Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

TAKESHIS'

2007-12-19 | 日本映画(た行)
★★★★★ 2005年/日本 監督/北野武

「たけしのイマジネーションの豊潤さを堪能」


もうひとりの自分だとか、入れ子構造だとか、そういうややこしいことばかり頭に残しながら見ると、この映画の面白さを味わうことは無理だと思う。先入観なく、最後まで見れば、実にわかりやすい構造だと思う。なんで、難解とか、実験的映画とか言われているのか。その方が私には不可解。

結局、「ある時点」から夢に突入して、最初の物語とは辻褄が合わなくなって来て、そこで物語全体を受け取るのを辞めてしまう人がいるみたいでね。それは実に残念なこと。私はずっとワクワクして見ましたよ。物語の辻褄なんていったんさておき、ただ身を委ねて見続ける。それは、映画を見る基本姿勢だろうと思う。それができない観客が多すぎるんでは?わかりやすい、説明過多の物語を見過ぎているから、これしきで「難解」とか言う。これじゃあ、北野武が気の毒だわい。

さて、映画に戻って。登場人物がたけしのイマジネーションの産物として夢の中で縦横無尽に遊び回っている様子は実に楽しい。冒頭寺島進を見て「あの人カッコイイわね」と言った京野ことみが夢の中では寺島進と付き合っているし、タクシー運転手にやさしいマネージャーの大杉漣は夢の中ではタクシー運転手になってる。(この関連性を見れば、どこから夢になったかは、一目瞭然なんだけどなあ)で、私のツボは岸本加世子ですね。この唐突に怒る様子が実におかしい。今度は、いつ出てくるんだろうと出没を期待しちゃった。

で、その登場人物がまた違う人物になって繋がってくるあたりが実に面白い。夢的破綻を見せつつも「夢の中の物語」はきちんとキープしている。このバランスが才能だなあとつくづく。そして、夢というのは自分の深層意識の産物ですから、この夢の中の「素人・北野武」の行動は、ビートたけしの自意識の表れとも言える。そうすると、何で死体の山をタクシーで通るんだろうとか、何で部屋で食べるのはナポリタンなんだろうとか、だんだん「夢判断」的面白さも湧いてくるんです。

そんでもって、そもそも冒頭の「素人・北野武」は実在しておらず、「有名人・ビートたけし」が見たドッペルゲンガーかもと思って、もう一度見ると、それはそれでまた楽しめたりもするんですよ。手帳に「ピエロさんへ」って書いてるでしょ。なるほどピエロね~と1人でうんうん唸ったりして。

というわけで、この夢の世界で繰り広げられる、たけし流イマジネーションの豊かさに触れ、この人にはどんどん映画を撮って欲しいなあと思うのでした。