畑に吹く風

 春の雪消えから、初雪が降るまで夫婦二人で自然豊かな山の畑へと通います。

ジャガイモ先生(その2終わり)

2024-06-21 04:01:13 | 暮らし
 草は大体取り終えました。
真ん中付近は目が届かないようで残っているけれど、ま、良いでしょう。

 次は追肥の実演ですが、実際はこの大きさ花が咲いてからはしません。
「追肥と言ってね、ジャガイモにはサプリメントのようなものかな」ってわかったかなー。

 「スベルベオジサンが、花咲かジーさんになります」
「花咲かジーさんは何を撒いたのかな?」「知らなーい!」でした。

 さーそして、肝心の土寄せです。
残念ながら畝の間隔が狭く、きれいには出来ず株の周りに土をかき寄せる。

 終わりました。土寄せの授業時間は1時間弱でした。
「今年は、豚汁にして食べたいそうです」と先生。また招待してくれるのかな。
          (終わり)
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ジャガイモ先生(その1)

2024-06-20 04:06:36 | 暮らし
 母校でもある小学校で、また臨時講師を務めます。
今回はジャガイモの土寄せです。予定していた一昨日は雨になり、教室で座学です。

 脱線の多い先生で、スベルベ先生子供時代のお手伝いの写真を見せる。
二宮金次郎なんて話は、もちろん知らないから説明も難しいですね。

 さて、座学、教室での授業で終わりかと思ったら夕方電話がありました。
昨日は晴れるから、朝から教えに来てもらえないかというお話し。二つ返事で引き受けます。

 先生の「まずは草取りから始めましょう」言葉に素直に従う子供たち。
スベルベ先生は、「これはアカザ、こっちはスベリヒユ、これはメヒシバ」と名前を教える。

 これは、草取りを始めたばかりの取った草の量。
最後は一輪車がほぼいっぱいになるほどの量の草が取れたのでした。
 「草とジャガイモの違いは分かり難いけれど、花の咲いているのがジャガイモね」。
「この草、なんか付いてる」なんて声に、目を向けるとジャガイモも抜いていました。
仕方ないよね、まだ花の咲かない株もあったのでしたから。そっと植え直しました。
            (続く)
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ジュンベリー最後の収穫

2024-06-19 04:04:48 | 暮らし
 農天市場のあった土地のやや奥にあったジュンベリーは国道脇に移植。
にぎやかな自動車の行き交いの音を嫌うのか、以前よりも鳥の食害は減ったようです。

 以前は小鳥たちのついばんだ跡で、ジュンベリーも傷ついていた。
でも、今年は最後まで無傷状態で沢山の実が残り、先日最後の収穫でした。

 隣は国道17号線で、向こうの山際にはJR上越線が見えます。
春は煙るような状態の白い花を見せ、実が付き、そして秋には紅葉を見せてくれる。

 今年最後の収穫と思えるタイミングで、孫も採りに来宅。
スベルベジーさんが、もぎ取り孫は下で受け取るという方式です。

 しかし、美味しさの魅力に負ける孫は、時々つまみ食い。
スベルベは子供時代のおやつ不足の記憶に果樹類をたくさん植えています。
 次はプラムが採れるようになるでしょう。今年たくさんの実が着いていて楽しみです。
その次は柿かな。甘柿と渋柿がそれぞれ一本ずつあり、春から秋まで果実が楽しめます。
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連載316「トーちゃんとカーちゃんと」(その2終わり)

2024-06-18 04:19:14 | 暮らし
 農天市場でのトーちゃん

 農天市場でカーちゃんの後ろ姿

    トーチャンとカーちゃんと(その2終わり)

 いじめられることを心配して両親はトーちゃん、カーちゃんを封印。土地並みの「つぁつぁー」「かっかー」と呼ぶように言いつけられた。姉たちは習慣からカーちゃんと呼び始め、途中で気づき「かーかっかちゃん」なんて哀れな言葉を口にすることさえあったらしい。

 さて、私は帰郷後、この魚沼の地で生まれたが、戦後になり世の中も変わったらしくて最初から「トーちゃん」「カーちゃん」と呼んでいましたが。
私は二人の娘にも同じ呼び方、とーちゃんカーちゃんを使わせた。家内の叔母には古い、戦前みたいだと言う人も居たらしいが。

 でも、田舎の仏事の際に帰郷した娘の子供が、親を見失って「ママ、ママー」と探し回るのに、真顔で「おい、ねら、この子は腹が減ったげだぞ、まんま、まんまだてや」なんて親を探したとか。

 他人事とではありません、我が家も娘と家内が東京に出かけた際に、家内を見失った娘が「カーちゃん、カーちゃん」と泣いたら、周囲がみんな驚きの表情で見たと言いますから。ちなみに今でも夫婦のたがいの呼び方はトーちゃん、カーちゃん。いまさら名前では恥ずかしい。
          (終わり)
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連載316「トーちゃんとカーちゃんと」(その1)

2024-06-17 04:06:37 | 暮らし
 自前の農産物直売所「農天市場」では、こんな名札を付けていました。

     トーちゃんとカーちゃんと(その1)

 太平洋戦争末期まで、我が家の家族は岐阜県の片田舎で暮らしていた。当時は一路線だけを権利を持ってバスやタクシーを運行する業態が許されていた。父の姉の連れ合い、つまり父の義兄がそのバスの会社を経営していて、国鉄高山線の白川口駅から中津川に至る峠道までの路線の権利を得ていた。

 父からよく聞かされた話に、薪自動車や木炭自動車の話があった。出力不足に悩んだらしいが、工夫を重ねて乗り切っていたとか。「あのまま木炭車が進歩していたら、大した性能になっていただろうな」と繰り返し話していた。

 魚沼の実家では父の頑固な継母が一人で暮らしていて、帰郷を強く請われたという。最後は「帰って来ないならば俺がこっちの家をたたんでそっちに行く」とさえ言いだしたとか。
 父の姉たちは義母から離れたい気持ちが強くて、三人ともに岐阜で暮らしていた。あの、とんでもない女傑、わがままな義母が来たのではたまらないと、父は説得され帰郷するという流れになったらしい。

 岐阜では姉たちは「トーちゃん」「カーちゃん」と呼んでいた。しかし、魚沼の田舎ではそんな呼び方をする家庭は無かった。

        (続く)
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