昨日かな、朝日新聞の「花まる先生」という記事で、小学校の国語教材「一つの花」の授業が紹介されていた。
~ 「いよいよ戦争に行きます。その時、お父さんはどんな気持ちだったんだろう」 ~
小学校四年生に、これを答えさせるのはなかなか厳しいものがある。
自分だって、聞かれたら答えられないな。
この「一つの花」に登場する「お父さん」のように、大きくても2歳ぐらいの娘を残して、戦場に向かわねばならない父親の気持ちなんて。
作品の設定によれば、米軍による本土空襲が始まった後なので、口には出さないまでも大人なら「もう負けるかも」と考えていた時期だろうし、「あまりじょうぶでないゆみ子のお父さん」が招集された事実が、厳しい状況を物語っている。
そんな状況下で、生きて帰れないことを半ば覚悟して出征していく「お父さん」の気持ちは、軽々に想像するのさえためらわれる。
もし、考えさせるのならば、与えられたテキストの範囲内で、想定していい分だけを認めるべきだろう。
本文から読み取れない事柄は国語の授業としては「間違い」として扱わなければならない。
もちろん生徒が何を想像してもいいけど、「正解」にはならない。
子ども達に言わせた意見を、先生はどれも否定しないそうだが、自分的にはそれを授業とはよべない。教員の仕事は司会進行で終わるわけにはいかないので。
でもなあ … 。
こうやって新聞に取り上げられるくらいだから、しっかりした先生なのだろう。
いい先生だけど、国語の勉強は積んでない方ということだろうか。
「むやみに気持ちを問わない授業を、国語ではやっていきましょう」というのは、ここ何十年かの国語教育界の課題だと思っていた。
それとも自分の勉強が偏っていたのだろうか。
久しぶりに「一つの花」を読み返して思ったのは、かりに高校生相手でも、この教材は難しいのではないかということだ。
それほど題材が生活と乖離している。
「戦争」ってどういうものか。
自分も含めて、いま全ての教員が戦争体験をもたない。よほど勉強するか、どこか紛争地帯に行ってみたか、みたいな方でないと、あまりにも素材について無知すぎると思う。
まして、学校の先生って自分もふくめてあまりに世間知らずで、ちがった、あまりに純だから、情緒的にしか戦争をとらえられなくなっている危険性がある。
「戦争の悲惨な姿のひとつを読み取らせる」という目標をこの教材で立てるのは、国語の授業としてはまちがってるのだろう。
じゃ、どうすればいいか。こんな(あえて「こんな」と言うけど)作品は、教科書からはもう除くべきではないだろうか。もっと普通に読み書き能力を高める教材はいくらでもあるはずだから。