「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「お待たせいたしました!」

2024年12月04日 | 季節の移ろい・出来事

 

今年は所属する地区社会福祉協議会(地区社協)が発足以来20周年という節目を迎えていることは何度も拙ブログで吹聴して来たところだ。
20周年記念事業の一つとして、地区社協発足に至った先輩諸氏の心意気や活動の基本理念がちゃんと引き継がれているか、目的に沿った活動がなされているか、と言ったことを取りまとめた写真集を中心としたパネル展をやろう、そうして賛助会員として活動資金を提供してもらっている多くの住民の皆様に、活動の足跡を再確認して頂こうという話になったのである。

過去の歩みを写真集にまとめるとは、広報担当がパソコンに残した数百枚の中から改めてパネル20枚分の写真を抽出する途方もない大仕事である。
そうはいっても広報担当とは自分なので、他の人に頼むのは筋が違うんじゃない?やっぱしこの手でやるのが自然の流れでしょ、ってなことで本腰入れて頑張ったのよ。

そしたらいつの間にか、地元の紅葉の名所に足を運ぶのさえ忘れていた。それほどに尻に火が点いたような錯覚に襲われてボーっとしていたのではなく没頭していた。今日やっと目鼻が付いた。遅まきながら錦帯橋の奥座敷の隠れ紅葉の名所「もみじ谷公園」にでも行ってみるか、と思った気持ちが通じたのか、元同僚の長いお付き合いの友から、「今日もまだ見頃でしたよ」と真っ赤に染まる紅葉・最高の輝きの銀杏などをラインで送り届けて頂いた。こんな有難いこともあるんだね~。と、一仕事終えて軽くなった気持ちに沁み込む、今年最高の紅葉であった。
明日は大きなG・ゴルフ大会にエントリーしてある。いい夢を見よう。
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「最後の従兄弟」

2024年12月03日 | ビッグニュース
                   
            丘に上がりそうな 満潮の船溜まり
最後の一枚となったカレンダーに今年最終の月間予定を書きこんで行く。
相変わらずあれこれあるもんだね~、ボヤっとなどしていられないし、ボヤっとして予定の活動をすっぽかしたり約束を違えたりしようものなら、一気に信頼失墜「彼には頼みずらいね」などという負の評判が立ちかねない。今のところそれは心外であるし、そこまで耄碌してないよと反論したくなる。

何もない日数より何かしら予定を書き込む日数の方が多いことに少しの安堵をおぼえたところへ、父方の最後の従兄弟がついに満ちる潮が満杯になって引き始めるように、静かに黄泉路へ旅立ったという訃報の報せが。昨夜がお通夜、今日が告別式という新たな緊急事態が舞い込むんだ。こちらは他の何を置いても駆けつける一大事である。
96歳というから年に不足はないとは思うが、晩年になって妙に気持ちが寄り合ったというか、よき理解者としての存在価値を確かめ合えていただけに寂しい。そして彼の逝去によって、我々世代での父方の親戚筋がほぼ消えたこともなんか一つの時代が終わったような気になってしまう。

謹厳というよりは勤勉実直・真面目一筋、そんな従兄弟の旅立ちの足元を照らし温かく包み込むような、小春日和の少し汗ばむ陽気に誘われて、満潮の海を覗いてみた。まさに風一つない真っ青な空に真っ青い海、浮桟橋の上に顔を出すように小さな漁船やプレジャーボート。師走の声を聞いてもこんな素敵な日もあるんだね~。戦時中という時代背景で家を守ることを託された男兄弟。兄の戦死によって弟が兄の遺したもの全てを受け継ぎ守り抜いた。そんな寡黙でひたむきに生きた従兄弟の最期の旅立ち。お天道様も満潮もその頑張りを祝福してくれたのかと思いたくなる。 合掌
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「師走ついたち」

2024年12月01日 | 思い出話

                                        
泣いても笑っても、今年の暦はペランペランのたった1枚だけとなった。
今年も7泊8日の旅に出たのなら喜ばしいことなのだが、そうも行かない。5月末日の手術で国立病院機構の大きな医療センターに入院したのが7泊8日だった。これを最後に入院手術とか、落ち込みの激しい病気に罹らないよう、静かに祈りながら、半分おっかなびっくりで過ごしている。というのも、泌尿器科手術の後遺症はなかなかしつこく、まだ完ぺきではない。

などと可愛い愚痴をこぼす間はまだいい。今年もあの人この人多くの人の喪中はがきが届いている。中でも「え~~??」と思わず声が出そうになる訃報に接した。50歳を過ぎた遅いお上りさんであり、慣れない東京本社勤務に不安いっぱいで有楽町駅に着いたとき、気さくに迎えてもらったのが、敏腕営業マンと名が知られていたYさんである。学年はこちらが一級上だが、生き馬の目を抜く東京商圏を闊歩できる気っぷのいい男であった。敢えて同僚と言わせて頂くが、短い時間に大日本印刷・凸版印刷・東京書籍など印刷大手の担当者に「岩国工場のエンジニア」という触れ込みで紹介され、面目を施したのを思い出している。

お酒は強かったね~、カラオケは自分より人に歌わせるのがうまかった。そんな大切な思い出の人に、1年に1度の年賀状さえ出せなくなった。そんな思いの裏返しに、葉書の差出人である奥様宛てに、感謝を込めた徒然なる思いや奥様の健康を願う気持ちなどを認める師走ついたちとなった。
少しの違いだけど早い旅立ちに間違いない。やがていつかは行く道ではあるが、今しばらく訃報連絡を受ける立場に徹したい。それも元気ピンピンで。
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