映画「横道世之介」は、よけいな説明がないからいいと思う(いかにも感想書きます風の出だしだな)。
主人公はもちろん、すべての役者さんがいい仕事をされている。
たとえばお手伝いさん役の広岡由美子さん。
世之介と祥子が、お互いに名前を呼び捨てでよぶことにしようと決めて、二人で交互にてれながら「世之介」「祥子」と呼び合う。
バカップルのいちゃいちゃにもなってしまうこの場面だが、お手伝いさんがそんな二人を見ながら、こらえきれず涙をぬぐうだけで、祥子の人生がうかびあがってくるじゃないですか。
よけいな説明はいらない。映画なんだから。
最近観たいくかの邦画と圧倒的にちがったのはここだ。
「脳男」も「ストロベリーナイト」も「草原の椅子」も充分楽しかったけど、あまりのわかりやすさに、なんかおバカ扱いされてる気分をぬぐい去ることはできなかった。監督さんに罪はないのかもしれない。それくらい説明した映画じゃないとお客さんは入らないという空気があるのかもしれない。
でもね、「あなたは、三年前にこの村を出て行った○○さんではありませんか」的なセリフはやっぱいらない。
佐藤浩市が写真集を見るときに、老眼鏡をかけるのはいい。でもすっとかければいいじゃん。いちいち、いかにもかけますというそぶりで手にして、「この歳になるとね」とか言わなくていい。ていうか、佐藤さん、そんなに年寄りじみた感じの芝居しなくていいから。50歳っていってもみんながみんなじじくさいわけではないから(おれとかね)。
「横道世之介」は、80年代中頃かな、大学に入学した主人公の学生生活を描く。
特別大きな事件が起きるわけではない。
ちょっと年配の人なら、そうそう大学ってこんなだったなとか、こんな奴いたよなとか、少しの恥ずかしさとともに思い浮かべられる学生時代だ。
ちなみに、新宿の駅ビルにでかでかと飾られる斉藤由貴の広告写真で、いきなりもっていかれてしまった。
エキストラの服装もほんとによく再現されてる。
明るくてお調子者で、人に頼まれるといやといえない青年の世之介。
なかなか有り難いい経験としては、ちょーお嬢様とラブラブになってしまうところだろうか。
ましてその娘さん(与謝野祥子)が吉高由里子だったりすれば、おじさん的には羨望しかない。
でも目の前にこんなかわいい娘さんがいて、自分に好意をよせていることがわかっていてさえ、積極的に進展させられないところが、またいいし、そんなだったなあと思う。
時折、登場人物たちの十数年後の姿が描かれる。
35歳の祥子がタクシーの窓からふと外をみやると、通りの向こう側を歩いているのは学生時代の世之介と祥子だった。
よけいな説明はない。タイムスリップでもなく、幻でもなく、そこに二人はいるのだ。
世之介と祥子はいつの時代もそこにいる。
1980年代を舞台にした物語だから、そのころ学生時代をすごした人が楽しめるのは間違いない。
いや、楽しむというか、あまりのせつなさに心が痛くなる可能性さえある。
そして過ぎ去った年月への思いに押しつぶされそうになるかもしれない。
世之介と祥子ちゃんが、唯一無二の二人の世界が、観た人みんなの心の浮かび上がる瞬間だ。
国語の評論文的な言い方だと、具体の極地が普遍になった瞬間。
見た人誰もが、そこに自分を重ねて愛しくなれる。
今さら声を大にして「いい作品」と言わなくても、観た人はみんないいと言うと思うけど、言いたい。
ほんと月並みな言い方しかできないのが情けないが、心温まる作品だ。
印象的な食べるシーンもよかった。
祥子ちゃんがアメリカンなハンバーガーにかぶりつく場面なんか、映画史に残るんじゃないかと思ったくらい。
同じ釜の飯を食うことは、同じサークル、ゼミ、寮生活、同棲まで含めて、「戦友」な感じになる。
いっしょにご飯食べるってことは、いっしょに「戦う」ためのエネルギー補給だから。
見ている自分まで世之介と同じ釜の飯を食った仲間のような感覚にさせられた。
だから世之介が … (涙)。