水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

島はぼくらと

2013年07月04日 | おすすめの本・CD

 辻村深月氏の直木賞受賞第一作だという。かりにこれが候補作だったなら、選考委員の先生方は話し合う必要もなく全員一致で選んだろうと思う。選考委員の先生方の最近の作品で、これを越えるものがあるかっていったら、そうはあげられないと思うくらいだ。とにかく、後半はすべての仕事を中断して、目頭があつくなるのをこらえながら読んだ。余韻にひたりながら、今日もう一度最初からページをくっている。

 物語の舞台は、瀬戸内海に浮かぶ架空の島「冴島」。本土からはフェリーで20分ほどの距離にある。


 ~ 人口三千人弱の島に、中学校まではあるものの、高校はない。朱里(あかり)たち島の子どもは、中学を卒業すると同時にフェリーで本土の高校に通うことになるわけだが、その時に、諦めなければならないことがあった。 … 朱里と、衣花、新、源樹の四人は、ともに冴島で育った同学年で、高校二年生だ。そして本土と島を繋ぐ最終便の直通フェリーは午後四時十分。
 そのせいで、島の子どもたちは部活に入れない。 ~


 冴島の子ども達は、高校の部活動ができないのだ。
 島で暮らすかぎり「熱闘甲子園」にも「笑ってこらえて」にもでられない。もちろん水バなど経験できない。
 「諦め」。
 今の日本において、都会ではほぼすべて、地方でもかなりの部分失われてしまった「地域共同体」の姿が、冴島には今も色濃く残っている。
 島に生まれた子どもたちは、高校での部活動を諦め、大学に進むためには島での暮らしを諦め、島に残る人生を選んだ者は、会社勤めとか、盛り場で遊ぶとか都会的な暮らしを諦める。
 諦めるとは、自分の人生を自分で選択することでもある。
 でも、それはある意味幸せなことではないだろうか。地に足のついた人生を送るためには。

 たとえば国語の時間に作文を書きなさいと言われて、「題材はなんでもいい」と言われるのと、「決まったテーマ」を与えられるのとでは、圧倒的に後者の方が書きやすいはずだ。
 「自分の人生は自分で決めなさい、なんでもいいですよ、なんにでもなれますよ、無限の可能性がありますよ、さあそうぞ」って言われたら、うれしいというより、どうしたらいいかわからなくなってしまう。
 自分はいったい何になればいいのだろう、どこで暮らせばいいのだろう。
 サッカー選手になるのか、小説家になるのか、役者を目指すのか、学校の先生になるのか、外資系の銀行に勤めるのか、ガテン系でがっつり稼ごうとするのか、まったくのゼロベースでどれかを選べと言われたなら、途方にくれるのが普通の人間だろう。
 学校は、理論的にはそれをせよという。
 一方で、学校に身を置くことによって、勉強のできるできない、運動のできるできない、工作が得意、人をわらわせるのが好き、歌が上手いとかに気付くシステムにもなっている。自分はどういう人間かに気づけるのだ。
 「絶対的価値をもつ個」の存在を理論的に認めながら、他人との比較でしか「自分」てわかんないよね、というダブルバインドを無意識のうちに感じさせるのが学校の役割かもしれない。
 でも理論上は無限の可能性を持つ「個」が存在することになってもいるので、「自分なるもの」をいつまでも見つけられない人も多い。
 地域共同体で生きていれば、そんなことはなかった。
 自分の人生がどんな風になるかは、早い段階でめどが立った。
 その像がいやなときは、意を決して共同体を飛び出すしかない。
 冴島で生まれた子ども達は、島で生まれ育った以上いろんなタイミングで「諦める」べきものが設定されているがゆえに、本土の子ども達よりも早く、そして強く覚悟を決める。
 それは子どもから大人になるということでもある。
 都会で暮らしている人たちのように、いつまでも子どもか大人か判別のつかないようなメンタリティでは生きていけないのだ。
 だからこそ、島の子ども達がこどもから大人へ覚悟を決めて踏み出していかねばならない時期、つまり青春期のせつなさと愛おしさが、この物語から伝わってくるのだろう。

コメント
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