Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

悪い男

2007-12-13 | 外国映画(や・ら・わ行)
★★★☆ 2001年/韓国 監督/キム・ギドク

「苦痛を乗り越えて」


<女子大生ソナに一目惚れしたヤクザのハンギ。その場で強引にキスし警官に取り押さえられたハンギは、ソナに罠をかけ売春宿へ売り飛ばしてしまう。それから、ハンギは毎夜客をとる彼女の姿をマジックミラーの中から見つめるのだった…>


本当にこの男は「悪い男」です。私はこの男が許せません。身勝手過ぎる。こんな身勝手な行為の向こうに純愛を感じ取れ、なんて無理です。これは原題も「悪い男」なんでしょうか。もしそうなら、その開き直りっぷりが腹立たしいくらいです。

とまあ、映画の物語を「自分のこととして語る」ことが適切なのか、こういう映画を見るとそのことを痛烈に感じずにはいられません。物語の中でソナは自分の運命を受け入れ、ハンギと生きていくことを選びます。ソナ本人がそれを望んだのだから、私がとやかく言うことではありません。頭では分かっていてもこのような作品の場合、物語を物語のまま受け取ることは困難を極めます。

例えば、「私もこんな人生が生きてみたい!」と思うシンデレラストーリーには、そこにそのまま自分を重ねられます。しかし、私もソナのようになりたいと思う女性はほとんどいないでしょう。ここに「物語を自分のこととして重ねる」という映画の見方以外に、別の見方があるのだと気づかされるのです。これは当たり前のことですが、やはりラブストーリーの体裁を取っている作品は女としてどうしても物語の中に自分を置いてしまいます。

だからこそ、こういう作品を見ることは鍛えられます。感情的にならずにひと呼吸置いて、作品全体を味わうことが試されます。すると、倒錯した愛の形にほんのりと甘美な味を見つけることができます。地獄まで落とされたハンギに愛を見いだすソナの心情に共鳴できる部分も生まれます。

あらすじだけ書いたら売れないエロ小説のようですが、キム・ギドクの手にかかると屈折した心理の向こうにゆらゆらと美しいものが揺れているような感覚に陥る。それは、やはり彼独特の映像の美しさの成せる技。キム・ギドク作品は私にとって修練の場のようなものです。もちろん、そこには大きな苦痛も伴うのだけれど。