水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

火曜日

2010年09月07日 | 日々のあれこれ
 火曜日は基本調子がいいような気がする。
 古文1、漢文2の日なのだが、次から次へと教えることがわいてきた。
 放課後は、「同じフレーズ二回やるときは、少し変えないとだめなんだよ」とか「ジャズな感じにするには、もっと不健康な吹き方して」とか、過去いろんな先生にならったことが、自分の言葉のように出てくるのは調子がいい証拠だ。
 調子にのって階段を2段とばしで4階まで行ったのは失敗だったけど。
 これで明日になると、週末までの先の長さに気づいて一気に疲れてくるような気もしないではないが、文化祭までがんばっていきたい。
 
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キネマの神様

2010年09月06日 | おすすめの本・CD
 アンサンブル、基礎合奏を終え、居残り部員さんを駅までお送りして一息ついたとき、某先生から電話があり、そのいきおいで「ハナミズキ、観ましたか」という話になった。
 「いやあ、前半やばいですよね」
 「そうそう、制服でかけてくるガッキィ観ただけで泣けて来ましたよ」
 誰かに聞かれてたなら、なんなのこのオヤジたちは、と思われること必至の会話である。
 でも、こんな会話ができる相手がいるのはありがたい。
 原田マハ『キネマの神様』は、映画への愛に満ちあふれた小説だ。
 40歳を目前にして突然会社を辞めることになった娘と、70歳をこえてなおギャンブルと映画にのめりこみ続け多額の借金をこしらえてしまった父親。
 お互いに対する気持ちの表現だけは不器用で、でもなんとかしたいと思っている二人が、ある出来事をきっかけに、お互いの気持ちを思いやり、新しい人生をみつけていく物語だ。
 (「ある出来事」と書いたのは、別にそれを伏せておきたいのではなく、うまく要約できないだけなのです)
 このお父さんが娘の指令でブログを書かせられることになり、そこでせっせと映画評論を書いていくのだが、その一つ一つがすばらしいのだ。
 なるほど、そんな見方ができるのかという発見や、漠然としてた気持ちを形に変えてくれたりして、雑誌やネットで見かける現実世界の映画評論家で、このレベルに達している方はそうはいない。
 原田マハさん、そういう意味でもすごい書き手だ。
 作者自身に相当のストックがないと、この小説は書けないだろう。
 ただし、映画はあくまでも素材なのだろう。
 主人公の二人もそうだし、ほかの登場人物たちも、母と息子であったり、上司と部下であったり、夫婦であったり、人と人とがいろんな出来事を通しながらお互いの気持ちに気づき、それに素直に応えられる自分になれた時、新しい人生に向き合えるという過程を描いている。
 『悪の教典』とは真逆の作品で、悪い人は誰もでてこないし、スリルとサスペンスもないのだけど、でも読み出すとやめられなくて、ちょっとした一つのエピソードでも胸があつくなれる傑作だった。
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Beck

2010年09月05日 | 演奏会・映画など
 いつも通り、集合、ストレッチ、朝食のスタート。
 午前中は、各合奏グループの不安げな曲の合奏。
 「モンスター」とか「ファンファーレ」とか。
 フラットが増えたり、16分音符にタイがついてたりすると、のきなみおろおろになるので、そのあたりを中心に。
 午後は、アンサンブルチームが一通り発表する。
 みんな同時には終われていた。
 食堂などをそうじして終了。
 明るいうちに全員あがったので、帰りがけに「BECK」を観に行く。
 でも、不安だった。はっきり言って睡眠不足なので、途中で寝てしまったらどうしようと。
 杞憂だった。
 とくにバンドの演奏がハイレベルで(もちろん吹き替えなんだろうけど)、かっこよくて。
 佐藤健くん、桐谷くんも、「ルーキーズ」とは見違えるような好演。
 けっきょく、監督さんの問題なのかな。
 ドラム役の子がはじめてドラムを叩いたときは寒気がした。
 ストーリーに多少漫画的強引さはあるが、そんなのを超えるパワーとせつなさに満ちあふれた佳作だ。ちゃんと(ムダにではなく)お金もかかってそうだし。
 それにしてもバンドっていいなあ。エレキギターひきたくなった。
 
 
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9月4日

2010年09月04日 | 日々のあれこれ
 午後、4人の顧問でアンサンブル20チームを交代で指導する。
 指導といっても、「じゃ、やってみて」といってスタートするものの、いつのまにか止まってて、「もういっかいやってみようか」「なんで止まったのかあ」と確認するだけだ。
 やってみてよかった。
 ほおっておくと、たぶんこのまま本番をむかえそうだから。
 1年生にしてみれば、数ヶ月前に楽器を手にして、自分たちだけで曲をつくってごらんと言われてどうしていかわからないというのも、わからないではない(えっと、どっちだっけ)。
 でも、いつまでもそんなでは演奏する人になれないのだ。
 何人かが横一線にならんで同時に吹き始め、運がよければ同時に終われる、そんなのをアンサンブルとは言わない。
 アンサンブルとはどういうものなんだろう、それを体験してもらわねばならない。
 そのために文化祭を利用させていただくのだが、実際なかなか曲になってないチームも毎年ある。
 そこは、お客様のお気持ちにあまえ、今後の成長を期していただき、いわば出世払いの演奏をさせていただくのだ。
 午後の練習を終え、夕食のお弁当を配り終えると、西関東大会の情報が入ってきた。
 栄さん、共栄さん、え? 市立前橋高校? どこ?
 埼玉代表で金賞の大宮さん、徳栄さん、本庄第一さんをおさえて、群馬県から初の全国大会である。
 群馬の先生、よろこんだだろうなあ。
 運良く普門館のチケットが手に入ったなら、聴いてみたいものだ。
 夜は、合奏。本校文化祭で演奏する曲のうち、翌週星野さんでも演奏する3曲をあわせる。
 「トラブルメーカー」「銀河鉄道999」「天体観測」の3曲。
 嵐の「トラブルメーカー」はわかる。「天体観測」はもはや古典的楽曲かもしれない。それで「銀河鉄道」って、なんでこんな古い歌を高校生は知っているのだろう。
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9月3日

2010年09月03日 | 日々のあれこれ
 9月3日というと、3月9日の反対だなあと思い、そうかレミオロメンの「3月9日」には「ありがとう」的な意味もこめられて、できた歌なのかなと今思いついた(ちがうみたいです)。
 授業もはじまって、やっと二学期が始まった感がある。
 あっという間に文化祭、アンコン、バッハザールと過ぎていくのだろう。
 部活offっぽい日には指揮法のレッスンがあったり、秋恒例の営業活動があったりして、しばらくoff日がなさそうなのは毎年のことだが、元気ではたらけることを感謝する気持ちは年々大きくなる。
 今日教室に向かう足取りは重かったが、いざ話し始めると、かってにスイッチは入ってくれた。
 現代文は昨日の模試の復習で、明治期の新日本音楽なんたらかんたらという文章だったので、尺八をもってって久しぶりに口をつけてみたが、音が出てよかった。
 明日の夜は、合宿で文化祭の仕込みをする。
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マツコデラックス

2010年09月02日 | 日々のあれこれ
 週刊文春で「そうそう!」と思った言葉。
 
 ~ 最近、若い女の子たちにすごく支持されている女性シンガーの歌に、「ありがとう、君がいてよかった」みたいな歌詞があるの。それは分かるけど、その気持ちを自分のフィルターを通して別の言葉で表現するのが「アーティスト」なんじゃないの? って。 ~

 阿川佐和子さん対談コーナーでのマツコデラックス氏の言葉だ。
 音楽に限らず、Aということを言いたい、伝えたい、それを自分なりの文字やら音符やら絵やら踊りやらで表そうと心から望んだときに、芸術作品は生まれる。
 吹奏楽の曲で、途中でプレイヤーがオオカミの遠吠えを声で発するという作品を聴いたことがある。
 はじめて聴いたとき、作曲者、正気か? と思ってしまい、またそんなのを演奏させる顧問もどうなのかなとも感じた。
 今年も途中でみんなが「ワハハハ!」とか笑いだす曲があって、なんであんなに上手な子たちが、こんな曲を演奏しないといけないのかなとかわいそうになったものだ。
 聴衆が、人々の笑い合っているシーンを自然と思い浮かべてしまうような音楽を、プレーヤーを笑わせずに作るのが、クリエイトなんちゅうものなんじゃないの。

 「カヴァレリアルスティカーナ」で、もとのオペラでは主役のテノールの人がオフステージで歌うアリアがある。宍倉先生の吹奏楽版では、このメロディーがTpソロに割り当てられている。
 吹奏楽版でも、ここはオフステージで、つまり舞台袖で演奏するよう指示があるのだ(たしかあったな)。
 でも、これもなぜオフステージでという趣向だけを、吹奏楽版にもちこまないといけないのかがわからない。
 じゃ最後らへんのサックスソロは、舞台中央に立ってやるべきなんじゃないのと思うし、もっと言えば、アリアや合唱にあたる人たちは舞台上にいて、指揮者と残りのバンドはオーケストラピットで演奏すればいい。
 あのソロだけを舞台袖にさげるというのが、なんとも中途半端に思える。
 吹奏楽版カヴァレリアの必然というより、ちょっとオペラ風でしょ的企画にしか思えなかったのだ。
 でも、こんな風に思う人間は異端なのでしょうね。
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