことを

及ぼす権利はありません。

だから、そんな感情が起きたら、すぐにそれを

棄ててしまうよう努力しなさい。“

 

そして最後に マインドの陥りやすい誘惑、

自分への自負心(プライド)に対して、ムルティは釘をさす。

 

“あなたの心を高慢にしないように。

 高慢は無智の生み出したものです。

 知らない人(真理や識別、統制)ほど、自分は偉いとか

 様々な大きなことを成し得てきたとか考えます。

 しかし、賢者は 神だけが偉大であり、善い仕事はすべて

 神によってなされたということを知っているのです。“

 

次に2番目の仕訳、行為の自己統制についてムルティは語る。

 

“人類に役立つためには正しい思いは

 行動にならなければなりません。

 自分の義務を行う、人の義務を為す必要は

 ありません。

 他の人の仕事をするのなら、その人の許可を

 得て、あるいは助けを求められてするときに

 限られます。

 だから、一人ひとり、その仕事を自分流に

 することにまかせておきなさい。

 

 あなたが高度な仕事に取り掛かろうとするからには、

 日常の仕事をおろそかにしてはなりません。

 それが出来上がらないうちは 他の奉仕をする自由は

 ないからです。

 あなたは新たに世俗的な仕事を始めるべきでは

 ありませんが 今携わっている仕事は完全に

 果たさなければなりません。

 その仕事を人よりも上手にするよう、心をこめて行う。

 大師に対する御用としてその仕事をする心持でゆめゆめ

 おろそかにしてはいけません。“

 

小さなことを疎んじれば、大きな仕事に穴が開くと

いうことだろう。

このぐらいで適当にしておけば・・”という妥協があれば

その仕事の結果は 全力を尽くしたとは言えないだろう。

 

筆者が思うに、~ しなければならない と言われる前に

すでに自分自身の心の奥底で、きっと、精一杯しているか

手を抜いているのか、自分(アートマ)が一番、良く 

知っているのだと思う。

良心はアートマの一部だから、良心がとがめるときは

妥協している自分に気が付いているのだと思う。

 

結果を求めずに、何ごとでも為すという姿勢は、

無欲の項でムルティが触れているところだが、

同様のことが、

行為の自己統制のところでも 言えるということなのだろう。

 

続く~

 

 参考) ”扉をたたくもの” クリシュナムルティ著 

田中恵美子訳 S・44 関西神智学研究所発行

 

 

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バンコク市内騒乱・街カフェ・秀真伝え

2014年01月18日 | 協会ホームページ

突然ですが ・・・・   2014・1・18

*************************


 読者皆様 おはようございます:

 

予定外の原稿ですが、今日のブログは、協会からのお知らせとなります。

 

一昨日 筆者は 騒乱の兆しあるバンコクから戻りました。

1月13日から 反政府勢力主導者は、決起集会を

バンコクの主要な道路を封鎖して行う予定を発表しており、

昨日16日、心配していたとおり、爆発物が反勢力側に投げ込まれて

30名余の負傷者が出たようです。

 

昨年12月あたりから、現政権の2月選挙を阻もうとする

反勢力との軋轢が、日本でも、ニュースなどで流れていて

一月に入れば、双方が衝突する気配は報道されていました。

筆者は、その時点で、出発日時変更不可能の格安切符を

取得していたので、出発までの情勢を見守っていました。

 

年も明けて、公共機関(飛行場や電車)には 数年前の衝突の

時ほどの影響がない方針であることを確認したうえで

予定通り、1月7日、日本をたちました。

今回の目的は、正月バラバラだった、我が家の家族が

バンコクで集まることになり、孫の顔を見たさで タイにまで

行くと楽しみにしていた、要介護2の母とともに

孝行を兼ねた旅となりました。

高齢で血圧200を超えていて、常識ではあまり考えられない

状況でありましたが、飛行機内も快適で、成田から目的の

アパート到着までの16時間の長旅もどうにか乗り越えて

無事に到着しました。

16時間というのは、

成田飛行場を少し先に進んだハイウェイのさきにある

香取神社と鹿島神宮に初詣参拝したからです。

それから飛行機に乗るという

少々欲張った時間の配分でしたが、お見送りで

同行してくださったHさん、Sさんご夫妻のご協力で

母も それほど疲労せずに、機上の人となることができました。

 

さて、到着数日後、

1月13日に 予定通り、大規模な集会が市内数か所で開かれ

市内主要道路は ところどころ封鎖されました。

とはいっても タイ人友人たちは特に顔色を

変えることなく マイペンライ式に日常生活を

送っている様子。

我々の帰国予定日16日に近づくにつれ、反政府の行動は衰え

を見せずに、毎日マスコミをにぎわしていました。

こうした不安定な情勢は当然 観光や経済に影響を与えます。

シンガポール航空 バンコク便も 通常一日3便を一便に減らすほど、

旅行客も減ったようでした。

 我々も、遠出することなく、近場で十分タイの情緒を楽しみ 

母を主体にした無理のない行動範囲で、時を過ごしていました。

 日本から”大丈夫?”メールを 数人の知人からいただいたのも

このころです。

現地にいると意外と 国外でニュースになっているほど、

緊張感はないものです。

 

デモに参加している人達も TVのカメラに手を振ったり、

休憩中、友人や家族と配給弁当をシートに広げて楽しそうに

くつろいで食べている風景はピクニックさながらだと、

現場で様子をみていた主人も漏らしてました。

 

日本は治安が安定している~のがごく当たり前ですが

海外では、そうでもないのだと改めて実感し、

インドで過ごしていたときの体験と重ねたりしました。

たとえば、2006年、筆者の住むニューデリーではあちらこちらに

爆弾が仕掛けられたことがありました。

拙宅から、数キロの地点で、爆弾が破裂しました。

落し物を拾って落とし主に声をかけようとした少年が、

その袋に隠された爆弾が破裂して亡くなったのです。

その現場を通ったときに知人から聞きました。

人々は何事もないように往来を行き来し、明日は我が身か?

というような緊張感が全くないのに驚きました。

今回のバンコクの街の交通をストップさせ

経済にも多大な打撃を与えるような騒乱の

原因となった”デモ行進”の特徴は、

日本や欧米では、違法なデモ集会として

すぐ解散させられるはずなのに、当局は見て見ぬ振り?

一向に統制される気配がないことでした。

これには意外と意味があるのかもしれない・・・

と 深読みしたくなるでしょう。

ただし、その情報はごく限られたものでした。

タイの友人たちと会った時、さりげなく、意見を

聞いてみると、反応もさまざまで、タクシン派(現政権)

を支持する人、反政府の主導者に反感を持ち

”早くひっこめばいいのに”と言う人、

”双方泥試合、ブア・ラ!(うんざり!)・・民主主義なんて

何もない” と 顔を曇らせる人 さまざまでしたが、

共通して言えるとすれば

”それ以上 話せない”と 深読みの扉を開けようとすると、

自然と口を閉ざす部分があったことでした。

 

というわけで、

それなりに集めた情報も、 

あまりブログ上、詳細にお話しするのがタブーな

感じがするのです。

この類の問題には表舞台には登場しない演出家がいて

その演出家の背後には さらに大きい影響力を持つ、

プロデューサーの存在が否めないようです。

彼らは、着実に進行しているシナリオの成り行きを

黙って見つめている。

舞台の袖カーテンの後ろか、客席の暗闇の一番後ろに

いて 舞台進行中は姿を公にしない~

そういう設定になっているかもしれません。

だから、照明のあたっている舞台だけを見ているほうが 

文字通り”無難(難儀が無い)” と知っている 識者は多い

ようです。

 

複雑に絡み合い、対立している政治の表舞台のウラ、

どこの国でも、多かれ少なかれこうした状況は

共通しているのかもしれません。

 

筆者は 不穏な空気を残すバンコクを後にして、

一昨日、19日の”街カフェ”(NPOのお祭り)に間に合うよう、

母ともども元気に、帰国しました。

街カフェ… 町田市のNPO団体、動物愛護、福島支援、

元気に生きる、人生のテーマを見つける、安全な食事・食材

などなどの目的をもった70ほどの団体が参加するようです。

 

拙協会のブースもささやかですが、町田市役所の

一区画をいただいています。

 もう一つのお知らせは 秀真伝全完訳本が自費出版で

完成したというご案内です。

上巻下巻2冊組となります。

各430頁、6,800円定価

秀真文字での原著全綾を原文と対比させて、

現代文字に直して、さらに大訳対訳、注訳がついています。

資料として 秀真時代の天皇家系図一覧表・

(*天照大神は男性神でした!)

天地初めから神武天皇にいたるまでの超古代史表や

神代と言われていた古代の歴史年表に関する資料

などなど きっと興味ある読者もいらっしゃると思います。

そして、神話として扱われていた古事記の世界が

実は、実際に”実在した”ものだと直観していただけるのでは

ないかと思います。

秀真(ほつま)伝(つたえ)は、長く封印されてきた

日本古代の謎を、日本書紀や古事記より古い文献として

紐解いています。

筆者の主人の母である須田痲紗子氏による

完訳となっています。

 

お問い合わせ・お申込みは

shizenchiyuryoku2023 @gmail.com

須田までお願いいたします。

 

それでは

良い週末をお過ごしください。

一人でも多く、読者の方が街カフェに訪れてくだされば

嬉しいです。

そして 自然治癒力セラピー協会のブースにもいらして

ぜひ、お声掛けください。

お待ちしています。

 

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クリシュナ・ムルティ、無欲を語る

2014年01月16日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

13歳のクリシュナ・ムルティ、無欲を語る    2014年1月16日

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引き続いて印度の哲学者・宗教家であるムルティ師が

13歳に書いた、小誌の翻訳からご紹介している。


ここで、感じることは、魂の覚醒度は年齢に比例しないこと。


その理由は魂は何度も輪廻(生まれ変わり)を重ねて

そのたびごとに目的(悟り)に向けて確実に向かっていること

~をムルティ師の言葉を通して実感するばかりだ。


悟りとは 輪廻の枠組み から外れて、自分自身の本性に

回帰したときをいう。


その時は病や健康、生や死、悲哀や歓喜という感情さえ

ない、静かな安堵に満ちた安寧と至福の境地に魂は

ただようだろう。


しかし、悟りの境地を、待つまでもない。

本来の健康とは 今、ここで、そうした本来の自己を想いだす

ことから始まるゆえに、少年ムルティ師の覚醒の一旦を

ご紹介したいと思う。

 

 

“大部分の人が手に入れたく思っている富や権力は

何の価値もありません“

との言葉から始まる、この章は、

“無欲になったら、自分が無くなると思っている人が多い”


今の世の中、

“無欲になるという条件は難しい”と現実の厳しさを

ムルティは13歳にして感じていたようだ。

 

“天国に至るため、悟りを得るため、解脱するため、

輪廻の鎖から自由になるために世俗的な追及を

手放す人たちがいます。

これは誤りです。“

 

何故誤りなのかと言えば世俗的な欲望を手放すこと=イコール

=解脱できる わけではないからだ。

 

“利己的な欲望がすべてなくなっても、

自分がその働きの結果を見たいと思う欲望が

まだ、残っているでしょう。


あなたが誰かを助けてあげたとき、どれほど、

その人の役に建ったかを見届けたく思うでしょう。

 

また、おそらく、その人にもあなたの助力の効果を

見てもらいたいとか、自分に感謝してもらいたいとか、

思うでしょう。


けれどもこれもまた、欲望の一つです。“

 

と人の欲望の 根深さと善行にさえ隠れている

微妙な性質 を語る。

なぜ、こうした さらなる、期待という形を変えた欲望

が出て来るのかというと、ムルティは次のように記す。

 

それは 信念 が足らないのです。

あなたが助けようとして力を尽くした時には、

あなたがその結果を知っても知らなくても、

必ずある“結果があります。


もし、あなたが、‘因果の法則’を知っていれば、当然

そのよう結果の生じることがわかるはずです。


だから、あなたは報酬を望むことなく、

正義のために正義を行いなさい。

結果を見るためにではなく、仕事のために

仕事をしなさい。


あなたは人々への奉仕を愛し

奉仕の為に献身せずにはいられない

という理由で自分自身を世間の奉仕に投げ出しなさい。“

 

傍線を引いた、結果の生じることがわかると言う部分の

意味は漠然としているように思う。


善い結果かそうでない結果に、感知することなく、

ただ善のために善をおこない、

正義のために正義を行い

仕事のために仕事を行う。


結果を求めるために何かを行うことないように

というのがムルティの主旨であるだろう。

 

因果の法則があるから、善いことをすれば、

必ず善い実を結ぶ、それがすぐ、目の前に

結果として出るかどうかは

別物であるという意味でもあるだろう。

 

奉仕のために献身したいから、身を捧げる~

そこには偽善とか、売名とか、他者の目とか、

何等かの報酬や感謝とか

そういう二義的なものが一切入り込むすきのない、

純粋なる動機と想いで全力を傾ける~

これがムルティのいう“信念”~faith という

意味合いだと思う。

 

Faith にはいろいろな翻訳がつく。


信仰、信頼、信念、田中氏はここで、信頼と訳されているが、

あえて、私は、真理に対する信念と、意味合いを取った。

 

ムルティは欲望の中で、霊能力についても触れている。

引用する。


“霊能力を得ようと望んではなりません。

霊能力を持つことがあなたに一番いいと大師が思えば

その力は起こってくるものだからです。


霊能力をあまりにも早く得ようとすると、障害がおこる

ことがあります。


霊能力者は奸智(かんち)にたけた自然霊や動物霊に

悪行をさせられたり、自惚れたりする過ちを犯しやすい。


霊能力を得るために使う時間と力があるのなら、それを

他の人々のために働くことに使うほうがよいでしょう。


霊能力は進歩すれば自然と身に着くものです。

安全な霊能力を現す力は、大師が必要だと認めたときに

起こるもので、それまで霊能力は持たないほうが

よいでしょう。“


いつの時代も霊能力者が優れているとか、憧れとか、

一目置くような雰囲気があるのだろう。


ヨガナンダ師の“あるヨギの自叙伝”でも、

様々な霊能力を身に着けた人たちが紹介されている。


“バラの花の香りを出現させるために、

何十年もかけて修行するぐらいなら、自分の神性を

知るためにそのエネルギーを使えばよいものを。

ほんとうに自分を知ったのなら、自分の今知る以上

の力が自然と出てくるものなのに・・“

と ヨガナンダ師は、つぶやいている。

 

さて、無欲の話に戻ると、ムルティは箇条書きで次のような

心がけを説いている。


①   何か話したいとも思わないようにしなさい。

②   言おうとすることが、真実で、親切で、役に立つ

ことだと確信が持てないのなら、何も言わないほうが

もっと良い

③   この二つの条件を備えているかどうか、あなたが、

口を開く前によく吟味しなさい。

④   日常の雑談のほとんどは 必要のないつまらない

ものです。    

“知る、決意する、敢行する、沈黙する”が 道を求める人の

大切な条件であり、最後の沈黙が一番難しいことでもあります。

⑤   他人を害しない限り、人は自由に考え、話、行う

完全な権利を持っているのだから、あまり、人にかかわって

おせっかいを焼かないようにしなさい。

 

⑥   ただし、もし、彼が間違ったことをしていると思ったら、

その人に個人的に、十分丁寧に、どうしてそれがいけないかを

話してあげる機会を見つけることができたら、

納得させることができるでしょう。

   

ほとんどの多くはそれも不適当な干渉になる場合が多い。

まして第三者にそのことを触れ回ることは 慎みなさい。

 

⑦   もし、誰かが子供や動物など危害を与えようとしていたら

それをやめさせることがあなたの義務です。

 

無欲という項目から多少ずれたようであるが、沈黙を大切に

もくもくと自分の今為すべきことに全力を尽くして

期待を求めないようにすることが 無欲を実現する道であることを

ムルティは述べたかったのだろうか?

 

 続く

 

 参考) 

”扉をたたくもの” クリシュナムルティ著 

田中恵美子訳 S・44 関西神智学研究所発行

 

 

 

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メンタル体とアストラル体を語る

2014年01月14日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

 13歳のクリシュナ・ムルティ、無欲を語る    2014年1月16日

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先回に引き続き、印度の哲学者・宗教家であるムルティ師が

13歳に書いた、小誌の翻訳から ご紹介している。

筆者が感じることは魂の覚醒度は年齢に比例しないこと。

その理由は魂は何度も輪廻(生まれ変わり)を重ねて

そのたびごとに目的(悟り)に向けて確実に向かっていること

~をムルティ師の言葉を通して実感するばかりだ。

悟りとは 輪廻の枠組み から外れて、自分自身の本性に

回帰したときをいう。

その時は病や健康、生や死、悲哀や歓喜という感情さえ

ない、静かな安堵に満ちた安寧と至福の境地に魂は

ただようだろう。

しかし、悟りの境地を待つまでもない。

本来の健康とは 今、ここで、そうした本来の自己を想いだすこと

から始まるゆえに、少年ムルティ師の覚醒の一旦を

ご紹介したいと思う。

 

“メンタル体は自分を高揚に孤立して考えたがります。

自分を偉いと思い、他人を軽んじようとします。“

という出だしで、メンタル体を語る13歳のムルティは

“人々を助けようという考えの前に、自分自身の進歩は 

どうなっているのかと考えさせようとします。“ という。

 

ムルティのここでいう、メンタル体は 形よく姿を変えたエゴの一種である。

スピリチュアルな人が陥りやすい弱点の一つかもしれない。

覚者になればなるほど、“自分はあなたに奉仕するために生きている“

という謙虚な意識をもつものだ。

 

例えば、キリストが弟子たちの足を一人ひとり、弟子の

前に頭を低くして、洗ったあげたように。

驕り高ぶることなく、互いに相手の真の尊敬を持ち

頭を低く、高慢になることなく、愛し 人に尽くせよ

という声なきメッセージが 弟子たちに自ら手本を見せることで示された。

 

話しはそれるが、筆者の知るインドの大師たちは、

寝る間も惜しみ、自分に助けを訴える人たちのために

文字通り 幽体 肉体の姿で、奔走していた。

そして”私はみなさんに使えるために、この世にいる”

と server 世話する人という言葉で自分を表現した。

 

ムルティは言う。

マインドはあなたが使うためのものです。だから、ここで 再び、

識別が必要です。絶えず注意しなさい。“

そして、

“識別の中において、重要なことと、そうでないことを区別しなければ

なりません。

正義と溥儀に関しては、敵のように堅固に戦う姿勢はあっても、重要で

ないことには、人にしたがって、優しく、親切で、理性的に振る舞い、

あなたに必要な十分な自由を、人々にも残してあげなければいけないからです。“

 

高慢でなく謙虚で振る舞うように、とムルティは述べて、

価値あることを知る識別については次のように書いている。

 

“何が勝ちあることか知ろうと心がけてください。物事の大きさで価値を

判断すべきではない。

直接 大師(覚者)の仕事に役立つかどうか、それがたとえ小さな事で

あっても、世間が善いとする大きな事より、はるかに行う価値があると

知りなさい。“

 

世間の価値と、覚者の価値は異なること、覚者の仕事に役立つかどうか、

が スピリチュアルな人の、価値基準にあるべきだという。

しかして、悟る人、覚者になり得る。

 

ムルティがここでいう、覚者とは 個人的に限定した人ではなく

一般的に、悟りを得た人、解脱した人、つまり、人間の本質に

気がつき、そこに達成して ”カルマの因縁を超越した”人たちと

いえるだろう。

そういう、真理を知った人は 様々な方法で、現象界の迷妄に

右往左往して 自爆している人たちを”自由”にしてあげたいと思う。

そのために、役たつと思われることを為し、愛し、誠意で接し、

尊敬し、手を差し伸べる。

その個人の一つの行為は、どんなに小さくても、

それは 十分に価値のあるものだとムルティは言う。

 

“貧しい人々に食べ物をあげることは、よい、立派な役にたつ仕事ですが、

その人々の魂に糧を与えることは 肉体を養ってあげることより、さらに

立派で有益なことです。

金持ちなら誰でも肉体に食べ物を与えることができますが、知っている

(真理や識別)人々だけが魂に糧を与えることができるのです。“

と記している。

 

ここで、印度・カルカッタの、マザーテレサの偉業について想いだした。

マザーが行ったことは、死に瀕している人に最後の水を含ませてあげた

ことだけではなかった。

どんなに世間が見捨てたような貧しい人達、生きていたことに意義が

見出されないような人であっても、マザーは彼らに、神様の命が宿っている、

尊敬されるべき存在であることを感じ取っていた。

その念で 死にゆく人々の手を握るだけで、

マザーは 彼らが”生きてきた意味”を感じることを知っていた。

否、もっと、謙虚だったのかもしれない。

マザーは ”この施設で亡くなる名もなき人によって、私は、人間の尊厳

を知ることができたのです。”と語り、大きな意義を与えられたのは、

彼らではなく、むしろ 彼らと接する、マザー自身であったと述懐している。

 

ここで言う、ムルティの小さな、しかし、この上もない

意味のある仕事とは、こうしたことをさしているのだと感じる。心の糧

を与えること。

与えるとはおこがましい。

まず、一人ひとりが自分の尊厳を知り、相手にある

尊厳に働きかける。

同じ周波数が 共鳴するように、必ず、それが相手の真の心に響く行為

となるだろう。

 

ムルティはインド人だ。

13歳の少年の周り、家族を含めて、ヒンズー教徒だった。そんな中で

次の言葉を残している。

 

神の前には皆われわれは等しき者です。その人がヒンズー教徒か、仏教徒か、

キリスト教徒か回教徒かということは全然問題ではありません。

略・・

ただ 大師(覚者)だったら、この状況をどのように対処されるだろうか?~

と考えてみてください。

それが 問題が起こったときにあなたが まず考えるべきことだと思います“

 

万教帰一の教え。

万(よろず)の教えは、一つ(真理・自己の中の神)に帰結する~という

意味だ。

 

識別の項の最後で ムルティは次のように言っている;

利己的なことと、非利己的なことを識別しなさい。

一つの利己的なことをやっと克服したと思っても、一層強い

別の形の利己的なことが現れるでしょう。

けれども、もしあなたが 他者のことを助けようと考えて

いれば、そのうち、その考えでいっぱいになって、自分自身の

ことを考えるゆとりもなくなるでしょう。“

 

助けるとは?

先に述べられているように物質的なことだけではない。

 

“うわべではどんなに悪く見えても、すべての人、

すべての物の中にある神を見分けられるようになりなさい。

他者とあなたとは、共通に持っているものがある。

それは神の生命です。

それを識別できれば、兄弟たちを助けることが容易に

できるようになるでしょう。

助けるというのは、彼の内なる奥には、神の生命が流れて

いるということを目醒めさせること、

その内なる奥の真の自分に訴えかけることができたとき、

それ以上の助けはないことでしょう。“

 

続く・・・

 

参考) ”扉をたたくもの” 

クリシュナムルティ著 田中恵美子訳 

S・44 関西神智学研究所発行

 

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13歳の覚者~クリシュナ・ムルティ

2014年01月12日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

13歳の覚者~クリシュナ・ムルティ  2014年1月12日

******************************

今日から数回にわたり、印度の哲学者・宗教家である

ムルティ師が13歳の時に書いた、小誌をご紹介したい。


これを読んで感じることはn魂の覚醒度は年齢に

比例しないこと。

その理由は魂は何度も輪廻(生まれ変わり)を重ねて

そのたびごとに目的(悟り)に向けて確実に向かって

いること~をムルティ師の言葉を通して実感する

ばかりだ。


悟りとは 輪廻の枠組み から外れて、自分自身の本性に

回帰したときをいう。


その時は病や健康、生や死、悲哀や歓喜という感情さえ

ない、静かな安堵に満ちた安寧と至福の境地に魂は

ただようだろう。

しかし、悟りの境地を待つまでもない。


本来の健康とは 今、ここで、そうした本来の自己を

想いだすことから始まるゆえに、少年ムルティ師の

覚醒の一旦としてお読みいただきたいと思う。

 

昭和44年関西神智学研究所から発行され 

5年後に田中恵美子氏によって推敲が加えられた

小冊子が手元に送られてきた。


クリシュナ・ムルティ(*1)が1910年、13歳の時

記したものの翻訳版だ。

 

すでに13歳のクリシュナ師にはこの時点で

グル(師匠)が存在していた。


大師と呼ばれるこの方についてここでは詳細は省くが、

はしがきに、クリシュナ師は、グルから 

イニシエーションを受けたことを示唆している。

 

“大師がいらっしゃらなければ、

私は何もすることができませんでした”

としたうえで、

“何か食べ物をみて、それはおいしい食べ物なのだと

いうことだけでは、飢えている人を満足させることは

できないでしょう。


その人は手を伸ばして食べなければなりません。

 同じように、大師の言葉を聞くだけでは、十分ではない。

実行をともなって、意味があるのです。“

 

そのために、クリシュナ少年は、小冊子の中に、

4つのテーマをつけて綴っている。

 

識別について

/無欲について

/善行について

/愛についてだ。

 

各章を、抜粋しながら皆様にご紹介させていただきたい。

 

1.“識別について” ~肉体、アストラル体、メンタル体

識別の定義をここで ムルティはしている。

それは、“真実と不誠実を知る能力”であり、

“人を道へと導く”ものであり、究極的には“永遠の実在と

一過性の現象”を見極め、悟りを得るための智慧

ということができるだろう。

 

ムルティは

“あなたが 一度真実で永遠に続くものを知ったのなら、

もう 他のものでは満足しなくなるでしょう

と記している。

 

“全世界にはわずか2種類の人々しかいません。

ほんとうの智慧を知っている人々と、知らない人々です。

この識別の智慧が必要なのです。

或る人がどの宗教を信じ、そのような人種に属しているか

ということは大切ではありません。


本当に大切なことは、神の人間に対する計画の理解です。

その計画とは、進化 ということです。“

 と言葉が続く。


この場合の’進化’とは、経済の進化でも

社会の進化でも、科学の進化でも、ないだろう。


神(自らの中にいる真我)の計画を知り、

“その実現のために”生きることを指している。

それは、“本当の自分を知る”ことから始まると言う。


“身体、体と‘本当の自分’は別物で 本当の自分の意思が

いつも体に属す自分の心が望むものであるとは限りません。


あなた自身が、ほんとうにしたいもの、したいこと、

それを考えてみてください。

本当のあなたは神なのですから、神の御望みになること

だけあなたの真に望むものなのです。“


と 識別~すべきものに、肉体(五官機能による)的 

自分と本当の、神的資質の自分の望むものの

違いを認識すること~の必要性を述べている。

 

さらに以下のように言う。

あなたの体、肉体とアストラル体(欲望や感情の支配する心)、

メンタル体(知性の支配する心)をあなた自身と

取り違えないでください。

 

それぞれの体(心)は、自分の欲しがっているものを

得るために‘本当の自分’のふりをしています。


けれども、本当のあなたは、これらの三つの体(心)

のすべてを知り、あなた自身がその主人であることを

知るべきです。

 

やるべき仕事があるとき、肉体は休んだり、出歩いたり、

飲み食いしたいと思います。

そのとき、本当の自分を知らない人は

‘さあ、休まなければ。さあ、食べなければ’

と自分に言うのです。


けれども、知っている人は、

‘休みたい’などと思っているのは‘本当の自分’ではない。

ここは食べることも後回しにして、今する仕事を

終わらせよう‘ と切り替えることができるのです。

 

誰かをたすける機会があるのにもかかわらず、

よく肉体は次のように感じます。


‘なんと厄介なことだ。 誰かがしてくれるだろう。’

けれども、‘本当の自分’はこういいます。


‘良い仕事をしようと思っているのだ。

お前(自分の欲望体)に邪魔されないぞ‘ “

 

こうしてムルティの語る言葉は、ヴェーダの中にある

たとえ話に移行していく。

それは 肉体は

本当の自分が乗る馬”(1/2日 ブログ参照)としたうえで、


“肉体をうまく扱い、世話をし、使いすぎることのないよう、

食べ物も清浄なものを与え、清潔にしておく“ 

ことは、人(主人)が、馬の世話をするのと変わらないと

例える。

 

肉体の欲求に負けて、暴飲暴食、暴走しないよう、

怠けることのないよう 飼い主が馬に対して注意を

するように、肉体に関しても、配慮する責任を’本当の自分’

は持っているという。

 

この続きは次回に・・・・

 

参考) 

”扉をたたくもの” クリシュナムルティ著 田中恵美子訳 

S・44 関西神智学研究所発行

 

 

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