Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

誰がために

2008-03-29 | 日本映画(た行)
★★★★☆ 2005年/日本 監督/日向寺太郎
「風景がこんなにも雄弁だなんて」

とても、とても、良かった。愛する人を少年に殺された男の物語、と聞いて、やりきれなさが前面に出た作品かと、手を引っ込めてしまう人もいるかも知れない。現に私もそう思って二の足を踏んでいた。でも、そうではなかった。今、何とも言い難い余韻に浸っている。

少年犯罪がテーマであると聞いた時に、誰もがその矛盾を糾弾したり、被害者家族の苦しみがスクリーンいっぱいに広がる作品だと予測するだろう。しかし、この作品にそのようなものはない。確かに矛盾も苦しみも少なからず表現されているが、それらの感情を埋めるかのように次々と目の前に現れるのは、とめどない「風景」なのだ。下町の商店街、路面電車、風見鶏を始めとする、文字通り「映像の風景」。そして、亜弥子が写す写真から読み取ることのできる登場人物の「心象風景」。

本作、この「写真」の物語への取り込み方が実にうまい。写真は、ストップモーションの世界。映像表現とは異なる次元のものだが、戦場カメラマンであった民郎が撮ったパレスチナの写真、写真館で撮影される記念写真、亜弥子が撮った風の写真が見事に映像と絡み合い、物語を彩っている。こうしてたくさんの風景が目の前を流れてゆく。そして、それらの風景が喜び、つらさ、悲しみ、憤りという人々の心模様を代弁している。「心を風景で伝える」。作品全体の穏やかなトーンとは反して、これは実に挑戦的な試みではないだろうか。

また、「風景」に重きを置いた作品と言うと、何だか退屈そうにも聞こえるが、全くそんなことはない。何より風景の映像そのものが大きな力を持っているのだ。また物語は、少年犯罪と被害者の家族という誰もが感情移入しやすいテーマであり、結局民郎は少年に復讐するのだろうか、という観客の興味はしっかりと最後まで引きつけられている。それに、日常生活の喜び、小さな幸福感がきちんと描かれている。特に民郎と亜弥子が徐々に心を通わせるようになるシーンはとても素敵で、彼女は死んでしまうんだということがわかっているから余計なのか、とても儚く美しい映像に見える。

そして、行く末を観客に委ねるラストシーンのすばらしさ。やり切れなさに包まれた民郎はあの後果たしてどうしたのだろうか。私は「あそこ」に入っていったと思いたい。様々な感情が渦巻くラストシーンだ。

さて、浅野忠信の演技を物足りなく思われる方がいるのもわかる。しかしそれは、愛する人を失ったのだから、狂わんばかりに泣いたり、怒りで自分を失いそうな演技を「して欲しい」という観客の勝手なお願いではなかろうか。日向時監督は、このあまりにも不条理な事件に巻き込まれた人々の心情をそのままストレートな演技表現で伝えようとはしていない。もし、そうしたいのなら、主演俳優は間違いなく違う人物を起用しただろうし、脚本に「民郎、そこで泣き崩れる」とたった一行のト書きを書けばいいことなのだ。どうか、目の前を流れる豊かな風景から多くの感情を読み取って欲しい。

最後にこの作品、音楽がとてもすばらしい。誰かと思ったら、矢野顕子でした。そうと知っていたらもっと早く観たのに!と激しく後悔。アッコちゃんは、これまであまり映画音楽を手がけてないと思う。おそらくそれは、元夫・坂本龍一がたくさんの映画音楽を手がけていて、何かと引き合いに出されるのを嫌ったからではないか(アーティストのプライドとして)、と個人的には思っている。坂本龍一のキャッチーでメロディアスな旋律が時に映画音楽としては主張が強く感じられるのに対し、アッコちゃんのピアノは、全ての風景に寄り添うように奏でられている。それが、この作品の表現スタイルと見事に合っている。作品と音楽との関係性がここまで完璧なものは久しぶりだと感じたぐらい良かった。