Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

エレファント・マン

2007-12-24 | 外国映画(あ行)
★★★★☆ 1980年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ

「いかがわしい好奇心と崇高な好奇心」


一体人間の「好奇心」とは何なのだろうと考えずにはいられない。見世物小屋で働くエレファントマンと呼ばれる男、ジョン・メリックは、その奇っ怪なる顔を一度見てみたいという大衆の好奇心に晒されて生きている。もちろん、それは彼が望んでいることではない。しかし、彼に治療を施し人間らしい暮らしを提供するフレデリック博士だって、医者として珍しい症例に対する好奇心が少なからずあったから彼に近づいたんだろうし、このテーマに取り組んだデヴィッド・リンチにも異形の者に対する好奇心があるに違いない。

大衆の好奇心はジョンを傷つける。フレデリック博士の好奇心はジョンに人間らしい生き方を与える。そして、リンチの好奇心は我々に人間の尊厳とは何かを考えさせる。

私は人間にとって「好奇心」は非常に大事な要素だと思っている。恐ろしいのはむしろ「無関心」だと。だから、夜な夜なジョンの顔を覗きにやってくる人々よりも、彼と親しくなることで貴族社会での名誉を得ようとする人々の方が、人間的には奇異に感じられる。そして、化け物扱いしていた人物を紳士に仕立て上げて社交界で持ち上げる。その手のひらを返したような人間心理の恐ろしさ、大衆の愚かさを感じて仕方なかった。

デヴィッド・リンチ自身は異形の人々に対し、ひとかたならぬ愛情があるんだろうと思う。それは、一見してキワモノ趣味やゲテモノ趣味と取られかねない。しかし、実に印象的なシーンがある。それはフレデリック博士が初めて見世物小屋でジョンの顔を見たシーン。カメラはフレデリック博士に近づき、顔のアップ。そして彼はポロポロと涙を流す。まるで聖なるものや奇跡に出会った時に自然にあふれ出る涙のようなシークエンス。ここに私はリンチの愛を感じるのです。

また、冒頭人間の目がアップになるシーンもリンチ的で興味深い。「目のアップ」は、見る者と見られる者の関係性、つまり主体と客観の在り方についての投げかけだろうと思う。目をどんどんアップにすると、瞳の中に映っているものが見えてくる。見ていると思っているものが見られる者に取り込まれるような感覚。主体と客観の同一化とでも言おうか。

話が少し横道にそれるが、岡崎京子の漫画にも「目のアップ」が多用されているのを思い出す。後期の作品には嫌と言うほど目のアップが出てくる。「ヘルタースケルター」のラストシーンはほぼ「ブルーベルベット」なもので、彼女がリンチに影響されていたのは間違いないと思うのだが、岡崎作品にも常に出てくるテーマが「見られて生きることの生き難さ」であった。私は岡崎ファンで作中何度も見ていた、その目のモチーフはすでにリンチが2作目で出していたんだな、と思うと感慨深いものがある。

本作は、エレファントマンと呼ばれた男、ジョン・メリックが人間としての尊厳を手に入れようとして死んでいくという感動作である一方、リンチ独特の幻惑的な映像がカルトムービーとしてのテイストを生み出している。その匂い立ついかがわしさは、観客の好奇心をくすぐる。映画を見たいという衝動も大いなる好奇心の表れなんだろう。