水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

面接ではウソをつけ

2011年12月15日 | おすすめの本・CD

 『面接ではウソをつけ』は、奇をてらった本かと最初思ったけど、最後まで読むときわめてまっとうな生き方論だと思えた。
 筆者は、工学部を卒業したあと住宅会社に入社し、営業畑を歩んできた方だそうだ。
 「口べた」で「あがり症」だった筆者が、従来に営業のやり方では結果を出せず、開き直って常識にとらわれずにやり方をかえた時から一気にトップの成績をあげられるようになった。
 面接も営業と似ているという。
 面接に向いてないタイプ、「暗い」「内気な」「コミュニケーション下手」な人が、いわば就活弱者がどう面接にのぞめばいいかを語った本だ。
 最初の方にこんな表現があって、一気に筆者を信頼してしまった。


 ~ 自己啓発・自己暗示によって瞬間的な高揚感や「私はできる!」といった全能感を得ることはできるのですが、それはドーピングみたいなもので、長続きはしないのです。(菊原智明『面接ではウソをつけ』星海社新書) ~ 

 そうなんだよあなあ。自己啓発本を読んだ数なら、たいがいの人には負けない自信はあるけど、世の中に影響を与えるような人になんてなれなかった。
 筆者は「そもそも人が人を評価するなんて無理」「面接官は採用のプロではない」という認識からスタートしている。
 なので、「自己分析を徹底的に行うべき」ではなく、相手がどういう存在なのかをみきわめることが大事だという。


 ~ これらを考えることなしに面接にのぞむのは、素っ裸で戦場に向かうようなものでしょう。
 このように、就活において「自分以外」のことを分析することを、私は「他己分析」と呼んでいます。自己分析にかまける時間があるなら、そんなことはさっさとやめて(3日もあれば十分です!)、全精力を他己分析にそそいでください。
 「相手の立場」のことを考え、「相手の立場」に合った行動を取らなければならないのです。「あなたの立場」なんてものは、あまり関係ありません。 ~


 もちろん筆者も、自己分析が不要と言ってるわけではない。
 話のネタとして自分の人生をふりかえってみる必要はあるという。
 でも、そこから自己分析をして無理にアピールポイントをつくる必要などないという。
 「ダメ人間は、いくら自己分析をしてもダメな自分しか出てこないので、アピールポイントなんて見つかるはずがないのです」という言葉は、きびしいけど、多くの人にとってはある意味真実だ。
 自己分析を徹底的に行ったら、他人より抜きんでた能力が見つかった! なんて人はふつういない。
 だからこそ普通に就活して、入社して、おまんまを食べて行かねばならないのだ。
 それがいやだったら、就活そのものをやめるしかないだろう。
 で、筆者は、自分を変える必要はない、他己分析をして、それにあった自分を演じることが大事だという。
 これって、考えてみると「ウソ」でもなんでもなく、人はそうやって生きていくのが普通なのではないか。
 生徒さんのまえでは教師としてふるまわないといけないし、家では父親としてふるまわないといけない。
 役割をきちっと演じることが社会的動物としての人間の基本であり、それがうまくできるかどうかで成熟の度合いが測られる。
 基本はそうであるべきなのに、「本当の自分を大事にしよう」なんていう根本的勘違いスローガンが世の中に蔓延したから、かえって生きにくくなってしまったのだ。
 「面接にパスするために、過去のダメな自分を捨て去って、まったく新しい人物に生まれ変わる必要などありません」と筆者は言う。
 「あなたは、あなたのままでいい」と。
 なんか、上手だな、この人。
 読んでて自信がわいてきた。
 ただし「自分の『考え方』と『行動』だけは変えてください」という。
 実際にはそれが難しいんだけど、そのための具体的方法がいくつもこの本には書いてある。
 それらは現代を生きる若者にとって、必要な「教養」と言える。
 「教養」は「素っ裸で戦場に向か」わないための「武器」だ。
 
 この本は星海社新書の一冊だ。
 若者に「武器としての教養」をくばりたいとの思いで編集していると、巻末に書いてあった。
 同じシリーズの『仕事をしたつもり』『「やめること」からはじめなさい』『資本主義卒業試験』も読んでみた。
 どれもつぼにはまった。
 いったいどういう人がこの新書を作っているのだろうと思った。
 新書の編集長は、柿内芳文さん … ?
 ググってみたら、光文社新書で『さおだけ屋はなぜつぶれないか』他ベストセラーを乱発した方ではないか。
 しかも32歳! すごいなあ。やっぱ抜きんでた人っているわ。

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50/50(フィフティー・フィフティー)

2011年12月14日 | 演奏会・映画など

日本では、癌告知が本人ではなく家族に知らされることが多く、それは他の国では考えられないがなぜか、という評論を教科書で読んだ。小浜逸郎先生の「癒しとしての死の哲学」という文章だ。
 西洋的・近代的な「個人」というものが日本には成立してなくて、他人との関係性のなかでしか自己の存在確認をできない日本人のあり方に根本原因があるという文章だった。
 その中に、自分に起こるすべてのことを自分の責任として受け入れなければならない西洋人は、かえってつらいのではないかという一節があって、なるほどと思った。
 だから、癌に罹ったとき、個人がそれを受容していくための社会的システムがたいへん充実しているという。
 ホスピスでの末期医療やセラピー、そして教会。
 なので、主人公のアダムが癌告知を受けたあとに、セラピストのところへ心理療法を受けにいく場面を観て、なるほどそういうものなのかと納得した。
 ただし、このセラピストのキャサリンはまだ大学院生(だったかな)で、アダムが三人目の患者であることがわかる。
 当然まだ仕事に慣れてなくて、自分に自信がなくて、習って身につけたばかりの知識でアダムを類型的に扱おうとし、マニュアルどおりのセリフを言うばかりで、かえってアダムをイラつかせたりする。
 でも、それは彼女が真面目で、なんとかアダムの力になりたいという思いがそうさせているのがわかり、アダムから離れていってしまう恋人との対比が明らかになっていくと、この不器用なセラピストがだんだん愛しくなってくる。
 ていうか、かわいいし。
 それはアダム自身も同じだった。
 ていうか、この子知ってるし。
 見終わって調べたら、そうだよ、ジョージクルーニーの部下だった女の子だ。
 ふつうに洋画を観る人にとってはとうに有名な女優さんだろう。
 アナ・ケンドリック、萌えぇ。
 この女優さんを観るだけでも、この作品を観る価値はある。
 アダムを演じた人も、よかったな。
 5年生存率は50パーセントと聞き、信じられないくらい動揺するものの、もっと動揺するであろう母親にどう伝えたらいいか悩んだり、恋人にあたってしまう自分を嫌悪したり、周囲の変化を敏感に感じ取りながらもそれを表面に出さないように努力したりするといった、きめこまやかなお芝居を自然にしている。
 アダムの親友もいいな。病気をネタにしてナンパしようと誘う、ヤることしか考えてない人間のようで、ある日アダムが彼の家にいったら、「癌患者とのつきあい方」なんて本が隅においてあったりして。
 さて、抗ガン剤の効果があらわれずに、外科的手術でガン細胞を切除することになる。
 失敗の危険性もある手術だ。
 そんなとき、アダムが試練を乗り越えていく力になるのは、やはり家族であったり、親友だったりする。
 そして牧師さんやセラピストではなく、セラピストではなくなりつつあったキャサリンだった。
 小浜先生がおっしゃるように、日本的な人間関係の方が、ほんとうは人を支えてくれるのではないだろうか。

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源氏物語

2011年12月12日 | 演奏会・映画など

 「源氏物語 千年の謎」は、商売柄見ないわけにはいかない映画だが、予告編で抱いた不安はあたって、やや残念な作品だった。
 「源氏物語」そのものの世界と、紫式部と藤原道長を中心にした現実世界とを二重構造で描こうとするのはバッチリだと思う。
 「源氏物語」世界の方は、生田斗真くん演じる光源氏(けっこういいかも)と、田中麗奈さん演じる六条御息所(なっちゃんがこんな役をやるようになったとはね)がメインの筋になっている。
 前の東宮の未亡人である六条御息所と源氏がラブラブになる。
 源氏の正妻は多部美華子ちゃん演じる葵の上(もっとセリフあげたら)。
 嫉妬に狂う御息所の生き霊が、葵の上にとりついて呪い殺そうとするという、「源氏物語」前半で一番どろどろした人間関係を描くパートだ。
 教科書や入試には、六条御息所(「ろくじょうのみやすんどころ」と読みます)関係の話はまず出ないが、有名な登場人物ではある。
 ただ、源氏物語54巻分をすべてを作品に盛り込むことなど不可能とはいえ、御息所の出ている時間がたぶん一番長かったのはどうかな。
 ちょうど今年の埼玉栄さんの「トゥーランドット」みたいだなと思ってしまったのだ。
 名曲、名フレーズがたくさんある「トゥーランドット」のなかから、あえてあんまり面白くないところをつないだような編曲だと思ったので。
 今年のサウンドで、前にやったのと同じカットの「トゥーランドット」を聞いて、「誰も寝てはならぬ」で大号泣したかった吹奏楽マニアはいたはずだし、結果だって … 。

 ちなみに源氏物語の成立や、執筆の動機には諸説ある。
 たとえば、 … えーと、いろいろあります。
 タイトルに「千年の謎」とついてるので、紫式部の執筆動機について、何か新しい見方でも示されるのかと思ったが、それもなかった。
 せっかく二重構造にしたのだから、紫式部(中谷美紀)と道長(東山紀之、第一子誕生おめでとうございます)との関係をもっとどろどろさせて、物語世界と重ねてみたりすればよかったんじゃないだろうか。
 ていうか、「源氏物語」自体の読みがちょっと浅いかもしれない(とか国語科ぽく言ってみたりして)。

 実は一番感動したのは、「ALWAYS三丁目の夕日64」の予告編だった。
 紹介がはじまって数秒でALWAYSの世界にひきこまれてしまう。なかでも堀北真希ちゃんがお嫁にいく話。「幸せにしないと殺す」と叫ぶ堤真一、「お世話になりました、東京のお父さん、お母さん」と頭を下げる真希ちゃん、この数分で一本観た分くらい号泣してしまったではないか。年明けの本編が楽しみだ。

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漢文の勉強会

2011年12月11日 | 国語のお勉強(漢文)

 駿台教員研修で漢文のお勉強。部活のない日は決まってお勉強にでかける私のなんと謙虚なことか。
 論説文の構造を中心にお話を聞いた。
 教科書教材を中心に勉強していくと、逸話、史話、漢詩といった漢文の比率が大きくなる。
 しかし入試では評論の出題頻度が極めて高いので、それを想定しながら学習計画を立てた方がいいのではないかとのお話に深く頷く。
 今の流れだと、現3年生が卒業した後にふたたび新1年生を担当させてもらえる可能性は高いから、早いうちに3年分のカリキュラムをつくってしまおうと思った。

 評論・論説を読解するには、対句、対偶構造といった対比的表現に気をつけるべきだとのお話は、自分も常に話していることでもあるし、現代文の評論と同じだと聞き、よかった自分も間違ってなかったと思う。
 では漢詩・漢文に対比表現が多様されるのはなぜか。
 それは、二つで一組になっているもの、対の存在への美的感覚、それをおめでたいとする感覚が、われわれ日本人が想像する以上に強いからだろうという。
 なんでも、北京で最初にケンタッキーができたとき、カーネルおじさんが左右両側に置かれたという話にはさもありなんと笑った。 
 「カーおじさん」と「ネルおじさん」のセットさえ作りかねないなあと思って。
 うん、このネタはすぐにどこかで使わせてもらおう。
 対比を見落とさないために、「反対の意味の漢字で構成される熟語に注意!」は大事だ。
 たとえば「進退」とでてきたらそこでストップ。
 「進」とはなんとかである、それに対して「退」とはこういうことである、とその先の論が進んでいくかもしれないと予想しながら読み進める必要がある。
 いかにも対句ですよ的な部分だけでなく、こういう二字の熟語とか、ちょっとした表現にも対を意識しないといけない。われわれが想像する以上に対を大事にして思考する民族だから。

 ちなみに同じ意味を重ねる熟語はなぜあるのか。
 これは漢字(語)の意味を確定させるためだ。
 あんなにたくさん漢字はあるけど、複数の意味をもつものも多い。
 たとえば「平」と一文字書いただけでは、「おだやか」なのか「かたよらない」のかわからない時もあるので、「平安」とか「平均」といった二字で表す。

 研修会後にジュンク堂付近をふらつくと、大勝軒(南池袋店)の前に「冬期限定味噌ラーメン(850円)」の札。
 えっ? 大勝軒が味噌ラーメンだなんて。昼を食べてなかったのでこれ幸いといただいた。
 もやしたっぷりのビジュアルもよかったし、スープは絶品だ。できれば麺も味噌用に少しちぢれてるのに換えてもらえたらなおいいけど、満足できた。

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1969

2011年12月10日 | おすすめの本・CD

「1969」という由岐さおりさんのCDが世界的に売れているときいたので買ってみた。
 アメリカの高名なジャズシンガーのプロデュースでできた作品だ。
 由紀さおりの代表曲である「夜明けのスキャット」や、同じ1969年にヒットした歌謡曲、そして同年のポップスの名曲がカヴァーされている。
 いやあ、いいですね。
 歌謡曲の神髄、というか「歌謡曲」と一元的に語ることのできる最後の年代の歌。
 「ブルーライトヨコハマ」とか、「いいじゃないの幸せならば」とか。
 あえて理屈をつければ、必死になって高度経済成長を支えてきた日本人の心のどこかに、余裕がうまれ、ちょっとけだるい感じが生まれてきた時代を感じさせる楽曲であるとこが、いい。
 由岐さおりさんの歌声がまたすばらしく、よく透明感のある歌声とか言われるけど、たしかにそうなんだけど、よく聞くと女性のしたたかさや情念がかいま見える(聞こえる)とこがあり、さすがに数十年トップシンガーとして生きてこられた方はちがうなと思うのである。
 女の情念と言えば、先月ブルーノートトウキョウで聞いたオリアンティのギターもすごかった。
 あの「This is it」でギターを弾いていたギャルです。
 かっこよかった。
 見た目はかわいくて、ギターの音は濃かった。
 ほんま、ごっつぅ業の深い音で弾かはりますわ。

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知命

2011年12月09日 | 日々のあれこれ

 昨日が開戦記念日で、もう年末だ。
 「五十にして天命を知る」と孔子が語ったことから、50歳という年齢を「知命」という。
 一般的には、天から与えられた使命を50歳のときに知ったと解釈される。
 ふーん。孔子おそくね?
 自分はもっと前から気づいていた。
 気づいてはいたものの、それをはっきりとした言葉でつかんだのは今年であったから、まさに知命の年になった。
 それは震災後に被災地にお入りになられたときの恐れ多くも陛下のお言葉だ。
 子ども達を誘導して津波から救った小学校の先生に「導いてくださってありがとう」とお声をかけられたのだ。
 教員になって二十数年、残された時間は減る一方だが、なんとかこの仕事を全うさせていただこう、目の前にいる生徒さんをしっかり導いていこうと思うのである(なんかあった?)
 ただ難しいのは、「こうした方がいいよ」「こうしなさい」と言ったからといって聞いてもらえるわけではないことだ。
 自分が高校生だったころを思えば、なおわかる。
 聞いてもらえないどころか「先生面で、上から目線で、えらそうに言ってんじゃねえよ」と反発されることもある。
 「おれは自分でそうしようと思ったんだよ、他人のおまえに何がわかる、おれたちの気持ちなんかわかんねえだろ」と反論されることもありうる。
 正直に言えば、気持ちはたいがいわかる。
 何をやりたくなくて、何から逃げようとしているかも大体わかる。
 それをどれくらいわかってないかも、何となくわかる。
 自分も通ってきた道だから。
 でもうかつに「気持ちはわかるよ」なんて猫なで声で発したら、なおさら距離はひらく。
 なんらかの方向に導けるとしたなら、この人の言うことなら話を聞いてやってもいいかなと思ってもらえる人になることだろう。
 ある人の話を聞くかどうかは、その内容よりも、その人が誰であるかという要素が大きい。
 何を言うかより、どう言うかであることも大きい。
 自分の言葉をどれくらい聞いてもらえるかに興味はあるが、前ほどせっぱつまらなくなった。
 伝わることもあれば伝わらないこともある。
 そう思えるようになったので、目の前の生徒さんが発する言葉に対して、かっかする度合いも減ってきた。
 60歳にならなくても「耳順(したが)う」状態になれるかもしれない。

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アントキノイノチ

2011年12月08日 | 演奏会・映画など

 昨日のコンサートでは「アントキノイノチ」の話もしてた。
 遺品回収業という業種の存在を知り、その仕事の崇高さにうたれてあの小説を書いたと話してらした。
 映画は先週予習ずみ。個人的には、最後に榮倉奈々ちゃんが亡くならずにハッピーエンドで終わらせてほしかったし、その方がかえってリアリティはあると思うが、それじゃだめなんだろな。
 さださんの小説は、楽曲よりもずいぶん表現がストレートだ。
 驚いたのは榮倉奈々ちゃんのお芝居で、こんなに上手だなんて知らなかった。
 岡田くんの実力は折り紙付きだし、原田泰造さんもよかった。
 泰三さんは、今後こういう役(どんな役?)でどんどん出演オファーがくるだろう。
 今年観た映画をふりかえって、榮倉奈々ちゃんには「自然な演技が素敵だった賞」を進呈したい。
 ついでに発表しておくと、今年の主演女優賞はクロエグレースモリッツ(「キックアス」「モールス」)。
 助演女優賞は麻生久美子さん(「モテキ」「ロックわんこの島」)、新人賞には内田伽羅さん(「奇跡」)に決まりました。

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さだまさし

2011年12月07日 | 演奏会・映画など

 足りてないのはカルシウムではなく音楽だった。
 今日は「復興」の木管分奏。やろうと思ってた部分の半分ぐらいしかできなかったし、早いところは倍ぐらいのテンポで、それでもできない子は全然できなかったが、この曲はやりがいがありそうだと思えた。
 がっつり譜読みしたくなってきた。

 夕方急ぎ足でソニックシティへ。
 ソニックの大ホールなんて、伊奈学園さんの演奏会ぐらいしか入らないが、今夜はさだまさしのライブ。
 休憩無しの3時間弱、堪能できた(この客層で休憩無し3時間だと終演後のお手洗いの列がすごいことになる)。
 オープニングの曲がはじまってすぐ、声質も滑舌も老けたかなという第一印象を抱いたが、トークがはじまると水を得た魚、焼け石に水? ちがった力石徹? 立て板になんだっけ、ま、そんな状態で、今日噺家さんになっても、春風亭一之輔を抜いて真打ちになってしまいそいだ。
 知らない曲の方が多いぐらいなので、ときどき歌われる知ってる曲、つまり古い曲にはいやされる。
 「案山子」はたぶん自分も暗譜してること、「パンプキンパイとシナモンティー」のマスターがいつしか自分よりずっと年下になってることにも驚いた。
 今思うと、昔聴いてたころ、高い音域をなんなく歌い上げていたころ、おれも同じくらい出るもんねと高校で歌っていたころ、あのころは声も詩も曲もアレンジも、随分とんがっていたような気がする。
 ついてこられる? と言われていたような気がする。
 わかるよ、おれには。他の人はどうだか知らないけど、おれには伝ってるよと思いながら聴いてたような気がする。歌詞の隠された意味や象徴性だってちゃんと理解してるからと。
 今夜初めて聴く歌は、歌詞がよくわからない部分もあるのに、伝わってくる。
 そんなに全部が全部いっぺんには伝わらないかもしれないけど、それでいいよというニュアンスまで伝わってきた。うん、老けたというか、やはり円熟なのだろう。こちら側も。
 行ってよかった。こんどカラオケ行ったら、今まで以上に上手く歌えそうだ。

 

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幸福度指標

2011年12月06日 | 日々のあれこれ

 試験が終わって久しぶりに練習。
 合奏も基礎と曲を少しだけ。
 幹部、パートリーダーと話し合って、ここ数年恒例となっていた「アンサンブル発表会」の開催を見送ることにした。
 延期するか、形をかえて取り組むか。
 ニューイヤーコンサート、新人戦と続いていくことを今後を見越して今の力量を考えたとき、アンサンブルは最善ではないという顧問と部員の考えが一致したので。
 恒例の行事をくり返すのは、きついときもあるけど、ある意味楽だ。
 ときには前向きな撤退が必要な場合もある。いったん二歩さがっておいてまたワンツーパンチで歩いていけばいい。
 試行錯誤をしながらも、こうやってみんな元気に部活をやれてることのなんと幸せなことか。


 ~  国民の幸福度、132の物差しで数値化 内閣府が試案 
 国民の豊かさを測る新しい「幸福度指標」の試案を内閣府の経済社会総合研究所が5日、発表した。「男性の子育て参加への女性の満足度」「ひきこもりの数」「人並み感」など132の指標をそれぞれ数値化し、国民が幸せかどうかの「物差し」にしたいという。 ~


 ふ~ん。こういうの、税金使ってやってる暇があったら、具体的に幸せ度があがる施策自体をやってよ。
 「132の指標」? なるほど、あなたはAの指標では5、Bの指標では3、幸せ度数が42hp(ハッピー)ですとか言ってくれるんだね、きっと。
 ばかなんじゃないの! おっと牛乳牛乳。それから小魚。ふう。
 どなたかのエッセイで読んだ話だが、新幹線の車内で「寒いので冷房を弱めてください」と車掌さんに言ったら、車掌さんは温度を確認して「あってます」と答えたそうだ。
 あってるあってないの問題ではないだろとその方は書いてたと思う。
 幸せって、寒さ以上に測りにくい。
 先日国王ご夫妻が来日されたブータンは、国民の幸福度数がきわめて高い国として話題になっている。
 ある日本人が、しかも給料がやすいとか、物価が高いとか文句を言っている日本人がブータンに行ったとして、その人は幸せと感じるのだろうか。
 感じる人もいるだろう。古き良き日本のような空気を感じながら、ここで農業に携わって生きていきたいと思う人もいるだろう。でも比率でいえば、はやく日本にもどってファーストフードでいいから何か好きなものたべて好きなテレビ観て毎朝お湯でシャワーしたいと思う人の方が多いんじゃないかな。
 なんて意見すると、「そうですね毎朝シャワーを浴びれるかどうかを指標に加えます」と言われそうだな。

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小澤征爾さんと、音楽について話をする

2011年12月05日 | おすすめの本・CD

牛乳呑んで落ち着いてみたら、こんな言葉がすっと入ってきた。


 ~ この人はそれをやらないわけにはいかないのだ、ということだ。たとえ医師が止めたとしても、ジムのトレーナーが止めたとしても、友人たちが止めたとしても、家族が止めたとしても(もちろんみんな多かれ少なかれ止めた)、この人はそれをやらないわけにはいかない。なぜなら小澤さんにとっては音楽こそが、人生を歩み続けるための不可欠な燃料なのだから。極端な言い方をすれば、ナマの音楽を定期的に体内に注入してあげまいことには、この人はそもそも生命を持続していけないのだ。自分の手で音楽を紡ぎ出し、それを生き生きと脈打たせること、それを人々の前に「ほら」と差し出すこと、そのような営みを通して--おそらくはそのような営みを通してのみ--この人は自分が生きているという本物の実感を得ているのだ。誰にそれを「やめろ」と言うことができるだろう? (村上春樹・小澤征爾『小澤征爾さんと、音楽について話をする』) ~


 昨年、食道癌の治療に専念するために長期間仕事を休まれた小澤征爾氏は、年末に復活コンサートを行ったあとに今度は腰をいためて静養を余儀なくされた。
 その後、ご自身が主宰する「国際音楽アカデミー」でのお仕事ぶりを見たあとの村上春樹氏の感想が上記のものだ。
 そのときのコンサートが素晴らしく感動的であったことは言うまでもない。
 しかし、普通に生活することさえ大変な年齢と身体の状況のなかで、なぜにそこまでして若い音楽家を育てようとするのか、指揮台に立ち続けるのか。
 それがほぼ「生」に等しいからだ。
 音楽ができなかったら「自分は自分でなくなる」のだ。
 そんなの自分にあるかなあ … 。

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