安倍首相の伊勢神宮参拝が如何に憲法違反であるか、さらには歴史を冒涜するものであるか、検証してみました。そもそも太陽神は、本来は、五穀豊穣、生産を願い、収穫に感謝するこころの顕れです。ところが、こうした、いわば人間のこころ・信仰心を天皇制構築に利用したのです。王政復古の大号令のなかで「諸事神武創業の始にもとづき」が、そもそもの始まりです。
安倍首相の言動は、こうした歴史に逆戻りする行為と言わなければなりません。パワースポットを求めて参拝する民衆の本来の信仰心に戻すべきです。国家が関与すべきものではありません。そのことを確認しておきながら、以下、天皇の伊勢神宮参拝の歴史を検証してみたいと思います。そして、そのことの意味について考えてみたいと思います。
この伊勢参拝の問題は、イデオロギーの問題であると同時に、国民の命と暮らしの問題でもある訳です。戦争に必要はことは人間であると同時にカネ・税金・軍事費です。これは庶民がつくりだす最高の価値と言えます。戦争は、こうした命と税金・血税を天皇のために捧げるということを前提にして論じなければならないと思います。
最後に伊勢神宮に天皇が参拝した事例を紹介しておきます。
それをみると、為政者にしてみると、庶民とは違って、伊勢神宮は戦勝祈願の施設だった。その戦争とはどういう戦争だったか、検討されなければなりません。
しかも、明治期まで、天皇の伊勢参拝は、有り得ない、タブーだったようです。それが親祭されるようになったのは、庶民に知られていなかった天皇睦仁を普及させること、東京遷都に反対していた勢力対策であったことなど、政治的なものでした。おそらく睦仁天皇も日清日露戦争祈願で参拝したのではないか。裕仁天皇については、文字通り戦争祈願だったのです。
そのなかで、裕仁天皇の伊勢神宮観は面白い。ホンネとタテマエを使い分けているとことろは許せません。伊勢神宮がどれだけの人間を殺したか、そのことに尽きるのです。ここに戦争責任を回避した天皇裕仁の不道徳ぶりが浮き彫りになります。もう一つは女神であるアマテラスと一体となる天皇裕仁という問題も、生々しい限りです。
ま、天皇の代替わりの大嘗祭の時の秘儀を思えば、納得できるところですが、それにしても、生産と殺人を一体的に考えて殺人を正当化するのは許せません。こういう神道のゴマカシを流布させることについて、国民的議論で克服できた時、すなわち歴史を国民のものにした時、民主主義が貫徹する社会が到来したと言えるのでないでしょうか。
竹澤秀一『伊勢神宮と天皇の謎』(文春新書13年3月刊)より
「日本書紀」には壬申の乱の途上、天武が伊勢を遥拝して必勝祈願をしたとある。…天武天皇がかかわる前から伊勢神宮は存在していたが、壬申の乱に勝利した天武はこれを皇祖神をまつる場としてあらたに位置づけた。それは伊勢神宮の「再スタート」というべきものだった…
天正十三年三月、秀吉の紀州攻めに際して天皇は、伊勢神宮に必勝祈願をするよう命じるなどしている。
明治二年三月十二日、天皇が史上初の伊勢神宮参拝をしたといわれている(じつは先行事例があし、持統天皇が伊勢神宮をみずからまつったとみられる)。…明治以前、天皇自身が伊勢神宮を訪れることは、持統以外はなかった。伊勢神宮に天皇自身が足を踏み入れることはタブーとされていたのである。
女神アマテラスと昭和天皇
天皇は、常に御鏡をいつきまつり給ひ、大神の御心をもって御心とし、大神と御一体とならせ給ふのである。
「御鏡」は皇祖アマテラスの御神体。「大神」はもちろん皇祖アマテラスである。この文はいつごろのものとお思いになるだろうか?昭和十二年に文部省によって編集された『国体の本義』の一節である。その二年前には天皇機関説を唱えた法学者・美濃部達吉の著作が発禁処分となっていた。この『国体の本義』は全国の学校に配布され、また大ベストセラーになった国民必読の書であった。「天皇は(中略)大神と御一体とならせ給ふ」ことが真面目に信じられていたのは、じつは、つい昨日のことなのだ。まして持続の場合は、女帝が女神アマテラスと一体となるのにたいし、昭和天皇の場合は、男性天皇が女神アマテラスと一体だというのであるから、その呪術的様相は持統の上をゆくとすらいえる。
明治天皇の伊勢神宮参拝
伊勢神宮にとって明治維新は、天皇による神宮参拝からはしまった。天皇みずから伊勢神宮に参拝するのはタブーとされ、すでに述べたように、持続以来の画期的な出来事だった。もっとも「日本書紀」に持続伊勢行幸の記事はあるものの、神宮にみずから参拝したとまでは書かれていない。しかしそれは伏せているだけで、前節で述べたように、実際には親祭していたとみられるのである。宗教学・村上重良、古代女性史・倉塚嘩子も同様の見解だ。明治天皇の神宮参拝はいったい、どういう意図でなされたのだろうか?これを挙行するに当だって政府が依拠したのは、「初代」神武が皇祖神をまつったという「日本書紀」の記述である(「神武天皇」四年)。
(前略)詔(ことよさ)して日く、「我が皇祖(みおや)の霊(みたま)、天(あめ)より降(くだり)り鑒(み)て、朕(わ)が躬(み)を光(てら)し助けたまへり。(中略)以て天神(あまつかみ)を郊祀(まつ)りて、用(も)て大孝(おやにしたがふこと)を申(の)べたまふべし」とのたまふ。乃ち霊時(まつりのには)を鳥見山(とみのやま)の中に立てて、(中略)用て皇祖天神を祭りたまふ。
「皇祖天神」の名は明示されていないが、この段階ではアマテラスはまだ成立していない(前掲拙著・終章第1節)。したがってここにいう「皇祖天神」とは、アマテラスに先行する国家神タカミムスヒである。だがそのようなことは一切問題とせず―そもそもそのような認識はなく、アマテラスと信じ切っていたであろう-、神武が皇祖神をみすがら祭った(=親祭)という点を重視してこれにならい、明治天皇の伊勢神宮参拝となったのであった。そこには、神宮にまつられたアマテラスと明治天皇をむすびつけると同時に、明治天皇を「初代」神武になぞらえ、これを定着させる意図があった。
「紀元二千六百年」の伊勢神宮親祭
昭和十五年(一九四〇年)は「神武創業」から二六〇〇にあたる「紀元二千六百年」とされ、国を挙げて盛大な祝賀となった。この年の六月、昭和天皇は伊勢神宮を親祭した。午前に外宮を、午後に内宮を参拝したが、その時刻は「全国民黙祷時間」として午前十一時十二分、午後一時五十四分と予め周知された。この時、特別にラジオから時報がながれ、各地のサイレンが鳴った。これにあわせて全国民は一斉に伊勢の方角にむかい、皇祖アマテラスに一分間の黙祷をささげたのである。分刻みの時間設定が極度の緊張を強いるのはいうまでもないだろう。切りのいい時刻設定の場合、その時刻に合わせて、天皇と国民が一緒に獣祷する意味合いになる。ところが、十分ではなく十二分、五十分ではなく五十四分という設定の場合、天皇の参拝行為に従って全国民が獣祷する意味合いが濃厚に出てくる。〈天皇-臣民〉という主従関係を明確化する演出がそこにあったとみられる。「贅沢は敵」「遊楽旅行廃止」が叫ばれる時世であったが、神宮参拝だけは大いに奨励された。この年、皇祖アマテラスをまつる伊勢神宮の参拝者は八百万人、初代神武をまつる橿原神宮は千万人を数えたという。
太平洋戦争下の伊勢神宮親祭
対米開戦の火ぶたを切った真珠湾攻撃から一年が経過していた昭和十七年十二月、昭和天皇は伊勢神宮を親祭しだ。皇祖アマテラスに戦勝を祈願したのである。この時、随行していた総理大臣・東条英機は、親祭を終えて板垣御門から出てきた天皇を目にし、感涙にむせんだという(文芸評論家・福田和也)。昭和天皇は戦後間もなく、その時の伊勢親祭をつぎのように振りかえっている(元侍従次長・木下道雄)。
「戦時後半天候常に我れに幸いせざりしは、非科学的の考え方ながら、伊勢神宮の御援けなかりしが故なりと思う。神宮は軍の神にはあらず平和の神なり。しかるに戦勝祈願をしたり何かしたので御怒りになったのではないか」
国家の最高神に戦勝祈願をするのは、戦時中なら当たり前といえばそれまでだが、女神アマテラスに天皇自ら戦勝を祈願していたという生々しい現実には、やはり驚きに似た感慨を覚える。
それにしても、昭和十七年といえば、「団塊世代」が産声を発しはじめるわずか四~五年前のこと。つい昨日のことのようにも感じられるのである。そして戦争終結から三ヵ月たった昭和二十年十一月、昭和天皇は伊勢神宮を親祭した。皇祖アマテラスに敗戦を奉告し、詫びるために―。
(引用ここまで)
千田稔『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』(中公新書05年1月刊)より
天皇親拝
明治をむかえて、伊勢神宮にとってのもっとも大きい変化といってよいのは、天皇がみずから神宮に参拝する天皇親拝(親謁)がはじまったことである。なぜ皇祖神をまつる神宮に天皇が参拝することが、長い歴史のなかで明治まで行われることがなかったのであろうか。それはアマテラスの御霊代である神鏡をまつる賢所が宮中にあり、天皇は毎朝の遥拝をそこで行ったためである。明治になってからも宮城に賢所がつくられたが、神殿・皇霊殿とを合わせて宮中三殿とよばれ、吹上御所の南に位置している。明治天皇の神宮親拝の意図するところは、伊勢神宮が国家の宗教の中枢となることによって、天皇みずからが参拝することが、その象徴的な宗教行事であると国民に広く知らしめることにあった。東アジア諸国のなかで国家元首が国家宗教と密接な関係をもつ場で祭祀を行うことによって、帝国の存在をアピールする意味も多分にあったと想像できる。この天皇親拝は明治二年(一八六九)三月十二日になされた。明治天皇の京都から東京への行幸は明治元年の九月であるが、このときは東海道の関(三重県亀山市)で神宮に遥拝している。この間の事情を少し年表風に追っておこう。江戸城が明けわたされるのが明治元年四月十一日。七月十七日に江戸が東京と改称され、明治天皇の即位式は八月二十七日に行われた。この即位式には地球儀がおかれるという象徴的な出来事があった。万国のなかで中心的位置を占めようとする維新政府の新しい工夫であったが、それは従来中国皇帝の即位式をモデルにしていたことから脱攻しようとする意図もあった。九月八日明治と改元 一世一元つまり一人の天皇の代に一つの元号とする制度が定められた。そして九月二十日、天皇は京都から東京に向かう。…
明治天皇の伊勢神宮親拝は四度なされている。第一回伊勢親拝においては、参宮決定後の二月、道筋の仏教寺院・仏像を取り払い、また仏具・仏画の商売を禁止すべき布達があった。そこには神権国家としての整備を過度に意識したものがあると受けとることができる。明治天皇の神宮親拝によって、神宮は直接的に国家権力と密接な関係をもつことはできたが、同時に神宮側にとってはむずかしい問題も生じた。それは明治四年(一八七一)から七年にかけて神宮を皇居内に遷座することが一部の人たちによって主張された、いわゆる「神宮御動座問題」である。議論は紆余曲折をたどるが、神宮を皇居に遷すという主張は王政復古によって天皇と国家神とのつながりを明快に示そうとするものであった。
天皇の終戦奉告
昭和二十年(一九四五)八月十五日、昭和天皇の「終戦」の詔書放送があって約三ヵ月後の十一月十二日、天皇は皇居から宇治山田市に向かい伊勢神宮への「終戦奉告」の行幸に出た。天皇は新しく制定された天皇御服に大勲位副章をつけて、午前七時過ぎに皇居を御料車で出発した。天皇御服が新しくつくられたのは、これまでの陸軍式および海軍式であったのを改めたことによる。東京駅までの御料車には、慣例であったサイドカーによる警護はなかった。沿道に配された警察官も少数で簡素な行幸であった。東京駅で幣原喜重郎首相(在任一九四五年十月-四六年五月)らの見送りをうけ、八時にお召列車は東海道本線を西に向かった。車窓から見える風景はことごとく荒涼たる焼け野原であった。…
昭和天皇の伊勢神宮への「終戦奉告」が、右にみた十二月十五日の神道指令、同月二十八日の宗教団体法廃止の前になされたことは、日程のうえで配慮された印象をもつ。「終戦奉告」がなされた十一月の時点ではなお国家神道は存続していたのであって、天皇は国家元首として国家神道の象徴的存在であった伊勢神宮に親拝したことになる。さかのぼって昭和十五年(一九四〇)六月九日に天皇は戦勝祈願のために橿原神宮と伊勢神宮に親拝しているので、国家神道と戦争との関連性は首尾一貫している。そして昭和天皇の「終戦奉告」の後、一ヵ月余りで国家神道の実体がなくなったとみれば、「終戦奉告」の日程は、関係者によって熟慮されたとみることができる。終戦直後からのGHQによる占領体制下で、伊勢神宮はかつてない危機的な状況下にあったと思われるが、そのときの状況を具体的に記録した史料はない。(引用ここまで)
詳しく知りたい方は、上記の書籍をお読みください。大変勉強になりました。
そこで、これまで伊勢神宮関係の記事をご覧ください。
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