「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「山の日」

2017年08月11日 | つれづれ噺

                                  

今日は「山の日」という国民の祝日。朝一番に玄関に国旗を立てる。
昨年から施行されて2回目の山の日は、8月11日でもありお盆の帰省ラッシュピークとなっているようだ。

この日に備えて、山にまつわる出版物も大きく宣伝されている。
「富士山登山ご案内」や「日本百低山」「改訂新日本山岳誌」などなど。
中でも興味を引くのが、「日本百名山」ならぬ「日本百低山」である。
「山は富士山やアルプスだけじゃない。価値も高さだけじゃない。北海道から沖縄まで、47都道府県のふるさとの「名低山」100座を山岳ガイド協会所属のプロが紹介!山好きはもちろん、山初心者も必携の一冊」などとうたわれると、山歩きはしんどいよねーと真っ先に思ってしまう小生でさえ、ちょっとひもといてみたくなる。

山と言えば「高きが故に尊し」とされ、低い山はなかなかメジャーになりにくい傾向にある。
これはサラリーマン社会にも似ていて、早く偉く出世した者だけが会社にとっての功労者みたいな扱いを受けることがある。ところが実際に汗を流して操業を守り抜く人間の力は、案外見逃されてしまうのが現実でもある。低山の気持ちになって「高ければ尊し」ばかりではないんよ、と一言モノ申したくなる気持ちなきにしもあらず。

いずれにしても、身近にありそうな「名低山」ひもといてみる価値はありそうだ。と思いながらもこの暑さ、近くの250m級のお城山さえ、この夏はまだ4回しか登っていない。
滴り落ちる汗をものともせずひたすら登ってお城に着き、うちわであおぐ風の心地よさを十分心得ているのに、いざ実行となるとついつい腰が引ける。そんなことじゃ「日本百低山」ガイドブックも宝の持ち腐れになりそうだ。それとも得意の知ったかぶりの素として、ひもといただけで登ったような気分になって吹聴するのだろうか。それもいいな~。

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「兄ちゃんのお裁縫」

2017年08月10日 | 家族・孫話

                                                  

スキーの上達を目指して、親元から遠く離れた高校を選択した孫兄ちゃん。
学校から最も近いコンビニまで行くのに自転車で30分という山に囲まれた田舎町。そんな環境の完全寮生活も、すでに2年生の夏休みを迎えた。ということは、逃げ帰ってくるほどの不便さやストレスまでには至らず、環境に馴染んだということなのだろう。
むしろ時間を持て余し気味で、読書の習慣が身についたらしく、いろんなジャンルの本をめくっているという。
メールのやり取りやしゃべり方、話す内容まで、急に大人っぽくなったようで、親元を離れたことが大いにプラスに働いているようだ。

もっとも、小学4年生から一人で遠くのスキー合宿へ行かせてもらったりして、自活にもある程度慣らされた部分もあったような。
そんな高校2年の孫兄ちゃんが、夏休みで帰省している。
「持って帰った荷物の中から学生服のズボンが出て来た」と笑いながら母親が我が家に持ち込んだ。

よく見ると、裾上げを固定する縫い方としては全く素人の手できっちり縫い合わせてある。それもご丁寧にミシンで縫い合わせたほどの細かい針の運び目で、その上縫い目も糸もズボンの表面にはっきりと出ているではないか。これは紛れもなく孫兄ちゃんの手による、一生懸命手繕いを試みた「仕事」の跡である。「笑うに笑えない」とは、元縫製プロのババ殿のセリフである。

今回の裾上げは、寸法を変えるとかの複雑な作業ではなく、これまでの「まつり糸」が切れて、折り込んでいた内側の生地が垂れ下がるのを防ぐという簡単なこと、なのだそうな。書いている本人も裁縫音痴なのでよーわからんのではあるが・・・・・・。
問題は、そういったやり方や専門知識の話ではなく、孫兄ちゃんが自分で針に糸を通し、自らの手で学生ズボンの手直しをしようとした努力を評価してやりたいと思うジジ心である。

親元にいれば自分のズボンの修繕などするはずもない。しかも男の作業らしくち密にしっかりと力強く縫い込んであるということは、持て余す時間を活用してじっくり取り組んだ結果であろう。簡単に外に遊びに行くところもない生活環境のなせるわざである。
「かわいい子には旅をさせ」とはよく言ったもので、思い切って本人の希望に任せた親の判断も中り(あたり)だったようだ。

「あまりにもきっちり縫ってあるのでほどくのが大変」とこぼしながらも完全修復したババも、孫の努力を認め笑っている。
つぎは「ばあちゃんの作るあれが食べたい、これが食べたい・・・」とおねだりするがっしり色黒の高校2年生。
故郷で胃袋にも心にも栄養補給して、大切な2年生2学期を乗り切ってもらいたいものだ。

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「メディアに乗せられて」

2017年08月09日 | つれづれ噺

                                 

我が愛する広島東洋カープの快進撃は続く。
真夏の暑さにもめげず、連日連夜の6連戦を繰り返し戦って、確かな成績を残しているカープ。
27~28歳という脂の乗った選手団を中心に、チーム内競争を勝ち上がった成長著しい若手、そして確かな選手起用の首脳陣。
これら好循環に支えられて、昨年に次ぐ連覇が視野に入って来た。

8月8日、ナゴヤドームの中日戦を負けずに引き分けたカープは、当面の敵である阪神が敗れたために、優勝マジックナンバーなるものが点灯した・・・とメディアは大騒ぎをしている。そんなメディアに乗せられて、ファンも一緒になって騒いでいる向きもある。
そもそも大騒ぎの元となっているマジックナンバーはまだ「33」なのである。102試合を消化したカープは63勝35敗4引分。
残り41試合で、対阪神に8戦全敗しても他のチームに33勝すれば優勝するという誠にややこしい数字である。

ご存じの通り、この不明瞭なマジックナンバーは、今後の調子の変動や2位チームの成績によっては消滅することもある。
誠に不安定な数値である。そんなものに一喜一憂することなく、目の前の一戦一戦を確実に勝つよう応援したいものである。
グラウンドの選手たちは、マジックナンバーが10以下になったあたりでようやく意識するのだろう。応援するファンも、早くから数値にこだわって頭を悩ますより、暑さに負けない熱い声援を贈って、選手の背中を押す役割の方が楽しいと思う。

そして今ひとつメディアの気になる言葉に「先発投手が100球を超えた、そろそろ交代か」などとピッチングコーチみたいなことを言い募る。これはおかしいという気がしてならない。先発投手は5・6日休んで1日登板するのである。それで1勝すれば確実に年俸は上がる。
6日目か7日目かに登板すれば、100球などという球数よりも9回完投を目指すのが当たり前ではないのか。
勝つのに越したことはないが、相手がいるのだから負けることだってある。たとえ負けても球数を気にせず、完投を心がけてこそ、一流の投手として名を馳せる資格が生まれようというもの。

メディアが勝手に作り出した言葉が横行し過ぎると、選手たちもいつしかその気になって軟弱になってしまうとすれば、それはお金を出して応援するファンに失礼である、という気がする。完投をあきらめて中継ぎ陣に頼ることを分業制という。この「分業制」という言葉もメディアが勝手に面白おかしく言い始めた言葉のようである。

もっとも、連戦に次ぐ連戦を強いられる選手は、いつもかつも死に物狂いでやってられない気持ちもまたよ~~く判っている。
いずれにしても、「連覇」の二文字がこの先、出来るだけ早く現実なってくれることを願ってやまない。

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「祈り」

2017年08月06日 | ニュース・世相

                                      

8月6日、72年前のこの日。
世界で初めての「人が住む町への原子爆弾投下」という、おどろおどろしい記憶の日である。
今は、全世界で慰霊の祈りを捧げ、二度と核兵器行使のない平和を希求する「祈念の日」となっている。

爆心地とされる広島市中心街から40数㎞離れたここ岩国市も「防災岩国市」が発信する午前8時15分のサイレン吹鳴に合わせて、1分間の黙とうを捧げた。折よく帰省していた4歳の姫孫も、0歳の孫を抱いた嫁も、お父さんもばあちゃんも、揃って哀悼の気持ちを捧げた。
今日一日は平和を求める「祈りの日」でもある。

普通に働いて、笑ったり喜んだり、悩んだり悲しんだりする極めて普通の生活。これこそが「平和」というものの形なのだろう。
特別な贅沢や豪華な暮らしを求めるわけでは決してない。そんな我々のささやかな希望さえ、土足で踏みにじるような「脅し」を繰り返す物騒な国が間近に存在するこの現実。逃れようのない恐怖は大なり小なりいつもついて回る。

核戦力を十分に保有し、核による世界制覇さえ可能だとする大国が、核廃絶などに同調する気配など見せはしない。もっとも口先では何とでも言える。自国の利害が絡むこととなれば、核を振り回す封建国家に自制を促すことなどするはずがない。むしろ、対アメリカという戦略構図を蔭から支援している大国が幾つかある。正直に非核三原則を唱える我が国など、核の前には「アメリカの核の傘下」などという他力本願であり、本当に自衛できるのか、今の国力で専守防衛が本当に可能なのか、与党だ野党だと騒ぐ偉い人に本音を訊いてみたい。

この世の中から核をなくすという夢のような話の中ではあるが、唯一の核被害者つまり被爆国としては、このような悲惨な愚を二度と繰り返さないよう、世界に訴えかけるしか方法がない。そのことが実に淋しいし口惜しい。
考え方はそれぞれなので、どれが正解でどれが間違いなどという議論のための議論ではなく、本当に我々の生命財産を外敵から守るすべを構築して欲しいものだ。その上で、被害に遭った者だけが知り得る「悲惨さ」「非人道的蛮行」であることを世界に訴え、祈りを捧げる記念日として世界に発信したいものである。所詮声なき声として聞き届けられることはないのだろうが、8月6日の雑感と思召せ。

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「やっぱり、これだ!」

2017年08月04日 | 宴会・会食

          

うだるような暑さの中、幹事さんの肝煎りで気の置けない仲間との暑気払い。
たとえ一瞬ではあっても、真夏の暑さしのぎは「やっぱりこれだ~~」ビアガーデン。先ずはジョッキでカンパーイ!!
総勢10人のこじんまりパーティ。程よい人数で、話題はおおよそ一つに絞られるのか、と思いきや飛んでもハップン。
テーブルの上を駆け回る話題は常に3種類から4種類。それぞれの席で異なる話に花が咲く。声もだんだんでかくなる。

延々と続いている会社時代の仲良しグループの懇親会。4月の花見、6月の総会、それに次ぐ今回だからそれほど新鮮な話題もないのではないか、などと心配することなど何もない。肩も凝らない。そんな中唯一の気がかりは、いつしか一番お年寄り、言うなれば長老と呼ばれる立場になりつつあることである。もうしばらく2番目か3番目のお年寄りでいたいのに。

そしてお決まりのコースが、我先にマイクを握りたがるカラオケボックスの演歌大会。大半があまり新しくない歌、つまり古き良き昭和に戻り、あふれんばかりのヒット曲を次々とぶっ放す。数えてみれば何曲??これでも少し控えたつもりだが。
中には、エッ!この人がこんな歌を、などというミスマッチとも思える選曲がまたオモシロイ。

そんな楽しいビアパーティでも、スマフォの画面をまさぐるのはカープの試合経過。とんでもないスタンドプレーなれどこれだけは誰もが認める。「今5対1で阪神リードよ」などと。最後にはほぼ負け試合を追いついて引き分けに。やっぱり強いね~とまた1曲。

この夏2回目の暑気払い。少し前ならこの時期に2回目などとは考えられないほど回数が減った現実。
「このくらいがちょうどええんよ」という声が耳に刺さるが、もう一つだけ残されているのが高校仲間のシンプルビアパーティ。
これはやはりこの時季欠かせない行事ではある。これを終えたら、また一つ気持ちを切り替え「暑い暑い」と嘆くばかりでなく、秋立つ日を期待して少し鞭を入れることも考えなければ。

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「葉月ついたち」

2017年08月01日 | 季節の移ろい・出来事

                             

夏も真っ盛りの葉月ついたち。文字通り、各地で大小色んな夏祭りのシーズン到来である。
特にこの季節、地域にある様々な介護施設が「夏祭り」を催す。
入所者や通所者ご本人やその家族が祭りを通して交流し、施設側が飲食の格安販売やステージイベントなどを提供するのが通例となっている。

岩国太鼓保存会の勇壮な演奏でオープニングを飾ったり、地域で活躍する民踊同好会の華やかな踊りでスタートしたり、いろんな工夫が見られるのはなんとなくほほ笑ましい。中には、結構お金をかけている割にはイマイチ盛り上がりに欠けたり、ちぐはぐだったりする場合もある。
やはり周到な準備と、気配りの出来る総合プロデューサー的なリーダーの存在が必要だなーなどと勝手な評価を下したりする。それもこれも、同じやるんならもっと楽しく、もっと盛り上がる方法があるんじゃないの、などとつい欲張ってしまう。こんなのを下司の勘繰りとでもいうのかもしれないが。

いずれにしてもこのようなイベントの担当者は、仕事に追われる中でプラスアルファーの別の仕事として取り組むのだろうから、万人のお気に召すような内容にはなかなか至らない。それをを期待する方が無理なことであろう。まあそこそこの出来栄えでよしとしないと、せっかくの夏祭りが面白く見られなくなる。

若いころから地域の盆踊りや、青年団演芸会など、いろんなことに首を突っ込んで来た。
特に夏の夜の「慰霊盆踊り大会」は、年間行事の代表格であり、準備や会場設定などに苦心した熱い思い出がある。
それらのことを運ぶときには、「これがベスト」と思って取り組むのだが、終わってみるとあれこれ指摘事項が出てくる。
それをまた来年の肥しにして、さらにいいものを……と思ってやってきたつもりなのだが、果たして。

このような試行錯誤の繰り返しは、母を見送った後の「悔悟の念」に似ているようだ。
「母の思いを本当に受け入れてやったのだろうか」「もっともっと母に寄り添う方法があったのではないか」などと。
いまさら考えても栓なきことながら、お盆という節目を迎える暑さの中で、夏祭りに寄せて色んなことが頭をよぎる。

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