以下のNHKのニュースをご覧ください。
共産党 4年ぶり党大会開催へ 1月13日 5時22分http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140113/k10014446511000.html
K10044465111_1401130527_1401130529.mp4
共産党は15日から、4年ぶりに党大会を開き、いわゆる「自共対決」を掲げて、消費税率の引き上げなどで安倍政権との対決姿勢を強め、党勢の拡大を目指す、当面の活動方針を決める見通しです。
共産党は15日から4日間の日程で、党の最高意思決定機関である党大会を静岡県熱海市で開き、地方支部の代表者などおよそ1000人が参加します。この中では、初日の15日、志位委員長が大会報告を行い、先の参議院選挙などで議席を大幅に伸ばしたことを受けて、「共産党が、自民党への批判を託せる唯一の党となってきており、『自共対決』の時代が本格的に始まった」などと主張するものとみられます。そして、消費税率の引き上げや集団的自衛権の行使を巡る問題などで、安倍政権との対決姿勢を強め、党勢の拡大を目指すなどとする、当面の活動方針を決めることにしています。また、党大会では新しい執行部の選任も行うことにしており、現在の志位委員長、市田書記局長の体制になって13年がたつなか、執行部の顔ぶれが変わるかどうかにも関心が集まっています。(引用ここまで)
都知事選報道もそうですが、日本のマスコミが、何をどのように報道するか、愛国者の邪論は、日本における民主主義の課題として、「未来社会」を想像し、創造する際の重要な要素として、マスコミ(情報伝達手段)における民主主義の問題を系統的に検証することの意味を感じながら、日々記事を書いています。
その理由は、国民の知る権利の保障です。国民が「情報」を知ることによって、その生活を改善していくことができると考えるからです。このことは日本の歴史を考えれば判ります。日本の、というか、この列島に住む民衆が文字を操るようになった歴史をみると、「知る」ことを通して「表現する」、すなわち「意見表明する」民衆の力をみることで証明できます。特に江戸時代の寺子屋の歴史が、常に次の時代を準備していったことに典型的にみることができます。
このことは、いわゆる鎖国を開国した日本、ソ連東欧の崩壊についても、言えることです。中国や北朝鮮の国民が知る権利を行使することで、どのような国づくりをするか、ということも同様です。だからこそ、権力者は、情報を、国民の知る権利をできるだけ制限するのです。このことも、実はたくさんの歴史を見ることができます。
そういう視点で、自由と民主主義が成熟しているとされている現在の日本のマスコミ(情報伝達手段)が、本当の意味で国民の知る権利を保障しているか、そういう視点で、日々検証しているのです。このことは、日本における人権と民主主義を発展させていった時にも、常に検証されなければならない問題として意味づけているのです。このことは、共産党が発表している「自由と民主主義の宣言」、綱領のなかで位置づけている「社会主義・共産主義社会=未来社会」においても同様です。
そういうなかで、共産党の大会を報道するNHKの紹介の仕方を見た国民が、共産党に対するイメージをどのように形成していくか、そこに関心をもったのです。それは、二つです。
一つは、共産党は党勢拡大を自己目的化している政党であるということ。「消費税率の引き上げや集団的自衛権の行使を巡る問題などで、安倍政権との対決」しても、いわゆる「自共対決」を掲げても、その行き先は、自分の党が大きくなるということしか考えていない政党ということになりませんか。これでは他党と同じレベルになります。
しかし、共産党の存在意義は、果たしてそういうものなんでしょうか。それは日本共産党の立党の精神は、「国民の苦難軽減」という視点で行われてきた共産党の歴史が示しています。「共産党宣言」の最後の部分に示されています。
二つ目は、「執行部の顔ぶれが変わるかどうかにも関心が集まっています」というように、「関心」とはどのような人びとの「関心」か、主語がありません。ここにNHKの意図が透けて見えてきます。沖縄や東京、フクシマなど、被災地で、国会で、どのような役割を果たしているか、国民の知る権利を保障してはいないのです。逆に、細川氏や安倍首相の情報を垂れ流しているのです。その動きと真逆の動きを対置し、国民に、その選択を迫るという視点で報道していないのです。これでは「違いの判るコーヒー」ならぬ、「違いの判らぬ政党政治」ということになります。
こうした印象操作を許している最大の問題は、当事者である共産党の発信力の内容(質)と繰り返し問題にしないで放置していること(量)に問題があると思います。赤旗「拡大」や党員「拡大」の数を打ち出して、全党員を叱咤激励しているのは、何のためか、そのことと関わって、第四の権力が、日々垂れ流す「情報」が、どのような意味を持っているか、そのことを踏まえた共産党の側からの情報発信という視点からみると、大変な問題があるように思います。
この問題は、NHKをはじめ、日本のマスコミに、いつまで偏った共産党像を垂れ流すことを許しておくのか、そのことにかかっています。日本共産党株式会社のウリが歪曲されたままでは、日本共産党株式会社の商品を買ってもらうことはできないでしょう。日本共産党株式会社の経営陣(機関)と出資者でもある社員(党員)は、自社に誇りをもっているのであれば、黙っていることはできないのではないでしょうか。自社の値打ちや商品がウソで固められて消費者である国民に垂れ流されているのです。
ここに資本主義国における日本共産党株式会社の甘さがあるように思います。倒産の危機の自覚の欠如です。日本共産党株式会社が倒産しても、社員は食っていけるという甘さです。一般企業の社員にはない発想です。ま、転職すればという発想もありますが、それにしても街頭に放り出されるという「脅威」とは違うのかもしれません。政権を担当していない気安さもあるかも知れません。国家や地方自治体の政権担当・運営能力や企業の経営に責任をもっているという視点の欠如です。
しかも、このマスコミの情報発信の問題は、単なる情報発信の問題でないことは、すでに国民の知る権利との関係からみれば明らかです。しかも、日本における民主主義の問題という位置づけ、日本の民主的改革との関係からみれば、何をしていかなければならないか、明らかです。このことは、一政党が、マスコミに介入するという問題ではありません。ものさしは憲法の人権尊重主義、国民主権主義の尊重という点から見ているという視点です。そういう意味からすると、共産党の民主主義観、民主主義に対する位置づけの弱さ、民主主義の発展の重要性、民主主義を国民のものにすることの意味の位置づけの弱さが見えてくるのです。以下ご覧ください。
日本共産党綱領 http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Koryo/には、マスコミ(情報伝達手段)について、以下の文章しかありません。これは、国民の知る権利を前提とした「自由」の問題・課題を提起しているものと思われます。それにしても、政党とは権力を獲得すること、とりわけ、共産党の場合は、「日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移」し、その権力を使って、「当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開く」(綱領)としているのです。その際の、第四の権力の意味づけとそれに対するたたかい方の位置づけが弱いように思います。以下ご覧ください。
…さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。「社会主義」の名のもとに、特定の政党に「指導」政党としての特権を与えたり、特定の世界観を「国定の哲学」と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけられる。(引用ここまで)
ところが、日本共産党第25回大会決議 http://www.jcp.or.jp/web_jcp/2010/01/01-25th-ketugi.html」」には、以下のように、結構詳細に書かれて、意味づけられているのです。しかし、この大会決議が、今回の日本共産党第26回大会決議案でどのように総括され、引き継がれているか、ですが、極めて曖昧です。ここに共産党の方針と活動と総括と方針との連関性が曖昧であることが判ります。
ニ、マスメディアのあり方が根本から問われている
民主党政権の直接の問題ではないが、マスメディアのあり方について、問題点を率直に提起したい。この十数年来続いている財界主導の「二大政党づくり」の動きのなかで、マスメディアの大勢は、いっかんしてこの動きを礼賛・推進する異常な役割を果たしてきた。その根本にはどういう仕組みが働いているのか。
「21世紀臨調」という財界人、研究者、報道関係者、一部の知事・市町村長などからなる「運動体」がある。この運動は、その前身にあたる「民間政治臨調」(1992年発足)の時代に、小選挙区制導入に重大な役割を果たし、「21世紀臨調」(1999年発足)に衣替えして以降は、「国のあり方の改革と未完の政治改革とを『車の両輪』と位置づけて活動を進める」、国家改造の「運動体」であることを公然と宣言して活動をおこなってきた。小選挙区制の推進、「政権選択選挙」の推進、「首相を中心とする内閣主導体制」の推進――これらがこの「運動体」がとりくんできたことである。
「21世紀臨調」が発行している「物語で読む21世紀臨調」は、2002年10月に経済同友会が発表した「提言」について、「マニフェストを作成することで政党政治のサイクルを立て直すことを経済界としては初めて明確な形で提言した」ものと高く評価している。強権的国家づくりという点で、両者のめざす方向は同じである。この間、民主党がすすめている「国会改革」にさいしても、「21世紀臨調」の「学者有志」らによる「提言」が、民主党に提示されるなど、この動きのブレーンとしての役割を果たしている。
重大なことは、「21世紀臨調」の中核をなす155人の運営委員の中に、73人にのぼるマスメディア関係者が参加していることである(2009年11月現在)。「物語で読む21世紀臨調」によると、「21世紀臨調」は「何よりも改革実現のための運動体」であり、「(数々の提言を)公表するにとどまらず、マスメディアを通じて日常的な世論形成を行い、......改革を具体化し、実現していくことに最大の力点が置かれた」と、マスメディアを、自分たちに都合のよい世論を形成する手段として利用することを、あからさまに述べている。こうして「二大政党づくり」の大キャンペーンをすすめる仕組みがつくられているのである。
「新聞倫理綱領」では「正確と公正」「独立と寛容」をうたっている。放送法では「政治的に公平であること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」を放送事業者に義務づけている。これらにてらして、財界主導ですすめられている「二大政党づくり」と、強権的国家づくりという、特異な立場を推進する「運動体」に、多くのマスメディア関係者が参加し、「日常的な世論形成」をはかることが許されるか。公正、公平、独立というジャーナリズムの魂を、自ら投げ捨てるものではないか。わが党は、そのことを率直に指摘し、良識あるマスメディア関係者と広く協力するとともに、マスメディアが「社会の公器」としての責務を自覚して、こうしたあり方を見直すことを求める。
情勢の反動的逆行を許さず、日本国憲法に定められた平和と民主主義の諸原則を守り発展させることは、日本共産党の重大な任務である。(引用ここまで)
と、権力側がマスメディアの位置づけを重視しているにもかかわらず、実際はどうでしょうか。政権可能な二大政党政治、政権交代政権選択、第三極、後出しジャンケンなどのコピーを許していないでしょうか。このような「攻撃」は折り込み積みのはずです。しかし、その折り込み積みの手口に、共産党自身は対応できているでしょうか。ここに最大の弱点の一つがあるように思います。判っているにもかかわらず手を打っていない、マスコミの垂れ流す情報の嵐のなかに、国民を晒してしまっているのです。共産党自身もサンドバック状態になっているのです。この結果、どのような事態をつくりだしているか、明瞭です。
勿論、責任を共産党に負わせるなどということでないことは、予め強調しておかなければならないと思います。それは革命党政党としての自己分析と国民に対する責任の問題です。共産党を名乗る責任です。さもなければ、共産党の名前を外せばよいのです。
何故、革命政党としての日本共産党にあって、こういうことが起こるか、それは、レーニンの『国家と革命』の中で指摘されている、以下の点の位置づけが極めて弱いからです。レーニンの時代とは途方もなく質的にも量的にも違った日本において、民主主義をどのように意味づけるか、です。
共産党は、口では「国民・住民が主人公」「支部が主役」と言っていますが、更には「党の主役は党員」ということは一度も言っていません。それは、「主人公」「主役」の意味を民主主義という点から意味づけていないこと、その言葉を具体化できていない現状、このことの意味をどのくらいの党員が自覚しているか、そのための文献が書かれているか、検証してみれば、判ります。
更に、愛国者の邪論には、極論を言えば、どうでも良いことのようにも思いますが、社会主義・共産主義の「段階」の問題も大切かも知れません。綱領に「未来社会」と名づけていることもある意味理解できます。しかし、実は、そのこと以上に大切なことは、国民が民主主義を我が物とするかどうかということ、この発展の度合いが社会制度を決定づけていくという視点です。
以下のレーニンの視点を憲法の民主的原則と合わせてマスコミ界に使うとすれば、マスコミ界に働く労働者の権利、会社の経営に対する意見表明権、報道内容に対する意見表明権に対して民主主義を貫くことができるかどうかです。このことはどの職場でも言えることです。同時に、マスコミの垂れ流す情報に対して国民の側からの知る権利の保障を求める民主主義的権利の具体化という視点です。このことは情報の消費者である国民の権利という視点からも言えることです。
実は、このことは共産党の組織の運営にも適用されるということです。そういう視点でみると、実は、上総之介さんからコメントがあった以下の交流会で一番位置づけの弱かった点が、民主主義という視点でした。この言葉はほとんど使われていませんでした。検証してみてください。
日本・ベトナム理論交流での不破団長の報告/日本共産党綱領制定にあたっての社会主義理論の研究 (上)
日本・ベトナム理論交流での不破団長の報告/日本共産党綱領制定にあたっての社会主義理論の研究 (中)
日本・ベトナム理論交流での不破団長の報告/日本共産党綱領制定にあたっての社会主義理論の研究 (下)
レーニン『国家と革命』(国民文庫)より
・・・民主主義は、資本主義にたいする労働者階級の解放闘争に非常に大きな意義をもっている。しかし、民主主義は、こえることのできない限界ではけっしてなく、封建制度から資本主義にいたり、資本主義から共産主義にいたる途上の一段階にすぎない。
民主主義は、平等を意味する。平等のためのプロレタリアートのたたかいと平等のスローガンとが大きな意義をもっていることは、平等ということを階級の廃絶という意味に正しく理解するならば、明らかである。しかし、民主主義は形式的な平等を意味するにすぎない。そして、生活手段の所有にかんする社会の全成員の平等、すなわち労働の平等、賃金の平等が実現されるやいなや、ただちに人類のまえには、形式的な平等から実質的な平等にむかって、すなわち「各人はその能力に応じて、各人にはその欲望に応じて」という準則の実現にむかって前進する問題が不可避的に現われる。人類がどんな段階をとおって、またどんな実際措置によって、このより高い目標へすすむか、われわれは知らないし、知ることもできない。しかし、社会主義をなにかある死んだ、硬化した、一度与えられたらそれきりのものと考えるありきたりのブルジョア的観念は、際限もなく誤っていることを、理解することがたいせつである。実際には、社会主義のもとではじめて、社会生活と個人生活のすべての分野で、住民の大多数が参加し、ついで全住民が参加しておこなわれる、急速な、ほんとうの、真に大衆的な運動が始まるのである。
民主主義とは、国家形態であり、国家の一変種である。したがってまた、それは、あらゆる国家と同じように、人間にたいして暴力を組織的・系統的にもちいることである。これは一面である。しかし他面、民主主義とは、市民間の平等の形式的承認を意味し、国家制度を決定し国家を統治する万人の平等な権利の形式的承認を意味する。そして、このことはまた、つぎのようなことと結びついている。すなわち、民主主義は、そのある発展段階で、第一には、資本主義に反対する革命的な階級であるプロレタリアートを団結させて、この階級に、ブルジョア国家機構―たとえ共和制的なブルジョア国家機構であっても、常備軍、警察、官僚制度を破壊し、こっぱみじんに打ち砕き、地上から一掃し、それらのものを、やはり国家機構ではあるけれども、より民主主義的な人民を一人のこらず参加させた民兵へと転化してゆく武装した労働者大衆というかたちの―国家機構をもっておきかえる可能性を与える。
ここで「量は質に転化する」。すなわち、民主主義のこのような段階は、ブルジョア社会のわくからぬけだすこと、この社会の社会主義的改造の開始と結びついている。もしほんとうにすべての人が国家の統治に参加するなら、もはや資本主義は維持されない。そして、資本主義の発展は、逆に、ほんとうに「すべての人」が国家統治に参加できる前提条件をつくりだす。このような前提条件の一つは、すでに一連のもっとも先進的な資本主義諸国で実現されているように、だれでも読み書きができるということであり、つぎには、郵便、鉄道、大工場、大商業、銀行業等々の大規模で複雑な社会化された機関によって、幾百万の労働者が「教育と訓練」をうけているということである。…(引用ここまで)