今日は、現代文と古文で今年度初めての授業があり、さすがに最初の時間はみんなシンとして、こいつはどんな風に教えるつもりなのだろうと見つめているので(なかには見とれている子もいたろうか)、つい調子にのって語りに入ってしまう。
文章はなぜ書かれるのか、現代文とは何か、評論とは何か、評論はそういうものだとしたら自然読み方も決まってくるよね、じゃこういう言葉にチェックして読んでごらん、するとあらあら不思議、大事なところがはっきりしてくるね、こういう読み方を練習してくんだよ … 。
合理主義やら個人主義という単語が出ると、みんな自分の人生は自分で決められるって思っているよね、でもそんなのはここ数十年の話なんだよ、もっと言えばこのあいだの戦争の後からかもしれない。この間の戦争ってわかるか、太平洋戦争のことだよ、みんなのお父さんお母さんが生まれるちょっと前まで、日本は戦争してたんだからね、だいたい太平洋戦争とは … 。
完全にオヤジの説教になる、すんでのところでくいとめて授業にもどっていくが、そんなお説教の最中に、何かを思って一言メモしてる子を見つけたりすると、うん、この生徒さんは伸びそうだと思う。
われわれが黒板に書いたことをきちっとノートにまとめる生徒さんは、その通りにかちっと成績をキープする。 それプラス、そのときに自分が思いついたことを書き留めたり、うまく図に書き直したりする作業をしはじめる子は、あるとき一気につかむことがある。
オヤジくさい説教やいつものハイブロウなギャグが、むしろそういうきっかけになることもあるはずだ。
内田樹先生は「トリガー」と言っていた。
~ 教師の仕事はどうやって学びを機動させる「トリガー」を見つけるかだけなんです。トリガーはひとりひとり全部違う。ある子どもはこう言ったら、いきなり勉強しはじめた。じゃあというのでおなじ言葉を別の子どもに言っても上の空だった、なんてことは当たり前なんです。(内田樹・岡田斗司夫『評価と贈与の経済学』) ~
なにがトリガーになるかは、教える側も教わる側もわからない。
だから、学校にはいろんな先生がいるべきだと、内田先生は言われる。
高い見識と教育力をもつからいいというものではないとも言われるので、もう予習もほどほどでやめて、『多崎つくる』を買いにいこう。