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キリスト・コミッション オグ・マンディーノ
作者の名前には何となく聞き覚えがあったのだが、買った後で本書の著者オグ・マンディーノが、昔読んだ「十二番目の天使」の作者であることを知った。「十二番目の天使」は、かなり昔だがアメリカでベストセラーになっているという宣伝文句に引かれて読んだことのある本だ。NYでの駐在を終えて日本に帰ってきてからも、アメリカにいた頃のことが懐かしいせいもあるが、アメリカでベストセラーになっていると知ると、時々その本を読んでみることがある。「十二番目の天使」もそうした本の1つだった。アメリカ社会は、エイズ禍等もあって、スピリチャルなものへの傾倒を深めていると言われているし、家族・家庭回帰といった現象が起きているとも言われる。「十二番目」を読んだ時は、こうした本が売れるのは、やはりそうした傾向が影響しているのだろうと考えていたが、本書を読んで、オグ・マンディーノの著書には、そうした「はやり」だけではなく、もう少し奥の深いところでアメリカ人の心をつかむものがあるのだろう、ということに気づかされた。
本書の主題は「キリストの復活」である。昔読んだ遠藤周作の本に「キリスト教の本質はキリストの復活を信じるところにある」という言葉があったのを覚えている。どういう論旨だったかは忘れてしまったが、もしそうだとするならば、本書は著者の信仰心にとっての最大の課題に取り組んだ本ということになる。舞台は、キリストが処刑・復活してから数年後のエルサレムである。この数年後というところが「ミソ」で、復活劇はすべて終わっているのだから、復活の話はすべて過去の話、すなわちこの本の中の復活に関する描写はすべて「伝聞」「思い出話」の形になっている。かといって「数十年後に書かれた福音書」のような脚色されてしまった「伝聞」ではなく、かなり真新しい「思い出話」が聞けるという設定なのである。そもそも福音書には「復活した」と書かれているのだから、「復活への疑念」というのは「福音書の脚色に対する疑念」と同値である。その「脚色部分」を排除するための「苦肉の策」がこの「数年後」という時代設定だ。様々な文献にあたって「数年後」という座標軸から「復活」に焦点をあて、キリスト教の根源的な部分を再構築する、その作業の成果が本書というわけだ。そうした作業の結果、疑念が晴れたかというと、ある疑念が他の疑念に置き換わっただけという部分も多いのだが、0.1%でも疑念が少なくなれば、それはそれでキリスト教徒にとってはものすごく大きな成果なのだろう。そうした思索の積み重ねによって、信仰が維持され、科学の時代にも適合したものになっていくのだと感じた。(「キリスト・コミッション」オグ・マンディーノ、ダイヤモンド社)
本書の主題は「キリストの復活」である。昔読んだ遠藤周作の本に「キリスト教の本質はキリストの復活を信じるところにある」という言葉があったのを覚えている。どういう論旨だったかは忘れてしまったが、もしそうだとするならば、本書は著者の信仰心にとっての最大の課題に取り組んだ本ということになる。舞台は、キリストが処刑・復活してから数年後のエルサレムである。この数年後というところが「ミソ」で、復活劇はすべて終わっているのだから、復活の話はすべて過去の話、すなわちこの本の中の復活に関する描写はすべて「伝聞」「思い出話」の形になっている。かといって「数十年後に書かれた福音書」のような脚色されてしまった「伝聞」ではなく、かなり真新しい「思い出話」が聞けるという設定なのである。そもそも福音書には「復活した」と書かれているのだから、「復活への疑念」というのは「福音書の脚色に対する疑念」と同値である。その「脚色部分」を排除するための「苦肉の策」がこの「数年後」という時代設定だ。様々な文献にあたって「数年後」という座標軸から「復活」に焦点をあて、キリスト教の根源的な部分を再構築する、その作業の成果が本書というわけだ。そうした作業の結果、疑念が晴れたかというと、ある疑念が他の疑念に置き換わっただけという部分も多いのだが、0.1%でも疑念が少なくなれば、それはそれでキリスト教徒にとってはものすごく大きな成果なのだろう。そうした思索の積み重ねによって、信仰が維持され、科学の時代にも適合したものになっていくのだと感じた。(「キリスト・コミッション」オグ・マンディーノ、ダイヤモンド社)
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