「それはどういうことか」。
毎日教えようとしているのは、これにつきるのかな。
「そのとき彼女(ミロのビーナス)は、その両腕を、故郷であるギリシアの海か陸のどこか、いわば生臭い秘密の場所にうまく忘れてきたのであった。」(清岡卓行「手の変幻」)とはどういうことか。
「日本人の鐔というものの見方も考え方も、まるで変って了った」(小林秀雄「鐔」センター試験)とはどういうことか。
こういうときは、こうやって読み取りましょう、こう説明しましょう、こういうふうに答えを書きましょう。
そういうふうに読み取れると、この文章の値打ちがよくわかるよね。
映画でも、お芝居でも、登場人物のある言動を目にして、実はこういうことを言いたいんだなと気付いたときに、その作品は味わいを増す。だから気付けないままの人と気付く人とは感動の度合いが異なってくるのは間違いない。
どの程度気付かせようとするか、そのさじ加減が難しい。
「主人公が哀しみにくれている」ことを、セリフで言わせ、表情をアップにし、その理由を述べさせ、過去の事件をフラッシュバックして説明し、雨を降らせ、悲しい音楽を流す。
観衆をどんだけアホあつかいするのだろうという映画はある。
葉っぱ一枚落とすだけで表そうとし、いやそれじゃいくらなんでも気づけなくないか的な作品もある。
どの程度の気づかせ具合がいいのか。それは作り手と観る人との関係で決まるから、おそらく正解はない。
日常生活もそういうことの積み重ねだ。
「おはよう!」って言ったら「バカ!」て言われた。
「バカ」は拒絶の場合もあれば、どうしていいかわからないほどの好意表現の場合もある。
どの程度気づかせようとし、期待した程度に気づいてくれるかどうかは、当人同士の関係性の問題だ。
好きならもっとアピールすればいいのにとか、いい加減きづいてやれよとか、周囲がやきもきすることもままある。
お父さんは、酔っ払って夜中にラーメンをつくっていた。遅くまで起きて勉強してた自分に、酔ったいきおいでちょっと食べろと言ってきた、ウザかったけど食べたらおいしかった。
そんな思い出があり、年とって思い返してみたら、あれはお父さんが酔ったふりをしてただけかもしれない、話しかけないでという雰囲気をつくってた自分に話しかけるため、そして精神的にテンぱっていた自分に一息つかせるため … 。亡くなって何年か後、何かをきっかけにそんなことに気付いて、泣けてくる。
ひょっとしたら、あれは … ということに気付いて、後悔したり、泣けてきたり、愛情にひたってみたり、元気をもらったり。
誰もが経験するような日常を、気づきさえすれば愛おしくなれる日常を、それはおそらく誰もが抱いているはずの愛おしさを、こ難しい言葉も、異常な事件も使わずに描き出した小説。
テレビドラマの脚本家として知られる木皿泉氏の初(!)小説は、そんな作品です。
昨日タイヤ交換を待っている間に読み始めてやめられなくなり、マクドに席をうつして読み続け、『自虐の詩』級に泣いてしまった。このページを読んでいただいてる方で、大人の方はすぐに本屋さん、もしくはamazonで注文してください。これほどお薦めしたい本はなかなかありません。