愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

天皇の伊勢神宮親祭にみる不道徳ぶりは裕仁天皇でさえ認めること!庶民の信仰心を統治に利用するな!

2014-01-07 | 伊勢神宮

安倍首相の伊勢神宮参拝が如何に憲法違反であるか、さらには歴史を冒涜するものであるか、検証してみました。そもそも太陽神は、本来は、五穀豊穣、生産を願い、収穫に感謝するこころの顕れです。ところが、こうした、いわば人間のこころ・信仰心を天皇制構築に利用したのです。王政復古の大号令のなかで「諸事神武創業の始にもとづき」が、そもそもの始まりです。

安倍首相の言動は、こうした歴史に逆戻りする行為と言わなければなりません。パワースポットを求めて参拝する民衆の本来の信仰心に戻すべきです。国家が関与すべきものではありません。そのことを確認しておきながら、以下、天皇の伊勢神宮参拝の歴史を検証してみたいと思います。そして、そのことの意味について考えてみたいと思います。

この伊勢参拝の問題は、イデオロギーの問題であると同時に、国民の命と暮らしの問題でもある訳です。戦争に必要はことは人間であると同時にカネ・税金・軍事費です。これは庶民がつくりだす最高の価値と言えます。戦争は、こうした命と税金・血税を天皇のために捧げるということを前提にして論じなければならないと思います。

最後に伊勢神宮に天皇が参拝した事例を紹介しておきます。

それをみると、為政者にしてみると、庶民とは違って、伊勢神宮は戦勝祈願の施設だった。その戦争とはどういう戦争だったか、検討されなければなりません。

しかも、明治期まで、天皇の伊勢参拝は、有り得ない、タブーだったようです。それが親祭されるようになったのは、庶民に知られていなかった天皇睦仁を普及させること、東京遷都に反対していた勢力対策であったことなど、政治的なものでした。おそらく睦仁天皇も日清日露戦争祈願で参拝したのではないか。裕仁天皇については、文字通り戦争祈願だったのです。

そのなかで、裕仁天皇の伊勢神宮観は面白い。ホンネとタテマエを使い分けているとことろは許せません。伊勢神宮がどれだけの人間を殺したか、そのことに尽きるのです。ここに戦争責任を回避した天皇裕仁の不道徳ぶりが浮き彫りになります。もう一つは女神であるアマテラスと一体となる天皇裕仁という問題も、生々しい限りです。

ま、天皇の代替わりの大嘗祭の時の秘儀を思えば、納得できるところですが、それにしても、生産と殺人を一体的に考えて殺人を正当化するのは許せません。こういう神道のゴマカシを流布させることについて、国民的議論で克服できた時、すなわち歴史を国民のものにした時、民主主義が貫徹する社会が到来したと言えるのでないでしょうか。

竹澤秀一『伊勢神宮と天皇の謎』(文春新書13年3月刊)より

「日本書紀」には壬申の乱の途上、天武が伊勢を遥拝して必勝祈願をしたとある。…天武天皇がかかわる前から伊勢神宮は存在していたが、壬申の乱に勝利した天武はこれを皇祖神をまつる場としてあらたに位置づけた。それは伊勢神宮の「再スタート」というべきものだった…

天正十三年三月、秀吉の紀州攻めに際して天皇は、伊勢神宮に必勝祈願をするよう命じるなどしている。

明治二年三月十二日、天皇が史上初の伊勢神宮参拝をしたといわれている(じつは先行事例があし、持統天皇が伊勢神宮をみずからまつったとみられる)。…明治以前、天皇自身が伊勢神宮を訪れることは、持統以外はなかった。伊勢神宮に天皇自身が足を踏み入れることはタブーとされていたのである。

女神アマテラスと昭和天皇

天皇は、常に御鏡をいつきまつり給ひ、大神の御心をもって御心とし、大神と御一体とならせ給ふのである。

「御鏡」は皇祖アマテラスの御神体。「大神」はもちろん皇祖アマテラスである。この文はいつごろのものとお思いになるだろうか?昭和十二年に文部省によって編集された『国体の本義』の一節である。その二年前には天皇機関説を唱えた法学者・美濃部達吉の著作が発禁処分となっていた。この『国体の本義』は全国の学校に配布され、また大ベストセラーになった国民必読の書であった。「天皇は(中略)大神と御一体とならせ給ふ」ことが真面目に信じられていたのは、じつは、つい昨日のことなのだ。まして持続の場合は、女帝が女神アマテラスと一体となるのにたいし、昭和天皇の場合は、男性天皇が女神アマテラスと一体だというのであるから、その呪術的様相は持統の上をゆくとすらいえる。

明治天皇の伊勢神宮参拝

伊勢神宮にとって明治維新は、天皇による神宮参拝からはしまった。天皇みずから伊勢神宮に参拝するのはタブーとされ、すでに述べたように、持続以来の画期的な出来事だった。もっとも「日本書紀」に持続伊勢行幸の記事はあるものの、神宮にみずから参拝したとまでは書かれていない。しかしそれは伏せているだけで、前節で述べたように、実際には親祭していたとみられるのである。宗教学・村上重良、古代女性史・倉塚嘩子も同様の見解だ。明治天皇の神宮参拝はいったい、どういう意図でなされたのだろうか?これを挙行するに当だって政府が依拠したのは、「初代」神武が皇祖神をまつったという「日本書紀」の記述である(「神武天皇」四年)。  

(前略)詔(ことよさ)して日く、「我が皇祖(みおや)の霊(みたま)、天(あめ)より降(くだり)り鑒(み)て、朕(わ)が躬(み)を光(てら)し助けたまへり。(中略)以て天神(あまつかみ)を郊祀(まつ)りて、用(も)て大孝(おやにしたがふこと)を申(の)べたまふべし」とのたまふ。乃ち霊時(まつりのには)を鳥見山(とみのやま)の中に立てて、(中略)用て皇祖天神を祭りたまふ。

 「皇祖天神」の名は明示されていないが、この段階ではアマテラスはまだ成立していない(前掲拙著・終章第1節)。したがってここにいう「皇祖天神」とは、アマテラスに先行する国家神タカミムスヒである。だがそのようなことは一切問題とせず―そもそもそのような認識はなく、アマテラスと信じ切っていたであろう-、神武が皇祖神をみすがら祭った(=親祭)という点を重視してこれにならい、明治天皇の伊勢神宮参拝となったのであった。そこには、神宮にまつられたアマテラスと明治天皇をむすびつけると同時に、明治天皇を「初代」神武になぞらえ、これを定着させる意図があった。

「紀元二千六百年」の伊勢神宮親祭

昭和十五年(一九四〇年)は「神武創業」から二六〇〇にあたる「紀元二千六百年」とされ、国を挙げて盛大な祝賀となった。この年の六月、昭和天皇は伊勢神宮を親祭した。午前に外宮を、午後に内宮を参拝したが、その時刻は「全国民黙祷時間」として午前十一時十二分、午後一時五十四分と予め周知された。この時、特別にラジオから時報がながれ、各地のサイレンが鳴った。これにあわせて全国民は一斉に伊勢の方角にむかい、皇祖アマテラスに一分間の黙祷をささげたのである。分刻みの時間設定が極度の緊張を強いるのはいうまでもないだろう。切りのいい時刻設定の場合、その時刻に合わせて、天皇と国民が一緒に獣祷する意味合いになる。ところが、十分ではなく十二分、五十分ではなく五十四分という設定の場合、天皇の参拝行為に従って全国民が獣祷する意味合いが濃厚に出てくる。〈天皇-臣民〉という主従関係を明確化する演出がそこにあったとみられる。「贅沢は敵」「遊楽旅行廃止」が叫ばれる時世であったが、神宮参拝だけは大いに奨励された。この年、皇祖アマテラスをまつる伊勢神宮の参拝者は八百万人、初代神武をまつる橿原神宮は千万人を数えたという。

太平洋戦争下の伊勢神宮親祭

 対米開戦の火ぶたを切った真珠湾攻撃から一年が経過していた昭和十七年十二月、昭和天皇は伊勢神宮を親祭しだ。皇祖アマテラスに戦勝を祈願したのである。この時、随行していた総理大臣・東条英機は、親祭を終えて板垣御門から出てきた天皇を目にし、感涙にむせんだという(文芸評論家・福田和也)。昭和天皇は戦後間もなく、その時の伊勢親祭をつぎのように振りかえっている(元侍従次長・木下道雄)。

 「戦時後半天候常に我れに幸いせざりしは、非科学的の考え方ながら、伊勢神宮の御援けなかりしが故なりと思う。神宮は軍の神にはあらず平和の神なり。しかるに戦勝祈願をしたり何かしたので御怒りになったのではないか

  国家の最高神に戦勝祈願をするのは、戦時中なら当たり前といえばそれまでだが、女神アマテラスに天皇自ら戦勝を祈願していたという生々しい現実には、やはり驚きに似た感慨を覚える。

 それにしても、昭和十七年といえば、「団塊世代」が産声を発しはじめるわずか四~五年前のこと。つい昨日のことのようにも感じられるのである。そして戦争終結から三ヵ月たった昭和二十年十一月、昭和天皇は伊勢神宮を親祭した。皇祖アマテラスに敗戦を奉告し、詫びるために―。

引用ここまで

千田稔『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』(中公新書05年1月刊)より

 天皇親拝

 明治をむかえて、伊勢神宮にとってのもっとも大きい変化といってよいのは、天皇がみずから神宮に参拝する天皇親拝(親謁)がはじまったことである。なぜ皇祖神をまつる神宮に天皇が参拝することが、長い歴史のなかで明治まで行われることがなかったのであろうか。それはアマテラスの御霊代である神鏡をまつる賢所が宮中にあり、天皇は毎朝の遥拝をそこで行ったためである。明治になってからも宮城に賢所がつくられたが、神殿・皇霊殿とを合わせて宮中三殿とよばれ、吹上御所の南に位置している。明治天皇の神宮親拝の意図するところは、伊勢神宮が国家の宗教の中枢となることによって、天皇みずからが参拝することが、その象徴的な宗教行事であると国民に広く知らしめることにあった。東アジア諸国のなかで国家元首が国家宗教と密接な関係をもつ場で祭祀を行うことによって、帝国の存在をアピールする意味も多分にあったと想像できる。この天皇親拝は明治二年(一八六九)三月十二日になされた。明治天皇の京都から東京への行幸は明治元年の九月であるが、このときは東海道の関(三重県亀山市)で神宮に遥拝している。この間の事情を少し年表風に追っておこう。江戸城が明けわたされるのが明治元年四月十一日。七月十七日に江戸が東京と改称され、明治天皇の即位式は八月二十七日に行われた。この即位式には地球儀がおかれるという象徴的な出来事があった。万国のなかで中心的位置を占めようとする維新政府の新しい工夫であったが、それは従来中国皇帝の即位式をモデルにしていたことから脱攻しようとする意図もあった。九月八日明治と改元 一世一元つまり一人の天皇の代に一つの元号とする制度が定められた。そして九月二十日、天皇は京都から東京に向かう。…

 明治天皇の伊勢神宮親拝は四度なされている。第一回伊勢親拝においては、参宮決定後の二月、道筋の仏教寺院・仏像を取り払い、また仏具・仏画の商売を禁止すべき布達があった。そこには神権国家としての整備を過度に意識したものがあると受けとることができる。明治天皇の神宮親拝によって、神宮は直接的に国家権力と密接な関係をもつことはできたが、同時に神宮側にとってはむずかしい問題も生じた。それは明治四年(一八七一)から七年にかけて神宮を皇居内に遷座することが一部の人たちによって主張された、いわゆる「神宮御動座問題」である。議論は紆余曲折をたどるが、神宮を皇居に遷すという主張は王政復古によって天皇と国家神とのつながりを明快に示そうとするものであった。

 天皇の終戦奉告

昭和二十年(一九四五)八月十五日、昭和天皇の「終戦」の詔書放送があって約三ヵ月後の十一月十二日、天皇は皇居から宇治山田市に向かい伊勢神宮への「終戦奉告」の行幸に出た。天皇は新しく制定された天皇御服に大勲位副章をつけて、午前七時過ぎに皇居を御料車で出発した。天皇御服が新しくつくられたのは、これまでの陸軍式および海軍式であったのを改めたことによる。東京駅までの御料車には、慣例であったサイドカーによる警護はなかった。沿道に配された警察官も少数で簡素な行幸であった。東京駅で幣原喜重郎首相(在任一九四五年十月-四六年五月)らの見送りをうけ、八時にお召列車は東海道本線を西に向かった。車窓から見える風景はことごとく荒涼たる焼け野原であった。…

 昭和天皇の伊勢神宮への「終戦奉告」が、右にみた十二月十五日の神道指令、同月二十八日の宗教団体法廃止の前になされたことは、日程のうえで配慮された印象をもつ。「終戦奉告」がなされた十一月の時点ではなお国家神道は存続していたのであって、天皇は国家元首として国家神道の象徴的存在であった伊勢神宮に親拝したことになる。さかのぼって昭和十五年(一九四〇)六月九日に天皇は戦勝祈願のために橿原神宮と伊勢神宮に親拝しているので、国家神道と戦争との関連性は首尾一貫している。そして昭和天皇の「終戦奉告」の後、一ヵ月余りで国家神道の実体がなくなったとみれば、「終戦奉告」の日程は、関係者によって熟慮されたとみることができる。終戦直後からのGHQによる占領体制下で、伊勢神宮はかつてない危機的な状況下にあったと思われるが、そのときの状況を具体的に記録した史料はない。(引用ここまで

詳しく知りたい方は、上記の書籍をお読みください。大変勉強になりました。

そこで、これまで伊勢神宮関係の記事をご覧ください。 

国歌「君が代」強制こそ、伝統文化の破壊·不道徳の極地、日米軍事同盟深化派の愛国心教育を断罪する! 2013年4月14日

自国民だけでなく国際的に敬意を表される国旗国歌こそ道徳的にふさわしい!血塗られた日の丸の実態!その2 2013年4月28日

生活改善のための政党のホットスポットはたくさんある!投票で参政権の行使を!一票の積み重ねこそ!その2 2013年7月21日

安倍首相の「遷御の儀」参加の意味を何も報道しないNHKは受信料を国民に返還せよ!歴史と憲法冒涜だ! 2013年10月3日

日本国民の思考停止を狙う日米軍事同盟深化派の落とし穴、国民的マスメディアの構築こそ墓場の準備に 2013年10月4日

偽りの神秘性演出で国民の信仰心をスリカエル伊勢神宮とマスコミのネライは何か!ホンネ信仰擁護を! 2013年10月9日

宗教行事に私人として参加する憲法違反首相の安倍首相を批判しない日本の知的退廃!ウソも方便は不当! 2013年10月10日

これが政教分離原則ができた日本的理由!侵略膨張主義の装置である伊勢神宮像の曖昧化は信仰心に反する! 2013年10月11日

安倍自公政権·安倍応援団のマスコミと国民のねじれが浮きぼりになった安倍FB、怒りを内閣打倒運動へ 2013年10月16日

ドナルド·キーン氏の記事をHPに掲載しない赤旗に大渇!日本文化に潜む未来社会の芽に無頓着 2013年10月17日

子どもじみた靖国参拝の閣僚と国会議員、真榊奉納の安倍首相の英霊冒涜犯罪を免罪するマスコミに大渇! 2013年10月19

安倍自公政権のエセ愛国心の本質を暴き、本当の愛国心とは何かについて、国民的議論を巻き起こそう! 2013年12月12日

象徴天皇制における天皇のあり方について、その政治利用を徹底して排除するための国民的議論を 2013年12月23日

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伊勢参拝も靖国参拝も国民にとっては大問題だ!明治以来の天皇制を支える装置・侵略戦争推進の支柱だった!

2014-01-07 | 伊勢神宮

安倍首相の伊勢参拝を「恒例行事」として批判もしないマスコミと国民の問題点については、昨日の記事で書きました。今回は伊勢神宮が、本来の庶民の信仰心をスリカエて、伊勢神宮の神様である天照大神にも反する神社に転落させたことを検証してみたいと思います。このことは「英霊」を神様として祀る靖国神社も同様です。両社とも、神様を冒涜する不道徳神社と言えます。このことを声を大にして言っていかなければなりません。今後も系統的に追及していきたいと思います。宗教・信仰心を政治利用するトンデモナイ神社と言えます。

まず靖国神社です。以下の資料をご覧ください。文部省唱歌です。

(第五学年用)  緒 言
一、本書ハ本省内ニ設置セル小学校唱歌教科書編纂委員ヲシテ編纂セシメタルモノナリ。
二、本書ノ歌詞中尋常小学読本所載以外ノモノニ就キテハ、修身・国語・歴史・地理・理科・実業等諸種ノ方面ニ渉リテ適当ナル題材ヲ求メ、文体用語等ハ成ルベク読本ト歩調ヲ一ニセンコトヲ期セリ。
三、本書ノ曲譜ハ排列上其ノ程度ニ就キテ多少難易ノ順ヲ追ハザザルモノナキニアラズ。是其ノ歌詞ノ性質上已ムヲ得ザルニ出デタルナリ。
四、巻頭ノ「みがかずば」「金剛石」「水は器」ノ三首ハ何レモ皇太后陛下ノ御歌ニシテ尋常小学修身書巻五ニ奉掲シタルモノナリ。「みがかずば」ノ曲ハ今回特ニ撰定シタルモノ、「金剛石」及ビ「水は器」ノ曲ハ学習院撰定ノモノニ係ル。
     大正二年二月       文 部 省

第四学年用
1912年(大正元)年12月

第四 靖国神社
一、花は桜木人は武士
  その桜木に囲まるる
  世を靖国の御社(みやしろ)よ。
  御国(みくに)の為にいさぎよく
  花と散りにし人々の
  魂(たま)はここにぞ鎮まれる。
二、命は軽(かろ)く義は重し
  その義を践(ふ)みて大君に
  命ささげし大丈夫(ますらを)よ。
  銅(かね)の鳥居の奥ふかく
  神垣高くまつられて、
  誉(ほまれ)は世々に残るなり。引用ここまで

靖国神社に参拝する安倍首相や新藤総務大臣は、この文部省歌を日々愛唱していることでしょう。そうでなければ、彼らの思想は大ウソになります。臣民である国民の命は忠義より軽いということです。その軽い命を大君に捧げて大丈夫になったので「英霊」とする。大丈夫となったのは、天皇のために義を尽くしたからです。その義とは何か、です。

そういう神社に尊崇の念を持ってお参りしているのです。マスコミも、この歌の存在を知らないのでしょうか。そんなことはありません。この歌の意味を熟知しながら愛唱しているかどうか、質問してほしいものです。

次は、伊勢神宮です。

国立国会図書館デジタル化資料 - 尋常小学修身教本. 巻1,4 をご覧ください。概略を抽出して掲載しておきます。「外国人の対する心得」ですが、何と言っているか。子どもの何を教えたか、大ウソでした。このお話は、教育勅語を具体的な「お話」で教えていることが判ります。教育勅語、すなわち天皇のために死ぬことこそが「美徳」だったのです。この美しい「お話」のすべては天皇のために死ぬことに収斂させていったのです。そこがポイントです。

したがって、その最初は「伊勢神宮」、最後が「日の丸」、現在の「国旗」です。その中心に位置しているのは、太陽、天照大神です。その神様をお祀りしているのが「伊勢大神宮」です。天皇制政府が、子どもに何を求めていたか、明瞭です。それが、今、「国旗」として掲揚され、礼拝させられているのです。いや意味もなく礼拝しているというのが実態しょうか。しかも、この旗を掲揚する時に流されるのが、君が代、すなわち、国歌なのです。これもスリカエ歌なのです。

尋常小修身教本巻四

第 一 課 伊勢大神宮

第 二 課 我が皇室

第二十五課 国民のつとめ 国憲を重んじ国法に遵へ

第二十六課 外国人の対する心得 

第二十七課 元のあだ 義勇公の奉ぜよ

第二十八課 日の丸の影 皇運をし奉れ(引用ここまで

次も伊勢神宮に関する修身(今風に言えば「道徳」、偽りの道徳ですが)の教科書です。

島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書10年7月刊)より

 六年生用の『尋常小学修身書巻六』の第一課は「皇大神宮」と題され、次のように始まっている。

皇祖天照大神をおまつり申してある皇大神宮は、伊勢の宇治山田市にあります。神域は神路山のふもと、五十鈴川の流にそひ、いかにも神々しい処で、一たび此処にはいると、誰でもおのづと心の底まで清らかになります。

皇室は一方ならず皇大神宮を尊ばせられます。天皇陛下は皇族を祭主に御任命になつて御祭事をすべつかさどらせられ祈年祭・神嘗祭・新嘗祭には、勅使をおさし立てになつて幣帛をさゝげさせられます。勅使をおさし立てになる時には、天皇陛下は親しく幣物を御覧になって、御祭文をお授けになり、勅使が退出するまでは入御になりません。なほ神嘗祭の当日には、宮中でおごそかに御遥拝の式を行はせられます。

 そして、この第一課は、「皇室はかやうに厚く皇大神宮を御尊崇になります。国民も昔から厚く皇大神宮を敬ひ、一生に一度は必ず参拝しなければならないことにしてゐます」と結ばれる。四年生用の『尋常小学修身書巻四』では、「我等はつねに天皇陛下の御恩をかうむることの深いことを思ひ、(中略)祝祭日のいはれをわきまへなければなりません」(第二十七よい日本人)と記され、六年生になると祝祭日の内容にかなり立ち入って説かれている。なお、「皇室」の語が出てくるところは改行して行の最上部にもってこなくてはならないことになっているが、これも天皇・皇室崇敬教育の一環である。(引用ここまで

ところで、首相の参拝が恒例となったのは、いつからでしょうか。

麻生太郎首相の伊勢神宮参拝に抗議します - カトリック中央協議会  2009年1月9日

首相の伊勢神宮参拝: 世相  2010年1月5日

菅首相の伊勢神宮公式参拝の問題性について とめよう戦争への道!百 ... 2011年1月7日

安倍晋三総理 2013年の仕事始めは伊勢神宮参拝から - NAVER まとめ 2013年1月4日

しんぶん赤旗7日付 2面 安倍首相が伊勢神宮参拝 憲法の政教分離と相いれず

安倍音三首相は6日、三重県伊勢市の伊勢神宮を参拝しました。参拝には岸田文外相、下村博文文部科学相、田村憲久厚生労働相、甘利明経済再生担当相らも同行しました。伊勢神宮は、天皇家の氏神とされる「天照大神」を祭る宗教団体で、侵略戦争推進の役割を果たした国家神道(国教化された神道)の頂点に位置づけられた歴史もあります。首相の伊勢神宮参拝は、憲法20条の政教分離の原則と相いれません。首相の参拝が新年の“恒例行事”であるかのように扱うメディアもありますが、戦後は55年に鳩山一郎首相が参拝。58年に岸信介首相(安倍首相の祖父)が参拝後、「伊勢神宮は一般の宗教法人と同等に扱えない」と特別視する発言を行い、戦前回帰のような動きを強めていた経緯もあります。1967年当時の佐藤栄作首相の参拝以降続いているだけです。安倍首相自身、第2倍政権発足直後の1月4日に伊勢神宮を参拝したほか、同年10月の式年遷宮の中心行事「遷御の儀」にも参列。今回も参拝後勢神宮の施設内で記者会見に臨むなど、神道や特定の宗教施設を極端に重視する行動に終始。いずれも憲法の政教分離原則を真っ向から否定する対応です。(引用ここまで

安倍首相の粋がりを象徴する以下の記事をご覧ください。彼は、日本国中の神社という神社を参拝しなければ、その信仰心がウソとなります。総理大臣を辞職した後も、やってみては如何でしょうか。神武天皇を祭神とする橿原神宮も、そのうち参拝でしょうか?桓武天皇を祀る平安神宮も、ですね。

安倍首相が明治神宮参拝 伊勢神宮に続き…保守層にアピールか ... 2013年1月13日

次の国民の声をみれば、如何に大ウソを見抜いていないか、良い教材です。そのうち、これらの意見について、解明・検証してみたいと思います。それにしても日本人の信仰心の曖昧さの典型を見ることができる、良い教材です。

『日本の総理大臣が靖国神社に参拝することをどう思いますか』投稿一覧 ...

日本の「精神的支柱」であり日本人の「心の拠り所」であり「日本文化の文化の原点」であるのが「伊勢神宮」である! 2013年10月4日

次は、伊勢神宮に出ていた面白い記事です。「風潮」「常識」「正論」とは、どのようなものか、実に良く出ている事例です。村山氏のご都合主義の典型的事例と赤松氏を追及する稲田氏、この人「特定」「秘密」「保護」法担当大臣でした。クルクル答弁が変わり、大ウソがバレバレになったお人でした。霞ヶ関ムラの「常識」が、如何にデタラメか、好例です。

^ 日本社会党委員長であった村山総理が、平成7年(1995)1月に伊勢神宮参拝の慣例を無視したが、翌8年1月の首相辞任を表明する直前に参拝している。また平成15年(2003)の食糧庁廃止まで同庁長官も同行した。

^ 平成22年1月には、元日本社会党書記長で民主党赤松広隆農水大臣が、慣例の参拝をせず、同年3月11日の衆議院農林水産委員会で稲田朋美議員の質疑に対し「職務ではないので、家族とグアム旅行に行っていた。そんなに悪いことをしたという意識は無い。」と答えた。(引用ここまで

「個人として参拝した」「個人の心の問題だ」論の根拠は、以下の記事にあります。如何に大ウソであるか、判ります。

[靖国参拝判決]「伊勢神宮参拝も違憲になるのか」 (読売新聞·社説 ... 2004年4月8日

首相靖国参拝は合憲か違憲か - DTI

小泉首相の立青国神社参拝と違憲判決 - [PDF]  2012年3月12日

次の資料は、伊勢神宮も靖国神社も時代とともに、その経営上の費用を捻出することが困難になってきたことを象徴する資料です。神社が抱えている問題は運営費の捻出問題があります。その対策として、伊勢神宮や靖国神社に閣僚などが参拝することで、マスコミが取り上げる。そのことで注目されて参拝者が増える。大河ドラマや朝ドラのロケ地などに観光客が殺到する心理状況と同じことを狙った神社の運営費捻出作戦ではないかと思う記事です。

これは地方の神社が氏子が高齢化したり、村人が移転したりで、運営できず、廃屋同然になっている神社がたくさん出てきていることを、いくつか見てきていますが、そのことと関係しているのではないでしょうか。今後、こういう視点で検証してみるつもりです。「神様仏様参拝者様」、「参拝者は神様です」というコピーが当てはまるかもしれません。そういう意味からすると、靖国神社とすれば、中韓は、参拝者である神様をお招きしていただいている貴重な装置なのかも知れません。きっと、フムフムとニンマリしているかも・・・。

今書店に行くと、伊勢神宮関係の書籍がズラッと並んでいます。旅行会社が企画したものもあります。なるほど、なるほど、です。神様も背に腹は変えられないのです。旅行会社や鉄道会社と出版社、テレビ局が結託して、民族大移動を企んでいるのかも知れません。検証が必要です。

多くの被災者や国民に配慮し、550億円以上かかる平成25年の神宮式年遷宮は延期すべき。茅葺屋根はメンテで大丈夫。宝物は無駄使い、技術伝承は資料整備で足りる。地方の神木が枯れる。2012/9/30(日)

つづく

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