(40数年前でしょうか、体育の日に町民登山と称して巻機山の米子沢を登りました。
今回突然の別れとなってしまった友は、鍋のふたをリュックの後ろにぶら下げていました)
昨日は4月28日の早朝に突然亡くなってしまった友達の葬式でした。
受付、弔辞といろいろな仕事を引き受けて、夕方のお念仏を終えて帰宅したのでした。
弔辞朗読の役を仰せつかってから、何度も何度も書き直していました。
とにかく、一口で表現できるような友ではなく、スケールの大きな男だったのです。
妻の前で下書きをして、読んでチェックしては声をあげて泣くものだから、
「トーちゃん、大丈夫?泣いて読めなくなるんじゃない?」言われていた。
弔辞は何とか読めました。涙声にもなりました。
でも、ここで泣いたら男じゃないと、ぐっとこらえ息を止めそして一気に読み終えました。
葬儀を終えて一区切りにはなったけれども、残されたご家族の気持ちを思うと気持ちは晴れない。
残されたご家族、特に奥さんを仲の良い妻と二人で支えていこうと決心しています。
「追悼文として彼との思い出を再掲します」
「平ヶ岳」とオートバイの青春
酒を飲んだり、賭けごとをしたりと、怠惰な生活を送り、体力も落ちていた頃、友人に山行に誘われた。
今のように楽なコースも開かれていない頃で、秘境とさえいわれていた頃の「平ヶ岳」である。
しかも、オートバイで行き、麓の「鷹の巣」で一泊し、早朝出発の日帰り登山をして、
その日のうちに帰宅すると言う強行軍。
朝はまた薄暗いうちに出発し、あのダラダラと長い事でも知られる、尾根道に取り着いた。
同行の友人はその頃せっせと山に登り、国内の山では物足らず、
ヨーロッパアルプスにまで遠征した健脚の持ち主だった。
鼻歌を歌いながら、変わらぬペースの足取りで登る友人に着いて行く事は容易ならざることだった。
ようやく、山頂近くの「卵岩」に到着し、ややなだらかになった道を登り山頂に立つことが出来た。
しかし、下りもまた苦難が待っていた。なんと雷雲が発生し、雷鳴が鳴り響き始めてしまった。
激しい雷鳴は谷を登って来るようにさえ感じられ、尾根道から避難し、しばらく藪の中で過ごした。
予定よりも遅れて下山し、休む間もなくオートバイに登山道具を縛り付けて帰途につく。
しかし、帰り道の途中には未舗装砂利道の難路「枝折峠」が待っている。
オフロードタイプの友人はともかく、ハンドルが低くて短いロードスポーツタイプの私には、
砂利道は疲労困憊した身体でもあり、想像を絶する恐ろしい下りコースとなった。
峠を越え、下りにかかったカーブでとうとう激しく転倒。
敷き均されていた鋭い豆砕石は皮の手袋を破り、右手の手のひらに食い込んだ。
峠を下り終え、暗くなった大湯温泉で軽い夕食をと言う話になり、食堂に入った。
脱ごうとした手袋は血で手に張り着き中々脱げない。
見ていた、食堂の老夫人が「まー可哀そうにー」と言いながら、救急箱を持ってきて応急処置をして下さった。
その後、夕闇の舗装道路を走って帰ったのだが、壊れた前照灯が丁度対向車の運転席を照らすことになり、
行き違いのたびに怪我をした右手でライトを押さえながら走ったのだった。