Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

アラバマ物語

2008-03-11 | 外国映画(あ行)
★★★ 1962年/アメリカ 監督/ロバート・マリガン
「その正義はどこから来たのか」

1932年、アラバマ州。妻を亡くし幼い息子と娘を抱える弁護士フィンチ(グレゴリー・ペック)は、暴行事件で訴えられた黒人トムの弁護を引き受ける。だが黒人への偏見が強い町の人々はフィンチに冷たく当たるのだった…。

本作は黒人の人権問題とスカウトと言うひとりの少女の成長物語という、一見して合いづらいモチーフがしっかりと融合していることがすばらしい部分だと思う。「白人たちが黒人は悪いことをすると思ってしまう感性」と「スカウトがブーのことを怖いと思っている感性」は、見事にオーバーラップしている。それは、本質をしっかりと見ないことがもたらす恐怖である。物語の結末から見ると、その間違った見識を正しく取り戻すのは、大人の白人たちではなく、少女であるスカウトの方。だから、この作品はスカウトの物語として観た方が私にはしっくり来る。人権問題に焦点を当てながら本作を見ていると、どうも納得しがたい感情が残ってしまうのだ。

主人公アティカスの生き方を否定するつもりは毛頭なく、むしろ偏見に立ち向かった勇気と正義感にあふれた人物だと思う。しかしながら、視点をどんどん引いていって作品全体を眺めた時に感じるのは、白人特有の奢りなのだ。アティカスは未だに「アメリカの父」とも呼ばれるシンボリックな存在のようだが、現代アメリカ人(白人)が自己を投影してしまうような人物像に、私はいささか懐疑の念を禁じ得ない。(まあ、ちょっとひねくれた見方なのかも知れないが、笑)。

それは、アティカスの行為の源を「正義感」という概念に頼るのかどうか、という点に尽きると思う。本作の制作は1962年とある。キング牧師の有名な“I Have a Dream”の演説が1963年のことだから、黒人の人権運動が活発に行われる中、このような映画が制作されたこと自体は、意義あることなのだろう。しかしながら、時を経て、アティカスの行動と世界を牛耳ろうとする現代アメリカのメンタリティに共通点を見いだしてしまう。むしろ、アティカスにはトムを助けたい「個人的な理由」があった方がすっと心に馴染む。

同じテーマでアラバマが舞台である、先日レビューした「ロング・ウォーク・ホーム」の方が私は格段に好きだ。それは黒人差別という大きなテーマが「個」の物語へとしっかりシフトされているからだ。おそらく善人を絵に描いたようなアティカスという人物を素直に受け入れられないのは、今の私がアメリカ人が示す「正義」に首を傾げたくなることが多いからだ。

原作者は、ハーパー・リーという女性であり、自伝的物語として発表したのだけれども、グレゴリー・ペックという当代随一の人気俳優を起用したことで、アティカスは理想の父として祭りあげられる。それは、果たしてハーパー・リーの本意だったのだろうか。「善き白人像」を広く知らしめるために本作は作られたのか、と言う思いがチラリと頭をかすめる。このあたりのニュアンスは、原作を読めばわかることなのかも知れない。機会があればぜひ読んでみたいと思う。