薄幸食にしてはご馳走すぎる嫌いがあるけれど低年金高齢の孤爺としては好き嫌いは言えない立場で、寂しい懐と頭頂部では贅沢も出来ない。その一方でこう言う献立を食したくても銭金積んで食べられる訳も無し、すべてはわが身阿修羅さまか千手観音様のようにその身を駆使て達成しなければ口に入らないのである。
であるからして「北秋田のなっつ」もどきを夜鍋して刻み漬け込んで、ようやく試食の日となった。ここは郷里南魚沼の新米で食したのであるが、これも郷里の米であるから贅沢の内には入らないだろう。てなもんや三度笠の結果、献立は南魚沼のコシヒカリ新米ご飯、ナスの味噌汁、お惣菜は金時草のお浸しになっつをまぶしたサラダ風、フルーツとして柿である。
まずは炊き立てのご飯をひと口食べて見る。これだけでもお茶碗一杯はいけるけれど「なっつもどき」と合わせて二口目にようやく試食となった。なっつもどきを漬け込んで上がってきた液は捨て、食材だけにしたからほぐせば容易にご飯と混じってくれるのだった。このまま混ぜ込んでお握りも「旨いはず!」と思いつつ、それはまたの御愉しみだ。結局はそれだけで一杯を食べ終えてしまい次は金時草となっつのサラダ風である。
当地では金時草は店頭に並ばないから庭に多年草扱いで生えているけれど、元はと言えば春の開花に「アサギマダラが吸蜜に来る」記事を見てから植え付けしたのだが、大元は畑を借りていた頃にも栽培していたから既に30年も前の話だ。春の開花は南国ではない為か冬季には地上部が枯れ、春に萌えだしても蕾はつかず、目論見はオジャンだったし小生はおじんになったし普段の食事はオジヤかおかゆのかつかつの日々と相成ったのである。本来「なっつ」には漬物の旨さが凝縮されているからこれを調味材として混ぜればそれだけで旨い一品が出来る。この味は「美味しい」のではなく「旨い!」のであった。献立の反省点と言えば「蛋白質の不足」と言えるけれど一食や二食くらい蛋白質が少なくてもそもそもの人体髪膚の稼働には影響はしない。生命体細胞は融通が利くのだし精米体細胞は美味しいのである。
残りのナスの味噌汁とフルーツは単なる付け足しになってしまい、無くても満足な夕食になっただろう。次なる混ぜご飯でお握りの試食には生姜漬けを刻んで足して喰ってみよう。寒い日のお握りに最適になるはずだ。