―肩に狼が食いついていた
雪と見紛うほどに白い狼
間近に見る狼の目は 不思議にもまるで人間のような黒い色をしていた
彼が覚えているのは それだけだ
気がつけばそそり立つ崖の下に倒れていた
伸び放題に伸びた髪 着ている物もボロボロだ
―俺は誰だ?
寒いとも思わずに雪の上に倒れている
ゆっくりと起き上がり崖の上を見上げる
―あの上から落ちたのか
唸り声 狼の黒く大きな瞳
どれほど考えても思い浮かぶのは それだけだった
彼は歩き始める
食べ物 着る物をなんとかしなければならなかった
その時・・・流れてきた血の匂いが彼の体を騒がせた
体が自然に動く
山賊か 余り人相の良くない男達が 女性を護る一行を襲っていた
彼が走る間にも一人二人と斬られ 女性の傍らには 年とった男しかいない
彼は落ちていた刀を拾い 自分がどう動いたかも覚えていないが―
気がつけば倒すべき敵は もう残っていなかった
いささか茫然としている彼に年配の男が声をかける
「おかげで瑠衣子様は無事でした 」
瑠衣子と呼ばれた女性は被り物についた薄布を払い顔を見せた
家族か契った男以外には 素顔を晒さない時代
顔を覗き見されてもはしたない
心がけが悪いと言われる時代である
それだけの感謝を示したと言うことか
怪訝げな彼に瑠衣子は言った
「お願いがあります わたくし達を京へ送ってはくれませぬか」
気高く美しいだけでなく 意志の強そうな瞳持つ姫であった
彼が記憶を失っている事を知ると「義仁(よしひと)」と言う名前と 荷物の中から体に合う着物を与えた
瑠衣子を赤子の頃より育てる年暈の男は 頼宜(よりのぶ)と言い 彼ら一行は主人からの急な知らせで 京へ向かうところであったと説明する
瑠衣子は入内が決まっているのであった
豊かな地方の豪族の娘が瑠衣子の母
京より仕事で来ていた男は縁を結び 次には美しく育った娘を利用し 更に出世しようという野心家であった
それと知って それでも 入内するということは大変な名誉
瑠衣子の母は喜んで娘を送り出した
その一行を賊が待構えていた
頼宜は身の危険も顧みず救いに駆け付けた彼に心を許し あれこれ世話を焼く
おかげで義仁と呼ばれるようになった男は 人から妙に思われないだけの知恵をつけていった
不思議な事には 彼らが進む先々に刺客が 賊が現れる
義仁の強さのお陰で無事退けてはいるが
寂しげに瑠衣子は笑う「わたくしが生きていては迷惑な人間が多くいる」
瑠衣子の父という男には他にも妻があり―そこにも娘がいた
自分の娘を入内させようとする女は―瑠衣子の死を企む
「帝が 義仁のようであればな―」とも瑠衣子は寂しく微笑うのである
取り敢えずはこの姫を京とやらに送り届けよう―自分が何者であるかは それからだと義仁と呼ばれるようになった男は思った
明日には京と思う地で一行は凄まじい襲撃に会う
僅か三人 しかも腕が立つのは義仁一人
それに戦(いくさ)でもするのか―という大勢で待ち伏せしていたのだ
さしもの義仁も焦った
その時 雪より白い狼が飛び出して―更にはその狼に群れが続いていた
賊達だけを襲い蹴散らすと 群れを従えた白い狼は義仁を見た
大きな黒い瞳で
そうして雪の中を整然と山の方へ消えて行った
その後 無事に京に着き 一族の寺を宿とした瑠衣子は 父と対面を果たしたが
入内に関しては 誰が何と言い聞かせようと断り抜き
自分が京に出る為に命を落とした人々の事を弔いたい―そう願って 遂には出家した
別な娘が入内したが
後年 尼となった瑠衣子を見 その事情を知った帝は 随分に残念がり かなりな間 還俗を勧めたそうだ
瑠衣子の引き止めにも応じず 京を去った義仁は 白い狼を捜す旅に出た
かの狼が自分の過去に繋がっている
自分の記憶を取り戻す旅に出た