始めてシアターコクーンにいった。芝居小屋としてはかなり大きい部類に入ると思うけど、ほどよい段差があって実に見やすい。きれいだし、クロークもあるし。このハコでこのメンバーなら1万円近くするチケットもしかたないかなと思う。
そして、実際に、古田新太さん、宮沢りえさん、小出恵介さんというトップランナーのお仕事はさすがというしかなかった。
だからこそ、思うのだが、この脚本ありえなくね?
なんで今さら唐十郎?
服従なのか、不服従なのか、その生き方は自分で選んだのか、選ばせられているのか … 。
たぶんそんなような内容を盲導犬をはじめとしていろんなもので象徴し、権力にも、世間の価値観にも、普通のお芝居に対してまでも異議を唱えようとした作品なのだと思う。
でも、このレベルの台詞は、とっくに役目を終えている。
東京には「アングラ芝居」とよばれるムーブメントがあって、既成の権威にたてつくような熱い芝居がくりひろげられているらしい、公園にテントを張って芝居してるんだって … 。
なんて話を本で読んだりして、東京に行くとそういう世界が近づくんだろうなあ、東京行きたいなあ、でも東京の国立はさすがに入れないないなあと思っていた高校時代。
いま思うと、唐十郎も寺山修司も、そのころはすでにビッグネームになってはいたのだが、でもアングラ系出身の役者さんをテレビでみたりすると、やっぱかっこいいなあ、ちょっとちがうなあと思いながら根津甚八とか李麗仙とか憧憬の思いでみていたものだ。
あれから幾星霜を経て、下北沢やら新宿やらにも自分で行けるようになった。新宿ゴールデン街劇場なるあやしい小屋も行ってみたりした。
小さくて、チケットの安い芝居小屋で、貧しいけれど志は高そうな若者たちが懸命に演じる姿を観ることができた。もとは小さな劇団がどんどんお客を集め、洗練されたエンタメになったようなお芝居も観た。
なぜに今アングラ芝居をそのままやらねばならないのか。
「盲導犬」は、おそらく何十年も前に、とんがった若い俳優たちが演じ、観客たちがやんやの喝采を送ったときのままの脚本だろう。
当時はおそらく斬新で、観客の心にささったであろう台詞も、今は宙にういて行き場を失っているようだった。
もちろん感動した人もいるだろうし、それを否定する気はさらさらないし、「世界の大蜷川」に「変じゃね?」という人は業界には皆無であろう。
でも、もったいなくて。宮沢りえさんの女優力を目の当たりにしたら、こんな台詞を毎日しゃべらせるのもったいなくてしょうがない。
だいたい、アングラ芝居をシアターコクーンで、9500円のチケットで、大俳優たちをあつめてやってどうすんの。こんなのは自分があこがれていた世界ではない。
でも、自分がわるいかな。
役者さんの「名前」に惹かれ、この値段のチケットでも買ってしまえるプチプルの自分が。