水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

D部門

2013年07月31日 | 日々のあれこれ

 コンクールD部門に、1年生21名で参加してきました。
 ここをスタートにしてがんばっていきたいと思います。
 ご来場、応援ありがとうございました。


 午前の9番目に演奏。くしくも浦和学院さんの次の出番で、うちのあとは星野高校さんだった。
 演奏をおえてAメンバーは学校にもどり練習。
 トランペット、クラリネットの先生から、いい感じになりつつあるので、この調子でがんばればいいとのお言葉をいただいた。

 お昼がおやつ程度だったので、夕方お腹がへって、突然「おろしそば」が食べたくなったが、自分のイメージするそれはこのあたりにはない。
 山田うどんで冷やしおろし天ぷらそばを食べようとしたら、トイレの改装工事で営業してなくて、となりのすき家で、おろしポン酢牛丼ミニのツユ抜きを、健康セット(味噌汁・冷や奴付き)で頼む。
 冷や奴の三分の一ほどを味噌汁に入れ、別皿で提供される大根おろしを牛丼の半分の面、やっこの半分の面にのせると、数種類のあじを楽しめる。
 これだ。自由曲が全体に表情が変わらないと、きのうフルートの先生にご指摘いただいたが、素材の組み合わせを意識しないといけないのだ。
 今は、Aというフレーズがメインで伴奏が中低音だけとか、今はBのメロディーとCのメロディーが同時に鳴っているところとか。
 今食べているのは、白ごはんか、つゆの少しついたごはんか、ごはんプラス具か、具だけか、具プラス大根おろしか、それらすべてが渾然一体となった状態か。
 今何をやっているかをメンバーが明確に意識して吹いているかどうか、そしてその部分に応じた吹き方をしているか、そのへんを明日は役員で練習見れないので、あさってからやっていこう。
 ちなみに、福井風のおろしそばがどうしても食べたい場合、この辺で近いのは、川越駅下りホームの立ち食いそば「文殊」さんだ。
 もちろんおろしそば以外のメニューもおいしい。自分が知っている立ち食いそば店としては、日本の最高峰に位置すると言っても過言ではない。東上線で通勤されている方がうらやましい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終戦のエンペラー

2013年07月31日 | 演奏会・映画など

 敗戦直後、昭和天皇とGHQ総司令官マッカーサーとが会見された際の写真を見た、当時の日本人の驚きはいかばかりであったろう。
 まだ若かった父や母は、なくなった祖父母たちはどう感じていたのか。こんど帰省したおりに、忘れてなければ聞いてみようかな。
 郷里の父にうかつにそういう話をふると、「あとちょっと戦争が続いてたら予科練にいってたとこやった、そもそもあの頃はな … 」という無限ループにはいりこむリスクはあるのだが。
 数ヶ月前まで「神」とあがめたてまつり、そのお姿を直視することなど思いもおよばなかった日本人が、突然新聞の写真で目にし、しかもそれが直立不動のお姿で、となりには恰幅のいい米国の軍人が立っている。
 日本はこの先どうなるのだろう、自分たちはどう生きていくことになるのだろうと暗澹たる思いを抱かざるを得なかったのではないか。
 しかしこの写真のおかげで、というか、この会談のおかげで、日本は救われた。
 陛下はこのとき「いっさいの責任は自分にある」というお言葉を発せられ、そのお人柄を察したマッカーサー司令官は、天皇の戦争責任は認められないとの報告を本国に送ったとされる。
 映画「終戦のエンペラー」は、マッカーサーの来日からこの会見にいたるまでの日々を描いている。
 最後のその場面で、片岡孝太郎演ずる昭和天皇が発するそのお言葉には涙を禁じ得なかった。

 陛下の戦争責任が問われない方向性でこの会談が進むように尽力したのが、フェラーズ准将である。
 この映画の主人公なのだが、不勉強な自分はこの方のことを知らなかった。
 開戦前に日本を訪れた経験もある知日派のフェラーズ准将は、日本人の精神性における天皇の役割をよくわかっていた。
 そこまで彼が日本人のことを理解し得たのは、愛する日本人女性の存在があり、そのつてで得られた何人かの日本人との交流があった、とするのがこの映画のひとつの眼目だ。
 どこまでが史実で、どこからがフィクションなのかはわからない。
 ていうか、歴史とフィクションとの区別はもともとがあいまいなものだ。
 人の記憶がいかようにも形を変えうるのと同じで。
 その人が事実であると思ったことが、その人にとっての事実だ。
 真実は一つしかないと言う人が世の中にはいるが、その言葉自体がほんとうに真実なのかを検証することは難しい。
 先の戦争に日本は負けた。
 負けたから、日本が一方的に悪かったと扱われた。
 フェラーズ准将が戦争責任の所在を調査していく過程で、中村雅俊演じる近衞文麿と議論する場面がある。
 「スペインがフィリピンを植民地にしたことは善であり、それをアメリカが奪い取ったのは善であり、日本が同じことをした場合にのみ悪になるのか」という主旨で語る近衞文麿を見て、そうだそうだ言ってやれ! と思った。
 東京大空襲で、広島、長崎で、アメリカ軍が行った所業はなぜ断罪されないのか。
 日本人でありながら、日本だけが悪かったという「事実」をいまだに言いつのる人々もいる。
  自分もそんなふうに思っていた時期がある。
 なんでだろ。我をして、そのような考えを形成するにいたらしめたものは何ぞや。
 それは、映画でも触れられていた「時代の空気感」が一番大きいと思う。
 何かみんながとりつかれたように、戦前の日本は戦争やむなしの空気につつまれ、戦後は日本だけが悪かったという考えにとりつかれた。
 ここしばらくの世の中を思い起こしても、同じ原理が働いているように思える。

 ちょっとまって。なんか結論の出ない内容にはいってしまっている。
 とにかく「終戦のエンペラー」。この作品をつくってくれた外国人監督にお礼を言いたい。
 日本人の監督さんだと、いろんな大人の事情で、それこそ「空気」のせいで、つくりづらいものだから。グッジョブ!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする