Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

悪い男

2007-12-13 | 外国映画(や・ら・わ行)
★★★☆ 2001年/韓国 監督/キム・ギドク

「苦痛を乗り越えて」


<女子大生ソナに一目惚れしたヤクザのハンギ。その場で強引にキスし警官に取り押さえられたハンギは、ソナに罠をかけ売春宿へ売り飛ばしてしまう。それから、ハンギは毎夜客をとる彼女の姿をマジックミラーの中から見つめるのだった…>


本当にこの男は「悪い男」です。私はこの男が許せません。身勝手過ぎる。こんな身勝手な行為の向こうに純愛を感じ取れ、なんて無理です。これは原題も「悪い男」なんでしょうか。もしそうなら、その開き直りっぷりが腹立たしいくらいです。

とまあ、映画の物語を「自分のこととして語る」ことが適切なのか、こういう映画を見るとそのことを痛烈に感じずにはいられません。物語の中でソナは自分の運命を受け入れ、ハンギと生きていくことを選びます。ソナ本人がそれを望んだのだから、私がとやかく言うことではありません。頭では分かっていてもこのような作品の場合、物語を物語のまま受け取ることは困難を極めます。

例えば、「私もこんな人生が生きてみたい!」と思うシンデレラストーリーには、そこにそのまま自分を重ねられます。しかし、私もソナのようになりたいと思う女性はほとんどいないでしょう。ここに「物語を自分のこととして重ねる」という映画の見方以外に、別の見方があるのだと気づかされるのです。これは当たり前のことですが、やはりラブストーリーの体裁を取っている作品は女としてどうしても物語の中に自分を置いてしまいます。

だからこそ、こういう作品を見ることは鍛えられます。感情的にならずにひと呼吸置いて、作品全体を味わうことが試されます。すると、倒錯した愛の形にほんのりと甘美な味を見つけることができます。地獄まで落とされたハンギに愛を見いだすソナの心情に共鳴できる部分も生まれます。

あらすじだけ書いたら売れないエロ小説のようですが、キム・ギドクの手にかかると屈折した心理の向こうにゆらゆらと美しいものが揺れているような感覚に陥る。それは、やはり彼独特の映像の美しさの成せる技。キム・ギドク作品は私にとって修練の場のようなものです。もちろん、そこには大きな苦痛も伴うのだけれど。

ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール

2007-12-12 | 外国映画(は行)
★★★★ 2001年/フランス 監督/イヴァン・アタル

「実に愛すべきおのろけ映画」


<スター女優シャルロット(シャルロット・ゲンズブール)を妻に持つスポーツ記者のイヴァン(イヴァン・アタル)は、街中でもプライバシーがないことに辟易の毎日。しかも明日からシャルロットは、プレイボーイ俳優ジョン(テレンス・スタンプ)と共演する新作映画の撮影でロンドン入り。嫉妬に悩むイヴァンだが…>


今作品は実の夫であるイヴァン・アタルが監督。作品の中でも夫の役。虚実ないまぜになって、マジなのか、映画としての架空の話なのか、その辺りを楽しむ軽やかなラブコメディ。見た後も微笑ましくて嬉しくなる映画です。

「妻が女優だと他の男とラブシーンがあるだろ?それでもアンタは平気なのか?」と通りすがりの男に絡まれるイヴァン。イヴァンはそいつに言い返します。「俺の妻で勃起するな!」とね。ところがどっこい、そのイヴァン自らが監督でありながら、何もかもさらけ出し、妻のあえぐ顔までスクリーンに登場する。つまり、この映画がそういう輩に対する答えなんでしょう。映画の中でどんなシーンを演じようと、俺はシャルロットを愛している!というね。おのろけもここまで来ると、微笑ましくて拍手したくなるほどです。

イヴァンは彼女と結婚した時からこういう質問を何度も受けているんでしょう。作品では女優の夫としての利益・不利益、嫉妬心、やっかみ、全てが暴露されています。この映画を作ったんだからもうそんな質問は終わりにしてくれ、と言わんばかり。イギリスでプレーボーイの男優と共演中。嫉妬に駆られてユーロスターに飛び乗るシーンはゲラゲラ笑ってしまいました。コメディとしても結構イケるんじゃないですか?噂話に一喜一憂し、猜疑心で右往左往する様子は、かなり笑えます。

しかも、妻が共演者のテレンス・スタンプとも一夜を共にしたのではないかとおぼしきシーンまであります。つまりそれは、女優の妻なんて共演者と何かあっても不思議じゃないさ、という自虐ネタとも言える。夫の気持ちがストレートに反映されているようで、実はその裏に込められた密かな思いもかいま見える。その二重構造がなかなか楽しい。

フライトアテンダントのコスプレあり、ドレス姿あり、カジュアルルックありとシャルロット・ゲンズブールのファッションもステキ。そして、イヴァンを誘惑する演劇セミナーの少女役がリュディヴィーヌ・サニエ 。フレンチ・ロリータ、と呼ばれたシャルロットも結婚したし、次はキミねって演出。大人の男を「私のベイビー」とリュディヴィーヌに呼ばせるあたり、昔のシャルロットをかなり意識してます。そういうお遊びもなかなか粋な映画です。

トゥモロー・ワールド

2007-12-11 | 外国映画(た行)
★★★★☆ 2006年/イギリス 監督/アルフォンソ・キュアロン

「長回しのカメラワークに度肝を抜かれる」


最初のカフェでの爆発シーン。あれがスイッチとなって、まるで自分も2027年にタイムスリップして、その場にポトンと落とされたような感覚の2時間だった。私はセオの同伴者となって、キーの赤ん坊を守るために戦い、無事に船に送り届けた。そんな充足感が体を満たしたのです。なぜ人類は子供が産まれなくなったの?ヒューマン・プロジェクトって一体何の団体なの?そのような説明は不要です。だって、まさに今私は2027年のその場にいるのですもの。

私がセオの同伴者になれたのは、臨場感あふれるカメラワークの賜。特にセオと共に戦火をくぐり抜けたあの長い長い時間はまるで息もできぬほどの高揚感だった。このシーン、リハーサルはどうしたのだろうか?あれだけの長い時間を1カットで撮影するというのは、製作スタッフの技術力と熱意がないと到底無理でしょう。

そして明暗のコントラストが効いた緑がかった映像は、近未来が示す「ハイテク」なイメージを一掃している。コンピュータの発達がもたらすハイテク設備などのメタリックな描写は、目の前の出来事を「他人事」のように感じさせてしまう欠点がある。しかし本作では、隔離された移民たちの泣き叫ぶ様子や収容所の無秩序な描写が繰り返され、キーのお腹に芽生えた命の「神性」がクローズアップされる。ラスト、静かな戦場に響く赤ん坊の泣き声がなんと厳かに聞こえたことか。

管理社会になっている、ロボットに支配されている、宇宙に住んでいる…etc。どんな未来予測よりも「子供が産まれない」というのは絶望的であり、かつ生々しい。そして、本作で私が何より評価したいのは、子供が産まれることの神秘性を宗教の手を借りずに見せきったこと。赤ん坊を抱えたキーが兵士の間を通り抜けるシーンは背筋がぞくぞくした。

それにしても、アレハンドロといいメキシコ出身の監督は、濃淡を効かせた映像づくりが実にうまい。かの地の照りつける暑い日差しと何か関係でもあるのだろうか。それとも彼らにくすぶる熱情のせいか。ジョン・レノンを思わせる平和主義者のマイケル・ケインやジュリアン・ムーアも好演。ビートルズやキング・クリムゾンなどを思わせるブリティッシュロックテイスト満載の音楽もカッコイイ。映像、音楽、語り口全てにおいてぴしっと世界観ができあがってるのがすばらしい。
映画館に見に行きたかったなあ!

未来世紀ブラジル

2007-12-10 | 外国映画(ま行)
★★★☆ 1985年/イギリス・アメリカ 監督/テリー・ギリアム

「昔はもっと過激だと感じたはずなのに」


私はSFファンタジーは見ないんだけど、近未来ものは好き。近未来を描く作品って、やっぱり監督の描きたいものや考え方が最も如実に出るんじゃないかな、と思うから。時代をどう皮肉るかっていうのは、今のその監督の考え方そのものだし、未来に何を見いだすかってのはその監督の願望が込められていると思う。

そういう意味ではこの作品にはテリー・ギリアムのブラックユーモアがふんだんにあふれていて、彼がとことん笑い飛ばしたいものに共鳴できれば楽しめる。例えば「書類と手続き」だったり「女性の整形願望」だったり。美術も近未来を描く場合は、監督のオリジナリティが存分に発揮されるところで、今作ではタイプライターや旧式のエレベーターなどレトロなものが効果的に扱われていて、見ていて楽しい。

暖房器具のモグリの修理屋ロバート・デニーロの唐突な登場がおかしい。そして、私がいちばん気になったのは「ダクト」。近未来はなんでこんなにダクトだらけなの?あのね、実はうちの小学生の息子も未来の工場の絵なんかを描くとやたらとでかいダクトが出てるのね。なんかダクトって男性のハートをつかむアイテムなんだろうか(笑)。まあ、そういう奇妙なシンボルが示すシュールな世界観を楽しむのがこの作品の醍醐味でしょう。

ただ、全体的に冗長で143分は長い。特に夢のシーンは今見るととってもチープに感じて、退屈。昔見た時は、もっと過激な作品だと感じたはずなんだけどなあ。近未来ものって、今ではもっとプロットが練られていたり、美術やセットも作り込まれた作品が続々とあるじゃないですか。1985年の作品だから、当時にしてみればかなり美術も凝ってると思うんですよ。でも、それでも途中で眠たくなってしまう自分が悲しかった。ラストシーンの驚きがなければ、この長さはつらかった。ラストシーンで救われました。

THE 有頂天ホテル

2007-12-09 | 日本映画(さ行)
★★★ 2005年/日本 監督/三谷幸喜

「ドタバタ劇にも群像劇にもなってない」


大晦日にホテルで起きた奇跡がコンセプトなんだろうが、豪華なおもちゃ箱をひっくり返して、適当に遊んでまた箱に戻しました、みたいな印象。で、一体どこが有頂天なんだろうか?タイトルからしてわからない。

まずこの作品は非常に登場人物が多い。ここまで多くさせるなら、とことん「あの人とあの人が!」という仕掛けやハプニングをもっともっと出してハチャメチャにしないと。この程度の繋がり具合なら、この手の作品の批評によくある「あの話はいらなかった」という意見が出ても当然だろう。「このネタはいる」「このネタはいらん」という意見そのものがまかり通ること自体、ひとつの作品としては大きな欠陥と言わざるを得ない。

大晦日の奇跡に絞ったドタバタ劇ならそれに徹すればいいものを、群像劇として心温まる物語にしようという無理矢理感も全体の統一感のなさの一因。ラストシーンはお客様を出迎える役所広司なわけで「ホテルはあなたの家、ホテルマンはあなたの家族」というコンセプトもこの作品には見受けられるが、これに関しては描き方が甘すぎる。これをメインコンセプトにして、「ホテルマンとゲスト」の衝突や対話、信頼などにスポットを当てれば、物語としてはもっと面白くなったと思う。伊東四朗、生瀬勝久、戸田恵子。この3名のホテルスタッフが全然お客様と絡んでこない。これはもったいない。

「好きなことをあきらめないで」というセリフや、鹿のかぶりもので笑いを取るなど、驚くほどベタな演出も多い。ボタンの掛け違いから次々と笑いを生みだすいつもの手法も、引っ張りすぎでつまらない。そうつまらないのだ。三谷幸喜ならもっとウィットに富んだ会話や笑いが作れるはずなのに、どうして?という悲しい声がぐるぐると頭を駆け回る。

結局ハチャメチャにできなかったのは、ハートウォーミングで上品な作品に仕上げたかったからだろう。(元ネタの『グランドホテル』ってそういう感じなんでしょうか?未見なのでわかりません)でも群像劇としてしっかり作り込むのには、登場人物が多すぎる。このジレンマに苦しんで生まれた作品と感じた。豪華役者陣勢ぞろいで舞台はホテルです!みたいな企画がまず最初にあったのかなあ。三谷幸喜は好きな作家だけにこの作品は非常にがっかり。見所は昔のワルに戻る瞬間の役所広司の演技。さすが、ドッペルゲンガー。

ぼくを葬る

2007-12-08 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2005年/フランス 監督/フランソワ・オゾン

「毒が一転、ピュアにすり替わる離れ業がいかにもオゾン」


パリでファッション・フォトグラファーとして忙しい日々を送っていたロマンは、ある日余命3ヶ月という衝撃の事実を告げられる。同棲中の恋人に別れを告げ、家族にも秘密にしたまま、自分の死と向かい合うことを決めたロマンだが、祖母のローラにだけは真実を話す…


あと3ヶ月の命と言われたら、どうします?たぶんね、やりたいことなんでもやっちゃうと思うんだ。とびきり贅沢なホテルに泊まって、最高級のフレンチでも食べて、昔の男みんなに会いに行くかも…。なんて思いっきり世俗的な私から見れば、ロマンの取った行動の何とも慎ましく純粋なこと。静かに静かに人生を終えるロマンの死に顔はこの上なく美しいです。

でもね、人生最後の最後に至って、ロマンの人生がとても孤独なことも哀れを誘う。ゲイだからって、こんなに孤独な死を選ばなければいけないのかしら?特にロマンの子を宿した夫婦が別れ際にロマンの病気をエイズと誤解しているようなことを言うシーンが切ない。死にゆくロマンを抱きしめてやる人が誰もいないなんて悲しすぎる。

とか思いつつも、美しいゲイの男の子がどんどん孤独の淵に追いやられていくその様にオゾンさんのサディストぶりを見いだしてしまう私。「まぼろし」のシャーロット・ランプリングもずいぶん追い詰められてましたから。いたぶるだけいたぶっておいて、美しく逝かせてあげるというのが何ともオゾンらしいです。

本作で一番盛り上がるのは、おばあちゃんジャンヌ・モローと過ごす一夜でしょう。「なぜ私にだけ打ち明けるの?」「だって、いちばん死に近いから」
出たー、オゾンの毒舌。でもね、生き生きと輝く周りの人々ではなく、祖母に共感を求めるという気持ちよくわかる。そして、そんなロマンを包み込むジャンヌ・モローの演技がすばらしいの。

それにしても、まず毒を吐かせておきながら、一転ピュアなシーンに仕立て上げてしまう、こういう離れ業ができるところが、さすがオゾンです。


シリアナ

2007-12-07 | 外国映画(さ行)
★★★★☆ 2005年/アメリカ 監督/スティーブン・ギャガン

「部外者は誰もいない」


アカデミー賞に輝く『トラフィック』のスタッフが集まり、アメリカ当局とアラブの王族、イスラム過激派テロリストの石油をめぐる黒い関係を描いた問題作。


物語を複数の地点で同時進行させ、観客は俯瞰で眺めながら問題の本質に迫る、という映画が非常に多くなっている。私がこの手法の映画で一番最初に出会ったのが、本作の監督が同じくスティーブン・ソダーバーグと作った「トラフィック」であった。その後非常にパーソナル物語を織り込みながら、社会派作品として磨き上げた「クラッシュ」、現在公開中のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの「バベル」や「21g」など、同時進行系の物語は増える一方である。

これらの映画に共通するのは、象徴的な悪は存在しているものの、とどのつまりみんな繋がっている、と気づかされることだろう。つまり我々観客も、このクソみたいな経済システムに少なからず荷担していると告発していることだ。同じく現在公開中の「ブラッド・ダイヤモンド」でも、ダイヤという「利権」を巡ってアフリカがずたずたにされていく様子が描かれている。その中でアフリカのある村人が「この村には石油が出なくて良かった」とつぶやくセリフが出てくる。つまり、資源が出れば「白人がむらがって食い物にされる」という意識は、中東やアフリカでは共通の認識、当たり前の考え方なわけである。

資源のない日本にいる我々にしてみれば、そのような発想そのものがショックであり、また「資源国」と「アメリカ」の丁々発止をただ指をくわえて眺めているだけの赤ん坊のような気分にさせられるばかりである。しかし、作品を通して見えてくるのは「部外者はいない」ということなのだ。日本だって、石油がないと生きていけない。アメリカの差し出す石油システムに乗っからないと、おこぼれはいただけない。つまり、CIAが石油産出国の王子の暗殺を企てる背景をたどれば、すぐに日本も荷担しているという図式を作ることは可能なのだ。

私も正直、中東問題なんて、わからないことだらけだ。しかし、問題の一端はこの映画を通してきちんと見えてくる。何も問題は解決されないし、どんでん返しがあるわけでもない、実に硬派な映画。でも、石油という巨大な資源がどこから来てどのように流れ、誰がそのシステムを握っているのか、というしごく根本的ことをまず知らないと、指をくわえて見ているだけからは一歩たりとも脱却できない。この映画はそのきっかけを与えてくれるに十分な非常に中身の濃い作品である。


大停電の夜に

2007-12-06 | 日本映画(た行)
★★★★☆ 2005年/日本 監督/源孝志

「向き合うことの大切さ」


きちんと目を見て話すことが何と難しい世の中になったもんでしょう。仕事の打ち合わせはメールでOK。家族の会話もテレビを付けっぱなしにしての「ながら」会話。停電ぐらいの大きな出来事でも起きない限り、じっくり相手と話すことが出来なくなった。そんなことをしみじみ感じさせてくれるいい映画です。今、引っ張りだこの脳博士・茂木さんも「人間は互いに目を見てしゃべるとドーパミンが出る」と言ってましたもん。

最初から最後まで停電ですから、この映画は撮影のセンスとテクニックが勝敗を決めるわけです。その点においては大勝利。特に、宇津井健と淡島千景夫婦の部屋の行灯のふんわりした明かり、そして田口トモロヲ・原田知世夫婦の青みがかったのマンションの明かり。いずれも光量が少なく、撮影は難しかったと思われますが、セザール賞受賞のフランス在住のカメラマン永田鉄男が実に雰囲気のある映像を作りだしています。

この作品は群像劇と言うほど、それぞれのカップルのドラマ性が深く描かれているわけではありません。そこが物足りないと感じる人もいるのかも知れませんが、私は決してそうは思わなかった。この映画のテーマは「向き合うこと」です。そこに気づくことができれば、もうそれでこの映画はお役御免なのです。「ゴメンネm(_ _)m」とメールで打てばいいんじゃない。やっぱり、会って、顔を見て、自分の声に出して言わなきゃいけない。そのことに気づけたらいい。あとは、どのカップルに感情移入できるかは人それぞれと言うところでしょう。

大切な人と一緒に見れば、きっと見終わった後に、真っ暗な部屋でキャンドルの明かりを灯しながら今までできなかった話ができるはず。「東京タワー」は、雰囲気だけで中身がない!と憤慨した源孝志監督でしたけど、今作では徹底した雰囲気作りの結果、きちんとメッセージが伝えられた。期待していなかったのですけど、キャンドルの明かりにすっかりやられました。素直になりたくなる一本です。

で、最後に豊川悦司ですが。最近、彼を起用する監督は、ファンのツボを知り尽くしているとしか思えないのです。今回はベーシストってんで、演奏シーンが出てくるんですけど、つまびく指先の何とまあ、きれいなこと。そして、指先からゆっくりカメラは引いて、ベースを抱く彼の全身が映る。あらあら、彼のふところに抱かれたウッドベース。まるで、女性を抱いているようじゃあ、あーりませんか!3ヶ月間ウッドベースを練習したらしく、とても様になってる。それでね、彼が「うん?」とか「ああ」とか「いや」とか、ものすごく短いセリフが多いんですけど、この低い声がたまんないんですよ。いやあ、こんな店なら毎日通います。

空中庭園

2007-12-05 | 日本映画(か行)
★★★★☆ 2005年/日本 監督/ 豊田利晃

「小泉今日子に本物の『狂気』を見る」


家族の崩壊を描く映画は多い。どの作品にも共通するのは、「みんな家族という役を演じている」ということ。いい妻、いい夫、いい娘、いい息子。演じることに疲れた彼らはいつかその仮面をはぎ取る。そのような物語を描いた作品は多く、もはや映画に教えられるまでもなく、家族とは仮想世界であること、夫の愛人がつぶやくように子どもの学芸会であることを、もうみんなわかっている。

マゾっ気のある浮気中の夫、不登校の娘、父親の愛人を家庭教師に招き入れる息子。もはやこれらの人物に特異性を感じることはなくなった。悲しいけれど、むしろ、家族の崩壊を描くステレオタイプな人物設定と言っていいだろう。が、それでもなお、この物語がきりきりと痛いのは、小泉今日子に本物の狂気が見えるからだ。いつのまにやら「演技派女優」と呼ばれていることに首を傾げていた私だったけど、本作の小泉今日子はその思いを吹っ飛ばす怪演ぶりだ。

特に彼女が吐く「死ね」というセリフは、何度も私の心をえぐった。仮想家族を壊したくない、ただそれだけを遂行するためにどんどん狂気を身にまとっていく絵里子という女の哀しさ。その元にあるのは母の愛に恵まれなかったトラウマだが、絵里子に一切の同情の余地を与えず、とことん歪んだ狂気を演じさせた豊田監督のサディスティックぶりがいい。

生まれ変わりを想像させるラストシーンも強烈だが、私はむしろ「こんなに崩壊した団地の我が家でも守ろうとしているのは『愛』があるから」と言う夫のセリフが印象的だった。果たしてそれは本心か?それとも妻と同じように仮想家族を壊さない決意が言わせた立て前か。観客により受け止め方の異なる言葉だと思う。

ともかく豊田監督の金属的で突き刺さるような演出は、巷にあふれるなまっちろい家族崩壊物語とは明らかに異なり強烈な痛さを伴うが、それを堂々と受け止めた小泉今日子の開き直りが実に印象的。そして、この際どい映画が地に足つけていられるのは、彼女の開き直りを真っ向から受け止める母役の大楠道代の演技力も大きい。ふたりが衝突するシーンは、実に恐ろしく、まばたきもできないほど引きつけられた。

私たちが好きだったこと

2007-12-04 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★ 1997年/日本 監督/松岡錠司

「いい人×いい人が裏目に」

ひょんなことから公団マンションに同居することになった男女4人の、友情と恋と夢のゆくえを描く。宮本輝の原作にほれこんだ岸谷五朗が、同じ劇団出身の盟友、寺脇康文とともに企画、主演した作品。


最近の作品はとりわけ顕著なんですが、宮本輝には「悪いヤツ」が一切出てこないんですよ。ほんとに、みんないい人ばっかりでね。まさに「性善説」とは、このことって作品が多い。この「私たちが好きだったこと」という作品も、偶然の行きがかりでひと部屋に暮らすようになった4人が、愛子という女性を医学部に入学させるため、みんなで協力し合って暮らしていくの。

あらすじだけ読むと、まるで偽善者の集まりみたいに見える話が、宮本輝の手にかかると、非常に純粋で、「人間って、誰かの役に立つために生きているんだよね」なんて気持ちにさせられちゃう。これぞ宮本マジック。

さて、「きらきらひかる」で松岡監督は、登場人物をみんないいヤツに見せてしまう、と書いたけど、この作品は、原作において既に登場人物がものすごくいい人なんですよね。つまり「いい人×いい人」。で、そのかけ算のせいなのか、心にひっかかりがなくて、さらーっと流れていくような出来映えになっている。それが、静謐な雰囲気を出していると言えばそうなんだけど、物足りなくもある。

それと日頃から共に演劇活動をやっている岸谷五朗と寺島康文が主役の男ふたりなので、内輪でやってる感じが否めない。この物語は男女4人が主人公で、ほぼそれ以外の役者は出てこない。ほとんど登場人物がこれだけってなると、どうしても人間関係において少し摩擦があったり、思いの行き違いが出てくるところこそが面白みになるはず。それがどうも内輪ノリっぽい雰囲気が邪魔をしている。

男女4人の物語で言うと、大谷健太郎監督の「アベック モン マリ」や「とらばいゆ」という作品があるけど、おんなじミニマム感でもこちらの方が、心のすれ違いで起きるスリルが堪能できる。それは、やっぱり配役に追うところも大きいのだ。それから、岸谷五朗なんですがね。切なさが伝わって来ない。彼は愛子を愛しているからこそ、他の男に手放すんですよ。だったら、もっと苦悩があるはずなんだけどなあ。

そんな中、愛子という女性を演じている夏川結衣の存在感が際だっている。夏川結衣は、表面的には「いい人」に見えるけど、その向こうに何か別のものを抱えている、そんな役どころがうまいですね。見た目は清純な感じだけど、心の奥深くに何かを秘めている芯の強さを感じる。そんな彼女の雰囲気が愛子という役にぴったりハマっていた。


小学校の発表会

2007-12-03 | 子育て&自然の生き物
土曜日に発表会がありました。
(昔は、「学芸会」と言ったような気がする)

息子の学年は7人。
「11匹のねこ」という絵本の話を
7人にアレンジして発表していました。
しかも、ねこをとらに変えたようです。
息子はシャイな方なので、親としてはセリフを言うときも
もじもじしているのが気になって、気になって

毎年そうなのですが、
目を見張るような演技をする子どもがちらほらいるんですよ~
しかも、そういう子に限って、日頃目立たない大人しい子だったりするの。
ああ、これはすごい才能だな~と感心しちゃって、
絶対、この子は演劇の道に進むべきだって!と親でもないのに力入ってしまいます
とにかく役になりきってるのね、そして、堂々としている。
でね、その子がセリフを言うと、自然に笑いが起きる。
ただ、しゃべってるだけなの。別に笑わせようと思ってしゃべってない。
でも、抑揚の付け方とか、セリフを言う時のちょっとした仕草とかが面白い。
そういう子供が毎年3,4人はいますね。
あれは、天性のものだから、活かさなきゃ、もったいない!
私が「劇団ひまわり」のマネージャーだったら絶対スカウトするんだけどなあ。


話変わって、最近幼稚園で「かぐや姫」とかすると、
お姫様が3人、おじいさんが3人、おばあさんが3人とかいるらしいですね…
つまり役の優劣を付けると親から文句が出るとか。
まったく、それってどうなのよ!と思いません?
この辺は子どもが少ないので、その他大勢の役には決してならないんですけども
それでも、脇役あってこその主役じゃないですか。
劇がむちゃくちゃにならないのかな~。





バタフライ・エフェクト

2007-12-02 | 外国映画(は行)
★★★★ 2004年/アメリカ 監督/エリック・ブレス&マッキー・J・グラバー

「せっかくのアイデアがただの『装置』になってしまったのが残念」


(ネタバレですのでご注意下さい)
記憶障害を持つ男が主人公のサスペンス。一時的な記憶の欠落というシチュエーションが非常にスリリングで、映画の前半は謎に次ぐ謎。後半はその謎解きをしようと観客も頭をフル回転させなければならない。記憶をいじるサスペンスと言えばまず思い浮かべるのが「メメント」だが、「メメント」よりも謎は早く解けるし、構成としてはわかりやすい。記憶障害に加え、過去と未来を行ったり来たりするタイムトリップものの面白さも加え、何だか非常に盛りだくさんな映画である。

しかし、個人的にどうしても気になるのは、カオス理論が、この映画の比喩として合っているのか、と言う根本的な違和感。バタフライ効果とは「北京で蝶が飛ぶと、ニューヨークで嵐が起きる」と例えられるように、事象の因果関係の話である。ちょっとした小さな誤差が大きな変化を生み出す、と言う。でもね、過去に戻ってその都度言動を変えれば、未来が変わるのは当たり前。もし、カオス理論を引っ張り出すなら、エヴァンが過去で行った出来事が未来においては、もっと劇的な変化になってないとおかしい。でも、彼が過去に戻って何をしても、彼を取り巻くのは、いつも同じ顔ぶれ。そこがすごくご都合主義な展開に感じちゃうのだ。

とまあ、やはり「構造そのもの」に凝った映画と言うのは、結局何だかんだとちゃちゃを入れたくなるもの。しかも、この結末は、いかがなものか。こんなに何度もいろんな人の人生を変えておいて、これはいけません。結局このラストの彼の行いで、「過去を変えられる」という奇跡を利用したファンタジー映画になってしまった。しかも、記憶が欠落したところしか戻れないというルールがあるように提示していながら、ラストの過去帰りは昔のビデオを見ながら行ってしまう。これは、おかしい。前半部の謎めいた展開は、かなり面白かったし、最初の「過去帰り」は、そのこと自体が何なのか分からなくて、かなりサスペンスフルな展開だったのに、もったいない。

彼が過去において最も悔いているのは、郵便箱の事件でしょ。だったら、それを止めに行った後の人生で物語は終わって欲しかった。その方がよほど、人間の業の深さや宿命というものを表現できたはずなのに。一体、最も表現したかったものは、何だったのか。

記憶の欠落や精神疾患という非常にシリアスな問題を扱っておきながら、とどのつまりそれを単なる過去戻りの「装置」としてしか描いていないことが不満。子どもの頃エヴァンが殺人を連想させる絵を描いて教師を驚かせているシーンが出てくるように、記憶障害を持つ彼自身に観客の興味を惹きつけておきながら、その辺は放ったらかし。結局、このちぐはぐ感がアイデアの一人歩き、というイメージを与えてしまうのだ。

とか文句いいつつも、やっぱりこういう「記憶をいじる」作品って、見てしまうのよねえ。やっぱり、人間の脳って、とってもミステリアスですもん。

失楽園

2007-12-01 | 日本映画(さ行)
★★★★ 1997年/日本 監督/森田芳光

「ちゃんと森田芳光の映画になっている」



今さら「失楽園」のレビューかよ、と思われるかも知れないが、今年「愛の流刑地」なるダメダメ映画を見に行ってしまったものだから、つい見比べ鑑賞のようなつもりで見てしまった。そしたら、何とこの映画、しっかり森田芳光作品として堪能できたので、驚いた。まあ、「愛ルケ」ががっかりしすぎたからかも知れないんだけど。

だって、この作品には「中年の悶え」がちゃんとあるもの。堂々と連絡を交わせない二人が互いの電話を待つシーンなどにふたりのやきもきした気持ちが実にうまく表れていた。やはり、それは映画一筋の森田監督だから作り出せる映像であったからに他ならない。

会社の隅でこそこそ電話をする久木を階段の上から捕らえた映像や、ふたりの隠れ家に向かう久木が買い物袋をぶらさげて坂の向こうから現れるシーンなどで感じる、いい年をした男が女に夢中になっている可笑しさやむなしさ。それは、ちょっとしたアングルの違いや、人物の配置なんです。やはり、セリフではなく、画面が醸し出す余白とか行間のようなものを体感できてこそ、映画。この「失楽園」には、これまでの森田監督の作品で表現されてきた「間」がきちんと存在している。

それから、ラブシーンが非常にいやらしい。下品な言葉で恐縮ですが、この作品はいやらしくないと、何もかもが根底から覆ってしまう。だから、できる限りいやらしいラブシーンでなければならない。ふたりが交わっている場面よりも、黒木瞳の表情だけをずっと追いかけるシーンの何といやらしいこと。あの行為を思い出して物思いにふける役所広司の表情の何といやらしいこと。

久木が家庭にいる時の様子、凜子が家庭にいる時の様子、それぞれを実に冷えた描写で描いているのも、森田監督ならでは。夫の浮気に気づきながらも何も言わない妻の背中、妻に異様な執着を抱く凜子の夫。心の冷気みたいなものが寒々しく画面を通り抜ける。こういった家族間の冷えた心理描写って、森田監督はうまいです。しかも、これがあるからこそ、二人は逃避行に出るのだと納得できる。原作の結末そのものは、なんでそうなんねん、というお粗末な展開ですが、それをさっ引いてもきちんと森田芳光の映画になっているではないか、と改めて感心した次第。