今日は雲が多くて若干過ごしやすい。明日もせめてこんなだといいなあ。
おとといくらいかな、夏にあわせて杏里さんの新録音べスト版が発売された。
杏里さんが歌う夏は太陽だが、一曲だけ(知らないだけかもしれない)月を歌った「夏の月」という大人なバラードがある。これはアルバムの主旨とちがうらしく入ってなかった。思い出したら聴きたくなって昔のCDを探したら大汗かいた。
~ 本を読んでも眠れない夜 あなたの背中を見てた
重い硝子の窓を開けたら 気持ちのいい風が吹いてた
いつからか気がつけば頬杖ついて ぼんやりしている
古い灯台 白い波 光る海 何かを探すように
月だけが知っていた 私達のこの恋は
いま小さな花火みたいに ひっそりと終わるの ~
「月」のもとで繰り広げられる「恋」は切なさをともなう。
むしろ月の下(もと)でしか繰り広げられない恋であることも多く、歌になるのは普通その場合だ。
~ 二人よく来た葉山の砂に 足跡残し歩いた
ボトルのままの冷えたミネラル おでこにつけて思った
優しさも 我儘も 弱さも全部 わかって私は
あなたを愛し何ひとつ怖くない そんな自分怖くて ~
具体から抽象へのほどよい跳躍は詩的言語をつくる。ここなんか、その好例だろう。
「優しさも我儘も弱さ」も全部受け入れるということ自体、この二人は正規の関係ではないことも表す。
~ 体の温もりに 変わらないこの暮らしに
甘えあってお互いが だめになってしまうのなら ~
別々に生きていく 誰も知らない明日を
まだ私も知らない私 見つけだしてみたい ~
「夏の月」の歌詞をネットで探してたら、この部分を批判している方がいた。
「お互いだめにならないように、この二人は別れようとしている。それは前向きな態度で評価できる。でも『私も知らない私』なんてものは存在しないのだから、求めてはいけない。置かれた場所で努力する人間でないといけない」という主旨の文章だった。
前向きっ。
おれはそんなまじめには読めないな。
言ってる本人も「私も知らない私」なんて信じてるわけではなく、別れの理由をなんか捻出してるだけだ。
この関係を続けるのはよくないなとお互いに思い、言葉だけでも前向きにとりつくろってさよならするのが大人の別れだ。
大体、このままじゃだめになるんじゃなくて、会ってる時点ですでにだめだったんだから。
~ ふたりきり このままで 黙ったままで あの星祈ろう
旅路のような長い夜 明けたとき 微笑みあえるように
時計を戻しても 悪いところ直しても
きっとふたり同じこと 繰り返してしまうのでしょう
夏の月が見ていた 私達のこの恋は
いま小さな花火みたいに 美しく心に
月だけが見ていた ふたりのこの恋を ~
二人にの間にあるのはあくまでも恋であり、それを愛に昇華させられない事情がある。
大人の世界はそんな場面の積み重ねだ。
Dチームの演奏する「森の詩」では、二章「夏」のパートが軽快なテンポで明るい青空の下の光景を描写する。
でも夏にも終わりはある。昼間楽しく、太陽がまぶしすぎるほど、夕日の落ちるころはせつない。
どんな人間関係にも終わりがある。盛り上がったあとほど、別れがせつない。
そういうせつなさがちらっと顔をのぞかせるフレーズもでてくるが、そういうところを感じさせて、少しは大人な演奏にしたい。