田中角栄が首相に就いた時、昭和の宰相、あるいはコンピューター付きブルドーザーと称された。小学校しか卒出ていない、新潟で生まれ貧しかった少年が、夢を描き努力を重ねて日本最高の権力得たのだ。田中首相は官僚を手懐け、上手に動かした。そのことは同時に、天下国家を語っていたスーパーエリート組織である官僚に衝撃を与え、その方向性を根底から変えることになった。官僚は頭が良いだけに気がついたのだ。自分達は学力において最優秀でありながら、実は現実的な指導力や実行力が学力に相応していないことに。そこから官僚は、自らの権力や利益を増大させるためにひた走る既得権維持管理組織へと変貌した。
次の大きな転機は東西冷戦構造の終焉、バブルの崩壊だった。この同時に起きた二つの世界的な大変革が、官僚の果たすべき役割を決定的に奪うこととなった。
官僚を語る時、「教科書」、「お勉強」という言葉が、象徴的でもあり、実態を表すにふさわしい。日本が、戦後の焼け跡から立ち上がり復興する上では、欧米を教科書としてキャッチアップする官僚の力がいかんなく発揮された。指導力や創造性を問われることはなかった。いち早く情報をキャッチして、それを企業や国民に伝え、予算をつけて普及させればよかった。
私の家内が知識型の人間なのでよく分かるが、知識エリートはミクロの世界の勝者で、マクロの世界ではどでかい穴が有る。つまり、どうでもよいへ理屈にはめちゃくちゃ強いが、基本的で非常に重要な問題において対応できない。言ってみれば、小さな領域で勝っても、大きな領域で負けているのだ。結果として、全くうまくいかない。 また、優先順位という概念が希薄である。ど近眼なので物事の大きさの比較が出来ない。そこで、簡単な問題だけ扱うことになり、時代の変化に対応できない。さらに言えば、知識エリートは経験も、バランス感覚も無い。無い無いづくしで、有るのは仮想情報の知識だけという、どうしようもない存在が知識エリートたる官僚である。