今日も、暑かったですね~
夕方、家に帰ってきたら家の中がうんざりするくらい暑かったです~
ついこの間まで、ファンヒーター点けてたのに、もう冷房しやな。
そして、天気予報通り、下り坂です。
さっき、雨音がしてましたよ・・・明日は雨なんやろな。
さて、西野水道まつりの続きですね!
時代行列が西野水道公園まで来ると、法要や式典が行われます。
自治会長の挨拶や、来賓の紹介、来賓からの一言とかがあり、
最後に、「西野水道の歌」を、みなさんが歌うんです。
ちょっとビックリしました。歌まであるなんてね~
歌詞に、西野水道物語が読み込んであるんやけど、
メロディが、なんかもの悲しくて。
でも、そこに集まってきている人たちみんなが歌えるんですね。
子どもたちのママたちも歌ってました。
歌が終わると、公民館の方かな、西野水道についてカンタンにお話がありました。
そして、170年前の、西野水道を自由に見学してくださいって。
長靴とヘルメット、懐中電灯が用意してあります。
私も、せっかくなので、というかこのために来たんやから、
西野水道に入りましたよ~
真っ暗な細いトンネルらしいから、一人では絶対行けないし、
なので、みんなで行かないとね~
入り口です。
子どもたちと一緒に入りました。
とにかく、真っ暗。足下もゴツゴツしてて水が流れています。
この岩をノミで削ったんですね~
途中、曲がっていたり、下がっていったり、天井が高いとこもあれば、
大人はかがんで歩かないといけないほど、天井が低いところもありました。
こんな狭いけど、全長が220mもあるんですって。
能登の石工にも来てもらって掘ったらしいけど、彼らは琵琶湖側から掘ったとか。
両方から堀りすすんで、よく、まぁ、合体できたものですよね~。
琵琶湖側は土が軟らかいらしく、安全のために補強されてました。
でも、狭くて、天井も低い・・・
出口は、まぶしい~
セメントで出口は補強されてますね。
そして、そのすぐ隣には、2代目の西野水道の出口があり、
そこから、また水道公園の方に、みんなで戻ります。
ちなみに、3代目の西野水道が、その右手にあります。
余呉川の水路として、琵琶湖に注いでいます。
これは昭和55年にできあがったとか。
このおかげで、今は、西野の村が水害に遭うことはなくなりました。
そして、これらの水道の出口の前には、琵琶湖が広がっています。
遠くに見えるのが、竹生島です。
釣り人がたくさん来てましたね~
さてさて、2代目の水路から公園の方へ戻ります。
やっぱり、結構長いですよ~
出てきたところで、2代目の入り口をパチリ。
たくさんの人が、西野水道を行き来してました。
多くは地元の人たちやと思うけど、長浜市長や議員さんも来られてましたね。
そう、まったくの市外から来てるのは・・・数名やないですかね~
カメラ小僧のようなおじさんがひとり、ふたり・・・ぐらい?
模擬店の準備やら、餅つきが始まってました。
本当に、地域のお祭りやね~
かやくごはんとお茶を買って、私も帰路に。
余呉川から、3代目の水道を見たところ。
車がいっぱい駐まってる先に、水道公園があります。
山の向こうに琵琶湖があるんですねぇ。
パンフから・・・
大雨が降るごとに余呉川は氾濫し、土地の低い西野の田んぼは冠水して湖のようになる。
民家が床上浸水しても、ただじっと水が引くのを待つしかない。
そんな村人に追い打ちをかけるように、大飢饉がおこり、米が取れなくなった。
村人たちの惨状に、西野充満寺の恵荘上人は、西山を堀貫き、
水道をつくって水を流すしかないと考えていた。
恵荘上人の悲願と信念、村人の努力と執念、
隣村の人々の温かい支援と協力、彦根藩主や幕府の大老の理解と援助、
それらによって、6年の歳月を経て完成する。
子どもたちの劇も、こういうお話。
公園には、歌が書かれたパネルの他に、
年譜や、米の取れ高などが書かれているパネルもありました。
めっちゃ、良い天気の6月。
毎年この6月の第1日曜日に、西野水道まつりが行われますが、
6月に、念願の水道が貫通したんですね。
掘り貫き125間5分、かかった費用は、1,275両。
今のお金に換算すると、約4億円。
石工の労働日数、5,289日。人夫の数はのべ1万人。
費用のほとんどは100戸ほどの農家が負担。
田畑や家財道具を売り、山の木を伐採し・・・
大きな犠牲を払いながらも、村のために、
後世の人々のために行った、偉大な工事だったんですね。
夕方、家に帰ってきたら家の中がうんざりするくらい暑かったです~
ついこの間まで、ファンヒーター点けてたのに、もう冷房しやな。
そして、天気予報通り、下り坂です。
さっき、雨音がしてましたよ・・・明日は雨なんやろな。
さて、西野水道まつりの続きですね!
時代行列が西野水道公園まで来ると、法要や式典が行われます。
自治会長の挨拶や、来賓の紹介、来賓からの一言とかがあり、
最後に、「西野水道の歌」を、みなさんが歌うんです。
ちょっとビックリしました。歌まであるなんてね~
歌詞に、西野水道物語が読み込んであるんやけど、
メロディが、なんかもの悲しくて。
でも、そこに集まってきている人たちみんなが歌えるんですね。
子どもたちのママたちも歌ってました。
歌が終わると、公民館の方かな、西野水道についてカンタンにお話がありました。
そして、170年前の、西野水道を自由に見学してくださいって。
長靴とヘルメット、懐中電灯が用意してあります。
私も、せっかくなので、というかこのために来たんやから、
西野水道に入りましたよ~
真っ暗な細いトンネルらしいから、一人では絶対行けないし、
なので、みんなで行かないとね~
入り口です。
子どもたちと一緒に入りました。
とにかく、真っ暗。足下もゴツゴツしてて水が流れています。
この岩をノミで削ったんですね~
途中、曲がっていたり、下がっていったり、天井が高いとこもあれば、
大人はかがんで歩かないといけないほど、天井が低いところもありました。
こんな狭いけど、全長が220mもあるんですって。
能登の石工にも来てもらって掘ったらしいけど、彼らは琵琶湖側から掘ったとか。
両方から堀りすすんで、よく、まぁ、合体できたものですよね~。
琵琶湖側は土が軟らかいらしく、安全のために補強されてました。
でも、狭くて、天井も低い・・・
出口は、まぶしい~
セメントで出口は補強されてますね。
そして、そのすぐ隣には、2代目の西野水道の出口があり、
そこから、また水道公園の方に、みんなで戻ります。
ちなみに、3代目の西野水道が、その右手にあります。
余呉川の水路として、琵琶湖に注いでいます。
これは昭和55年にできあがったとか。
このおかげで、今は、西野の村が水害に遭うことはなくなりました。
そして、これらの水道の出口の前には、琵琶湖が広がっています。
遠くに見えるのが、竹生島です。
釣り人がたくさん来てましたね~
さてさて、2代目の水路から公園の方へ戻ります。
やっぱり、結構長いですよ~
出てきたところで、2代目の入り口をパチリ。
たくさんの人が、西野水道を行き来してました。
多くは地元の人たちやと思うけど、長浜市長や議員さんも来られてましたね。
そう、まったくの市外から来てるのは・・・数名やないですかね~
カメラ小僧のようなおじさんがひとり、ふたり・・・ぐらい?
模擬店の準備やら、餅つきが始まってました。
本当に、地域のお祭りやね~
かやくごはんとお茶を買って、私も帰路に。
余呉川から、3代目の水道を見たところ。
車がいっぱい駐まってる先に、水道公園があります。
山の向こうに琵琶湖があるんですねぇ。
パンフから・・・
大雨が降るごとに余呉川は氾濫し、土地の低い西野の田んぼは冠水して湖のようになる。
民家が床上浸水しても、ただじっと水が引くのを待つしかない。
そんな村人に追い打ちをかけるように、大飢饉がおこり、米が取れなくなった。
村人たちの惨状に、西野充満寺の恵荘上人は、西山を堀貫き、
水道をつくって水を流すしかないと考えていた。
恵荘上人の悲願と信念、村人の努力と執念、
隣村の人々の温かい支援と協力、彦根藩主や幕府の大老の理解と援助、
それらによって、6年の歳月を経て完成する。
子どもたちの劇も、こういうお話。
公園には、歌が書かれたパネルの他に、
年譜や、米の取れ高などが書かれているパネルもありました。
めっちゃ、良い天気の6月。
毎年この6月の第1日曜日に、西野水道まつりが行われますが、
6月に、念願の水道が貫通したんですね。
掘り貫き125間5分、かかった費用は、1,275両。
今のお金に換算すると、約4億円。
石工の労働日数、5,289日。人夫の数はのべ1万人。
費用のほとんどは100戸ほどの農家が負担。
田畑や家財道具を売り、山の木を伐採し・・・
大きな犠牲を払いながらも、村のために、
後世の人々のために行った、偉大な工事だったんですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます