Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

マグダレンの祈り

2007-12-25 | 外国映画(ま行)
★★★★ 2002年/イギリス・アイルランド 監督/ピーター・ミュラン

「怒りの目をむけよ」


舞台は1964年、アイルランドのダブリン。マグダレン修道院に収容された少女たちは、ふしだらな女と決めつけられ、修道院でを祈りと労働によって神に奉仕し“罪”を悔い改めるよう言われる。しかし、マグダレン修道院で行われているその内実は、実に無惨な非人道的行為であった。

ちょっと男の目を引いたら修道院送り。いくら男が悪くてもレイプされたら修道院送り。結婚前に出産したら赤ん坊を取り上げて修道院送り。こんなワケのわからない制度が1995年という、つい10年ほど前まで続いていたという事実に驚きを禁じ得ない。

この作品はヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞しているが、ヴェネチアのあるイタリアと言えば、カトリック信者が多い国。バチカン市国もある。そんな国でカトリックの権威を振りかざし、これほどまでに非人道的なふるまいを行い続けた修道院を告発する映画が賞を獲るなんて実に皮肉な話。ある意味カトリック自身がこの映画で告発されている内容を認めたという証しなのかも知れないが、私のようなひねくれ者からすれば賞を差し出すことで理解のあるフリをして、事を穏便に済ませようとしているのではないかと勘ぐってしまう。

それほどまでにこの作品で描写されている修道院の事実はひどい。建物の中にいる人物が神父や尼僧の格好だからそれとわかるものの、やっていることは刑務所の看守と同じ。性的行為を強要する神父、金勘定に狂った尼僧。その姿の何とおぞましいこと。少女たちへの服従の命令も目を覆うものばかりで、本当に聖職者のすることなのか、と怒りで胸がいっぱいになる。

しかし、一方なぜこんな横暴が続けられたのか。それは、女性たちを修道院に入れることに何の疑問も持たない親たちや社会が存在しているからに他ならない。作品自体はほとんど修道院の中の描写だが、この過酷な状況を黙認し続けた社会も断罪されるべき。

親たちが娘を修道院に入れる理由。それは、娘がふしだらと烙印を押されることを極度に恐れ、世間体を取り繕うためか、それともカトリック教義が教える処女性への狂信的思いからか。いずれにしろ、このような劣悪な環境に進んで娘を差し出す、そんなメンタリティがまかり通っている社会にも怒りを感じて仕方がない。

結局、ヒトラーへの忠誠もそうだし、穢れを取り去るための割礼もそうだが、外部の人間からはどう考えてもおかしいと思うことが、一つの社会の中で共通の妄信によってがんじがらめになると、内部にいる人間の心というのはこれほどまでに融通が利かなくなる。そのことを痛感する。

本作の冒頭、結婚式のパーティで実に不気味な歌が流れる。私自身は他国の文化を頭から否定するつもりは毛頭ないが、どう見ても結婚式で歌うにはふさわしくないような実に暗い歌詞の歌なのだ。しかも、神父が歌っている。後で調べてみると、これは近親相姦をして子供を産んだ女性の歌だとわかった。歌詞の中で土に埋めた、という文言が出てくるから、その子供を殺して埋めた、という意味だろうか。いずれにしろ、結婚式でこのような歌が歌われること自体、いかに「処女性」を重んじているかの表れではないだろうか。より過激な言葉を許していただけるのなら、女性に対する教会からの圧力的行為、脅迫とすら感じられた。今でもこの歌はアイルランドの結婚式で歌われるのだろうか…。

ラストシーン、見知らぬ尼僧に向けられるバーナデッドの怒りの目。それは目の前にいる尼僧に向けられたものではなく、修道院の存在を認め続けた全ての人々と社会に向けられたものだ。ぜひ全ての女性たちに見て欲しい。