曲紹介「大阪俗謡による幻想曲」
原典版「大阪の祭囃子による幻想曲」が発表されたのは1955年、翌1956年に再構成されて国内ではじめて演奏された。大栗はこのように語っている。
~ 今度の作品は先ず異国の人々に日本の固有の音楽の一端を紹介したいという目的で書かれてある。近時前衛音楽と称してミュージック・コンクレート、或いは電子音楽などと、作曲界に新しい運動が起りつつあるけれども、私は私なりに日本の伝統音楽に対して限りない愛着を感じ、それを理論づける為の努力に異常な興味を覚えている。 … 今度の大阪俗謡(これは大阪の人なら誰もが知っている夏祭の囃子であるが)を主題にした作品を書きながら、私は漸くにして日本音楽の作曲技法に関する種々の問題がやや明確な形となって私の頭に現われ始めた。人は「五音々階」の単純さを云々するけれども、我々が現在残されている数知れない沢山の民謡やその他の音楽を少しでも興味を持って見るならば、そこには西洋の十二音音階に劣らない美的感覚と論理的必然性を発見するだろう。例えば日本の音階における転調法の巧妙さ、それは私の曲で第三主題となって現れる僅か十二小節の旋律に過ぎないがその間に三度も調を転換するのみならず旋法までが変化する。
私は新しい人々からは保守反動と呼ばれることも敢えて辞さない古くさい陳腐な祭囃子を使ったことに私は私のささやかなレジスタンスと、日本の伝統音楽に対する深い尊敬と愛情をも含めているのだ。(大栗裕1956) ~
1956年。敗戦から10年余が過ぎたばかり。
ちなみに野口五郎や桑田佳祐が生まれた年である。もっと言えば故田中スーちゃんや、浅田美代子も。
焼け跡から立ち上がった日本人が、世界の奇跡といわれる高度経済成長を後にとげる、その端緒と言われているこの年には、「もはや戦後ではない」という言葉も生まれた。
昭和になって戦争の足音が近づき、日支事変、大東亜戦争へと戦争が拡大していく過程のなかで、音楽をやる人間なんてごくつぶしだと言われた時期もあったはずだ。
一転して戦後は、ミュージックが敵性語でなくなり、ジャズもポップスも適性音楽ではなくなった。西洋の音楽を謳歌し、前衛的な作品もつくられるようになった。
音楽にかぎらない、小説の神様とよばれた志賀直哉大先生が、「日本語なんて使ってたから、あんな戦争をひきおこしたんだ、フランス語を公用語にせよ」と主張した。
それほどいろんな分野で、日本の文化、伝統的なものは価値が低いとされた時代だ。
そんな時期に、あえて日本の音階を、日本の祭り囃子を題材にしてオーケストラ作品を書いた大栗裕は、今のわれわれが想像もできないほど強い思いで作曲していたのではないだろうか。
とはいえ、オーケストラ作品として大成功を収めたとは言いがたい。
この作品が有名になるのは、やはり吹奏楽版が編曲されて大阪市音が演奏し、そして何より、いまや押しも押されぬ吹奏楽界の横綱バンド「淀工」のレパートリーになったからだ。
しかし演奏しはじめた頃の淀工は、工業高校らしく男子部員がほとんであり、当然初心者ばかりだった。丸ちゃんこと丸谷先生も、音楽プロパーの方ではない。
そして吹奏楽自体が、クラシック音楽のなかでは異端、1ランク低い音楽形態とみる向きも多かった。
「大阪俗謡による変奏曲」の魅力は、土俗的な作品内容もさることながら、レパートリーとして確立した淀工のパワーと吹奏楽というジャンルのもつパワー、言うならばアウトサイダーのパワー、反骨の精神が何層にも重なり合ってうまれたものであるように思う。
だから、音楽的繊細さももちろん大事だが、人の情念をどれくらい盛り込めるかが、この曲の演奏価値を決めるのではないだろうか。
昔の淀工のあついパワーに一歩でも近づきたい。
今年、定演パンフレットの製作が若干おくれている。「曲紹介の原稿、おれ書いちゃうね」と言って書こうとしたらこんな感じになった。いただいた5、6行のスペースにはいりきるわけないので、ここに載せることにした。