そんな教訓話が教科書にあったように記憶するがもしかしたら妄想かも知れん。危ない危ない、アブは居た・・・。止まり方と言うか握り方と言うか初めてじっくり眺めてみたのだ。吸盤かなにかも併用して止まっているとばかり思っていたのに写真で見る限りはしっかりと握って支えているように見える。「だから何なのさ」と言われれば返す言葉も無い万事休す、いいえ万事窮す孤爺ではあるけれど姥捨て山の徒然に慰めと笑みを与えてくれる存在が虫の様子でもあるから無視できないのである。
水域で作業をしていると動作が緩慢と言う事も幸いしてかトンボたちの警戒感が感じられない。近寄って来るし動きを止めれば日当たり具合を選んで止まってしまうのは日常茶飯事で、特にクワやジョレンなどの柄や棒状の農具を持っている時は頻度が上がる。生まれつき心根優しい孤爺は動く事もままならず「どいてください」とも言えずひたすらに忍従我慢の時を忍ぶのである。と言えば格好良すぎるだけのA(C)でしかないのだが客観的分析を加えれば「既に人間と思われていない、危なくない存在」なんだろう・・・。だと我が心の平衡が危ないなあ。ボッチが沼に嵌っているのだから。
写真は図鑑対照で「アオメヤブ」ではないかと推定したのだが普段は気にも留めないし、アブで反応するのはいわゆる血吸いアブでウシアブがほとんどだ。このアブの煩わしさはメマトイに匹敵する。まあ、東西の横綱級と言いたい。ウシアブは父の対応に倣って捕獲すれば翅をちぎり放り投げる。「可愛い牛の血を吸う奴は蟻の餌になれば良い!」心境だっただろう事は容易に察する事が出来た家畜との付き合いが生活と密着していた子ども時代だった。この写真で思い出したのは昔々、インドが発祥の術のような記憶なのだが上空にロープを投げ、そのロープを伝い上り消える…何とかの魔術だ。今も存在しているかどうかは知らないが昔々で無ければ電池を背負ったロボット人形がロープを登る姿に似る。まあ、どっちにしても無駄話の類いであるが姥捨て山の孤爺としては話し出したらどうにも止まらない執着地獄の寂しい日々なのだった。ハイ。