水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

贅肉

2013年03月18日 | 学年だよりなど

 学年だより「贅肉」

 「贅沢」「贅言(よけいな言葉)」というように、「贅」とはよけいなもの、必要以上のものを表す。
 「やべ贅肉ついちゃった」という言い方をするが、いったん身につくと、なかなかおちない。
 人間の知性は、この贅肉のように、気づいたらいつの間にかついているものらしい。
 知性の贅肉は、いくらあつくてもいい。


 ~ 内田 贅肉みたいに「やだやだ」と思っているうちに、知性って自然に身についちゃうからね。
橋口 そう考えると知性って「よーしつけるぞ!」と思ってつけるもんじゃなくて、“ついてくる”ものなんですよね。でも今、世の中的には、贅肉は落とそうという傾向にあるからなあ。エッジの効いた文章や一刀両断的な発言を一生懸命よしとしようとしているのと似てる。
名越 そうなのよ。それだめ。身体はシャープでいいけれど、知性は贅肉のようについてくる状態が理想。 (内田樹・名越康文・橋口いくよ『本当の大人の作法』メディアファクトリー) ~


 人は、すぐに役立つ知識や技術を手に入れたがるものだが、それらはその時々にしか役立たない。
 すぐ効果がなさそうなもの、自分には理解不能なものも、とりあえず受け入れてみると、気が付くと贅肉のように身についてくるのだ。


 ~ 内田 すごい人の文章っていうのは、止める場所が見つからないんだよね。
名越 それにずーっとついていくと、その忍耐力と読解力の錬磨によってどんどん自分の中の未熟な攻撃性がおさまって、成熟されてきて。
内田 読んでうちにリテラシーが上がってゆくんだよ。 … 飲み込んだ文章って、自分は気がついてなくても、そうやってだんだんだんだん血肉化していくから。うどんの味を判定するために、ずるずる啜っているうちに、当のうどんに自分が養われている。
名越 そうなんですよ! だから文章っていうのは、酔っ払って明け方に食べたラーメンのようなほうがいいっちゅうことや。 … 今のラーメンの比喩を、もっと別にかたちで言うと「知性は贅肉のようについてくる」ってことです。


 むしろ、すぐに役立ちそうにない知識や技術ほど、いったん飲み込んでおくと、あとでがっちり身になってくるから、オフシーズンの走り込みみたいなものかもしれない。
 この春休み、定期試験五回分のやり直しは必須だが、それに加えて自分が興味がある分野、将来受験しようかなと考えている学部の学問に関する本を手にしてみよう。
 大学に行くということは学問をしに行くということだから、そろそろ「お勉強」レベルから一歩脱してみようではないか。

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銀河鉄道の夜

2013年03月17日 | 演奏会・映画など

 『幕が上がる』仲間が同僚にいる。高文連の理事も務めているので、内部事情にも詳しく、そういう面でもよりこの小説を楽しんだようだった。 
 「キラリふじみで、『銀河鉄道の夜』やるんだって、チケット2枚あるけ … 」「いく!」というぐらいにくいついてきたので、二人でみてきた。だいいじょうぶかな、「きのう何食べた?」みたいな関係に見られなかったかな。
 脚本はもちろん、平田オリザ氏の手によるもの。
 芝居がはじまる、ああ、あれがユッコだ、ガルルだ、中西さんだと思うといきなり泣きそうになった。
 なったけど、合宿疲れもあったのか、いや花粉症の飲み薬のせいかな、途中ちょっとオチてしまってて、話がわかんなくなった。
 宮沢賢治の原作を読もうとしたことは何度もあるが、けっして長くはないのに、いつも読めない。
 お芝居を見れば筋がわかるだろうと思っていたのだが予定がくるった。
 気づくと、けっこう終わりの方の場面だ。
 やべ、カンパネルラが川に入って45分経っちゃってるよ。ジョバンニが手ふってるよ。
 お、おつかれ。役者さんたちにしっかり拍手した。約1時間のお芝居か。「こまばアゴラ」で来月みてみようかしら。
 同僚に声をかけると、「うん、おもしろかったかな、ちょっと肩こっちゃった、あういうのが静かな演劇かな。こんどは笑えるのみたい」「それならまかせて、いくらでも教えるから」
 先週は同じキラリで「ハムレット」を観た。
 これはその筋の人からみたらとんでもない豪華キャストにちがいなく、また演出の多田淳之介さんも、やりたいこと全部やってまっせというくらいのてんこ盛り芝居だった。日本のお芝居とは、今こんな境地に達しているのかと感慨深かった。
 最先端のものを観たからといって、すぐにそれを血肉にできるわけではないけれど、でも自分のからだに新しいものが入っていくように感じる。観るべきもの聴くべきもの体験したいものが増える一方で、年とっている暇がない(中身ね)。

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飲み込む

2013年03月16日 | 学年だよりなど

 「進路だより」原稿

 「受験勉強なんて、大人になってから役に立たない」という高校生の声に対し、桜木健二先生(「ドラゴン桜」の先生)は、こう言う。

「じゃあ、すぐ使える知識や技術ばかりを仕入れたいのか? そんなものはどうせすぐ役立たなくなるし、応用範囲も限られる。覚えたときはどう役に立つかわからないような、知識こそ、その後の人生で広く、長く使える武器となってくれる。」

 現実問題として、明日も今日と同じような一日を過ごす人にとっては、英単語も数学の公式も覚える必要はない。
 たとえばみなさんが飼っているペットは将来の夢に向かって勉強はしたりしない。
 じゃ、明後日はどうか。来年は? 五年後は? 二十年後はどうだろう。
 教科書に書いてある内容が、将来役に立つかどうかは、今の時点では判断できないはずだ。
 判断できないからといって、それらの受け入れをすべて拒否していたら、何年経っても今の自分がそのままあるだけだけど、みんなはそれでいいですか?
 よくわかんないことがらも、拒否ではなく、とりあえず飲み込んでおくことによって、何年か経った後に自分の血や肉になっていることに気づける。
 学校でおぼえた知識など実社会では役に立たない、という人は大人にもたくさんいる。
 でも、それは物事を一面的にしか見ていない言い方だ。
 そういう中身のウスい大人にならないためにも、とりあえず今やっている勉強をぐいっと飲み込んでしまおう。
 決してそれは、2年後の入試のためだけにある作業ではない。
 大学合格は、それ自体が一つの目標ではあるが、さらにその先の目標実現のための手段にすぎない。
 難関大学に入ること自体ではなく、そこで豊かな学生生活を過ごそうと思うのが、みなさんの設定すべき目標だ。

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大阪俗謡による幻想曲

2013年03月15日 | 日々のあれこれ

 曲紹介「大阪俗謡による幻想曲」

  原典版「大阪の祭囃子による幻想曲」が発表されたのは1955年、翌1956年に再構成されて国内ではじめて演奏された。大栗はこのように語っている。


 ~ 今度の作品は先ず異国の人々に日本の固有の音楽の一端を紹介したいという目的で書かれてある。近時前衛音楽と称してミュージック・コンクレート、或いは電子音楽などと、作曲界に新しい運動が起りつつあるけれども、私は私なりに日本の伝統音楽に対して限りない愛着を感じ、それを理論づける為の努力に異常な興味を覚えている。 … 今度の大阪俗謡(これは大阪の人なら誰もが知っている夏祭の囃子であるが)を主題にした作品を書きながら、私は漸くにして日本音楽の作曲技法に関する種々の問題がやや明確な形となって私の頭に現われ始めた。人は「五音々階」の単純さを云々するけれども、我々が現在残されている数知れない沢山の民謡やその他の音楽を少しでも興味を持って見るならば、そこには西洋の十二音音階に劣らない美的感覚と論理的必然性を発見するだろう。例えば日本の音階における転調法の巧妙さ、それは私の曲で第三主題となって現れる僅か十二小節の旋律に過ぎないがその間に三度も調を転換するのみならず旋法までが変化する。
  私は新しい人々からは保守反動と呼ばれることも敢えて辞さない古くさい陳腐な祭囃子を使ったことに私は私のささやかなレジスタンスと、日本の伝統音楽に対する深い尊敬と愛情をも含めているのだ。(大栗裕1956) ~


 1956年。敗戦から10年余が過ぎたばかり。
 ちなみに野口五郎や桑田佳祐が生まれた年である。もっと言えば故田中スーちゃんや、浅田美代子も。
 焼け跡から立ち上がった日本人が、世界の奇跡といわれる高度経済成長を後にとげる、その端緒と言われているこの年には、「もはや戦後ではない」という言葉も生まれた。
 昭和になって戦争の足音が近づき、日支事変、大東亜戦争へと戦争が拡大していく過程のなかで、音楽をやる人間なんてごくつぶしだと言われた時期もあったはずだ。
 一転して戦後は、ミュージックが敵性語でなくなり、ジャズもポップスも適性音楽ではなくなった。西洋の音楽を謳歌し、前衛的な作品もつくられるようになった。
 音楽にかぎらない、小説の神様とよばれた志賀直哉大先生が、「日本語なんて使ってたから、あんな戦争をひきおこしたんだ、フランス語を公用語にせよ」と主張した。
 それほどいろんな分野で、日本の文化、伝統的なものは価値が低いとされた時代だ。
 そんな時期に、あえて日本の音階を、日本の祭り囃子を題材にしてオーケストラ作品を書いた大栗裕は、今のわれわれが想像もできないほど強い思いで作曲していたのではないだろうか。
 とはいえ、オーケストラ作品として大成功を収めたとは言いがたい。
 この作品が有名になるのは、やはり吹奏楽版が編曲されて大阪市音が演奏し、そして何より、いまや押しも押されぬ吹奏楽界の横綱バンド「淀工」のレパートリーになったからだ。
 しかし演奏しはじめた頃の淀工は、工業高校らしく男子部員がほとんであり、当然初心者ばかりだった。丸ちゃんこと丸谷先生も、音楽プロパーの方ではない。
 そして吹奏楽自体が、クラシック音楽のなかでは異端、1ランク低い音楽形態とみる向きも多かった。
 「大阪俗謡による変奏曲」の魅力は、土俗的な作品内容もさることながら、レパートリーとして確立した淀工のパワーと吹奏楽というジャンルのもつパワー、言うならばアウトサイダーのパワー、反骨の精神が何層にも重なり合ってうまれたものであるように思う。
 だから、音楽的繊細さももちろん大事だが、人の情念をどれくらい盛り込めるかが、この曲の演奏価値を決めるのではないだろうか。
 昔の淀工のあついパワーに一歩でも近づきたい。

 
 今年、定演パンフレットの製作が若干おくれている。「曲紹介の原稿、おれ書いちゃうね」と言って書こうとしたらこんな感じになった。いただいた5、6行のスペースにはいりきるわけないので、ここに載せることにした。

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3月15日

2013年03月15日 | 日々のあれこれ

 朝食はスクランブルエッグ、ウインナ、ちくわ天、焼き海苔に豚汁。朝のお味噌汁が豚汁だとラッキー感がある。おかわりに行った子も多かった。
 1、2年生はそのまま教室での答案返却日なので、3年生に高校生活最後の合宿所そうじを楽しんできてくれと送り出す。HRのあと集合し、合唱の練習を少し。楽器のレッスンがいくつも入っているので、基本的に、各自、各パートでやるべきことをどんどんつめていこうデーにした。最後の一時間だけ「チャルダッシュの女王セレクション」の合奏。昨年6月に演奏した、1年生公式戦デビューの曲だ。どうだ、昔より吹けるようになってるだろ、と問うたときクビをかしげないでほしい。一度本番を経験している曲でも、間があくとすぐぼろぼろになってしまう。予想どおりだけど、大きな課題だ。合宿最終日が終わった(一泊でした)。

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経験(2)

2013年03月14日 | 学年だよりなど

 学年だより「経験2」

 頑張ってもうまくいかないことは山ほどある。
 世の中に出たら、むしろそれが普通なくらいだ。
 ただし、勉強については、努力した分がかなりの割合で結果になって表れる。
 先日、マンガ「ドラゴン桜」の「桜木先生」から受験生へのメッセージが新聞に載っていた。


 ~ 「本番」が近づくと、人はつい弱気になったり、失敗したときの言い訳を考えてしまう。「受験勉強なんて何の役に立つの?」「試験が人生のすべてじゃないんだし……」などと。
 一見まっとうな疑問に聞こえるが、よく考えてみろ。じゃあ、すぐ使える知識や技術ばかりを仕入れたいのか? そんなものはどうせすぐ役立たなくなるし、応用範囲も限られる。覚えたときはどう役に立つかわからないような、知識こそ、その後の人生で広く、長く使える武器となってくれる。
 知識はものを考える土台だ。深い考察をするときには、まとまった量の知識がどうしても必要になる。おとなになって知識の蓄積が足りないと気づいたってもう遅い。受験のためだろうとなんだろうと、とことん知識を詰め込んだ経験は、あとで必ず効いてくる。「ああ、ラッキーだった」と思うはずだぞ。
 試験の合否が人生のすべてじゃないというのも、その通り。が、だからといって受験に全力で立ち向かわないのはおかしい。そもそも受験とは、公平でオープンなシステムだ。社会に出れば面接や縁故や相性……、自分が評価される尺度は曖昧になっていく。対して受験は、獲得した点数で合否がはっきり決まり、過去の出題も公開されている。ルールが明快な「ゲーム」だ。結果を出すには、地道に努力しさえすればいい。そう、受験で問われているのは、その人に努力を継続する資質があるかどうかだけなのだ。
 受験のルールに則って挑戦すると決めたのなら、つべこベ言わず全力を尽くせ。後ろ向きな姿勢では、何かを得ることなんてできないぞ。 (ドラゴン桜受験生応援企画 龍山高校特進クラス担任 桜木健二のことば「朝日新聞2月9日」) ~


 生きることは、何らかの経験を積み重ねていくことだ。
 ただし、その経験の「質」はやはり問題になってくるだろう。
 人は生きているだけで幸せだ、そのこと自体を感謝しなければならないと、よく言われる。
 しかし、だからといって漫然と日々を過ごすだけなら、それは生に対する感謝を持った生き方とは言えない。少しでもよく生きようとしてはじめて感謝の気持ちは本物になる。
 もしかしたら、どんな種類の経験を積むかよりも、その質をどれだけ高められたかの方が大事なのかもしれない。対象がなんであれ、「つべこべ言わず全力を尽くす」経験を積むことで、人は経験値を高める。前の号で書いたように、経験値を高めることは精神的に成長することだから、自分の成長自体が他人のためにいかされることになる。そういう成長の仕方こそが本当の成長だと思う。

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3月14日

2013年03月14日 | 日々のあれこれ

 合宿初日は、2部のお芝居の読み合わせ、演奏とのあわせ、3年生のソロの確認でほぼ一日費やした。
 最近まじめな曲をやってないので、少し不安だ。
 夕飯はトンカツにショウガ焼き、スパゲッティサラダというヤング向きメニュー。ショーガ焼きというか味噌味の方が強かったかな。日本酒がほしかった。
 夜、春休みの宿題一覧をまとめ、学年だよりを書く。
 ちょっと疲れたのもあり、引用が長めになった。それでも「天声人語」よりは中身があると思う。
 たとえば先日の東京大空襲の日、「戦中派には恨み重なるB29を、昨今の若者は濃い鉛筆のことか?と問うそうだ。」なんて書く。なめてんじゃね?
 最近の若者を見てて、おバカだなあと思うことはあるし、電車の中での傍若無人ぶりにいらつくときもある。
 でも、それ言い出したら大人もひどいからなあ。部活でもまれに大声で怒鳴ることはあるけど、基本は敬意をもって接しているつもりだ。毎日休まず練習に来るというだけでも、部活を続けられなかった自分よりエラいのは間違いないし。
 「話半分に聞くにせよ、いまや戦後生まれがほぼ8割を占めるのは事実である。」と続く。
 「話半分」て何を半分?
 今の若者のうち半数は、「B29」と聞くと濃い鉛筆のことと理解する、って天声人語氏は思っておられるのだ。
 そこまで若者を小馬鹿にした書き方をおれはできない。
 「天声人語」(しかし「天声」ってすごいね)を書き写して文章の書き方を身につけましょうという教材もあるが、自分の品性を保つためにもやめといたほうがいいと思う。
 小論文の勉強の仕方を聞かれて、「天声人語」や「社説」の要約をするといいと答える国語の先生が今もいらっしゃるならば、ちょっと敬遠しといた方が無難だろう。

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入学手続き

2013年03月12日 | 日々のあれこれ

 昨日、今日と併願入試合格者の入学手続きがあった。
 すでに手続きをすませた子とあわせて、4月には500名を超える新入学生を迎えることができる。
 ありがたいことである。
 いまの1学年の生徒さんには、後輩のよきお手本となるよう、しっかり成長していただこうと思う。
 そして、新年度は入学者の1割に入部してもらうことを目標に、勧誘活動を行いたい。
 そのためにも、定期演奏会を成功させて、そのテンションを保ったまま新年度を迎えることが大事だ。
 その部のもつ、その時々の空気感が、重要だから。

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定演二部

2013年03月11日 | 日々のあれこれ

 県立新潟高校に「学校を爆破する」との電話があり、開始直前だった高校入試を遅らせ、受験生をいったん待避させたというニュースをみた。幸い、爆発物は発見されず入試も実施されたようだ。少し前にも、これから学校を襲撃しますと警察にメールが届き(だったっけ?)、休校にしたとかあった。静岡県だったかな。こういう悪質ないたずらを時折耳にするものだ。
 じゃあ、そういうのをネタにしてみようか、学校にそんな連絡が入る、実際に爆破物がしかけられている、それをレンジャーが決死の覚悟で阻止しに行くというお芝居にしてみる?
 二年前、そんな脚本を書いて、さあ練習に入ろうかとしてたとき、大震災が起こった。
 その後の数日の状況のなかで、軽々しく「爆発」とか口にできる状況ではなくなった。
 どうしようかと悩む時間もほんの少ししか与えられないうちに、定演自体を中止せざるを得ない状況になった。
 あれから二年。
 あの後何があったか。時間をおいた今、少し客観的に思い返すことができる。
「苦境に追い込まれた時はじめて人の真価が問われる」といわれる。
 二年前の、想像も絶する苦境のなかで、責任逃れしか考えてないと思わざるを得ない方々を見かけた一方で、ほんとうに自分を捨てて、命をかけて日本を守ろうとした人がいた。 
 あのときは、ほんとうにレンジャーはいた。たくさんいた。頭がさがる思いだった。今もいる。
 そんな思いをこめた今年の二部の脚本を、やっとだけど練習開始した。

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経験値

2013年03月09日 | 学年だよりなど

 学年だより「経験値」

 試験おつかれさまでした。これで計五回の定期考査が実施された、つまりセンター試験の範囲の半分が終わった。この春休みに必ずやっておくことは、五回分の定期考査をもういちど解いたときに、ほぼすべてが解ける状態にしておくことだ。
 まずはリストアップしよう。1学期中間、現代文、古典、数Ⅰ、数A、英R、英G … 1学期期末、現代文、古典 … 、2学期中間考査、期末考査 … 。
 すでにきちっと復習してある人は、チェックの入った問題だけを解き直していけばいい。
 正直何もしてない人も多いと思う。定期考査がどこにあるかわからない状態の人とか。
 そのままだと、この一年間は勉強についてはゼロだったのと同じ状態になってしまう。
 新年度の授業が始まるまで、これから丸々一ヶ月間ある。有効に使おう。

 ライブドア元社長の堀江貴文氏は、粉飾決算の罪に問われ刑が確定し、現在は長野刑務所で服役中である。刑務所で日々の暮らしがメルマガで伝えられ、書籍にもまとめられている。
 ある日、面会にきてくれた友人とのこんな会話が収録されている。


 ~ 友「そう言えば、僕が会社を潰して一番凹んでる時、最初に連絡くれたのが堀江さんだったんですよ。覚えてますか?」
堀「覚えてるかも」
友「その時、なんて言ってくれたか覚えてますか?『お前まさか落ち込んでるんじゃないだろうな? そんなの余裕だろ! お金がなくなっただけだろ。俺なんかお前の何倍もお金が全部なくなって犯罪者になって、しかも、これから刑務所に行くんだぞ!? それより全然イイだろ!!』と言われて、実はかなり楽になったんです。」
堀「へ? そんな話したっけ? ま、でも、その時の気持ちが少しはわかったから連絡したんだと思うよ。やっぱり同じ様な厳しい状況の人にしかわからない気持ちってあるから」
友「そうなんです。本当に辛い思いをして、やっと人の気持ちや傷みが分かるようになって、思いやりの心を持てるようにあったというか … 」
堀「そうだね。というか『人の気持ち』とか『思いやり』とかって、結局、経験値だと思うんだよね」(堀江貴文『刑務所なう2』文藝春秋) ~


 ものすごく辛い思いをしている友人に声をかけにくいのは、その辛さがどの程度のものかわからないからだ。同じような経験を自分もしていれば、友人の辛さも実感できるし、どれくらいで立ち直れるか、どんな言葉をかけてもらいたいか、もしくは放っておいてほしいかも予想できる。
 「人の気持ちを思いやる」ことの大切さは言うまでもないが、しかし人の心はわからない。
 他人の「心の痛み」などわかるはずがないのだ。
 ただし、自分自身が様々な経験を積むことで、「思いやる」ことのできる範囲が増える。「思いやる」方法の精度も高まる。それが精神的に成長するということなのだろう。

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