~ 詩人―作家が言おうとすること、いやむしろ正確に言えば、その書かれた文学作品が言おう、言い表そうと志向することは、それを告げる言い方、表し方、志向する仕方と切り離してはありえない。人々はよく、ある詩人―作家の作品は「しかじかの主張をしている」、「こういうメッセージを伝えている」、「彼の意見、考え、感情、思想はこうである」、と言うことがある。 … 実のところ、ある詩人―作家の書いた文学作品が告げようとしているなにか、とりあえず内容・概念的なものとみなされるなにか、言いかえると、その思想、考え、意見、感情などと思われているなにかは、それだけで切り離され、独立して自存していることはないのである。〈意味され、志向されている内容〉は、それを〈意味する仕方、志向する仕方〉の側面、表現形態の面、意味するかたちの側面と一体化して作用することによってしか存在しないし、コミュニケートされない。だから〈意味されている内容・概念・イデー〉のみを抜き出して「これこそ詩人―作家の思想であり、告げられたメッセージである」ということはできないのだ。 (湯浅博雄「ランボーの詩の翻訳について」) ~
先月行われた東大入試より第一問(評論)の冒頭。
かんたんに言うと、表現内容と表現形態は一体であり、分けて考えることは本当はできないということだ。
内容と形式とどっちが大事かと問われれば、われわれは「やっぱ中身でしょ」と答えがちだ。
しかし実際には、何を言っているかより、どう言っているかの方が大事だったりする。
大事というか、「どう」の部分こそ相手に伝わる。
形式と中身を区別する考え方は、昨日勉強した「物心二元論」とつながっているのに気付いたかな、と講習では説明した。
職員室のもどりパソコンをあけると、オバマ大統領が、女性の州司法長官の容姿をほめる発言をして問題になっているというニュースが目に入る。
けなしたんならしょうがないけど、褒めて謝罪しないといけないなんて、アメリカは大変な国だ。
中身と外形とは、彼らのなかではまったく別物でなければならず、仕事の能力と見た目は峻別されなければならないのだろう。
なるほど西欧近代合理主義が徹底されている、徹底されなければならないとみんなが考えている国なんだと思う。
『人は見た目が9割』なんて本はアメリカでは出版できないのかな。