長崎県南島原市にある「原城跡」は、江戸時代初期の1604年にキリシタン大名の有馬氏が築城した原城の跡地です。1637年には、天草四郎率いる潜伏キリシタンたちが立てこもって幕府軍と戦い、2万数千人が命を落としたとされる「島原・天草一揆」の舞台になりました。この一揆によって幕府は、キリスト教を脅威とみなして鎖国政策をとり、外国からの宣教師を失った潜伏キリシタンたちが、自分たちだけで独自の信仰の形を続けることにつながりました。「原城跡」は昭和13年に国の史跡に指定されています。
平戸の聖地と集落(1)
長崎県平戸市にある「春日集落と安満岳」、それに沖合の「中江ノ島」の2つの構成資産は、合わせて「平戸の聖地と集落」と呼ばれています。このうち「春日集落と安満岳」は、平戸島にあり、「春日集落」では、キリスト教の信仰が禁じられた禁教期に入ってからも、信者たちはキリシタンの組織を維持してひそかに信仰を続けました。古くから仏教や神道で山岳信仰の対象とされてきた「安満岳」への崇拝を続けるなど潜伏キリシタンの独特の信仰の形が育まれました。
平戸の聖地と集落(2)
「中江ノ島」は、平戸島からおよそ2キロ沖合にあり、キリスト教の信仰が禁じられた禁教期に信者が処刑された殉教地として崇拝の対象になりました。禁教令が撤廃されたあとも、カトリック信者に戻らずに当時の信仰の形を継承する「かくれキリシタン」が、現在も、洗礼などに使う聖水を採るために上陸しています。島を所有する団体は、信者以外の上陸について自粛を求めています。
天草の崎津集落
「天草の崎津集落」は、熊本県天草諸島の下島の西部にある漁村で、熊本県唯一の構成資産です。江戸時代にキリスト教が禁じられ島原半島や天草諸島のキリスト教徒などが参加した「島原・天草一揆」以降、取り締まりが厳しくなる中で、信者たちは仏教徒を装いながら信仰を続け、アワビの貝殻など身近な物を代用して崇拝するなど独自の信仰のかたちが生まれました。集落にある崎津教会は、当時、キリシタンを取り調べる「絵踏」が行われていた「吉田庄屋役宅」の跡地に建てられています。
外海の出津集落
「外海の出津集落」は長崎市北部にあり、キリスト教の信仰が禁じられた禁教期には、表向きは仏教の寺院に所属しながら、組織的にキリスト教の信仰を続けました。集落からは聖母マリアをかたどった大型のメダルや、日本人が描いた聖ミカエルの聖画などが見つかっていて、ひそかに信仰用具を継承しながら信仰を続けたとされています。集落の墓地からは、潜伏キリシタンの埋葬方法と同じ方法で埋葬された当時の信者のものとみられる人の骨も見つかっています。出津集落は、石積みの建物による独特の景観から、国の重要文化的景観にも選定されています。
外海の大野集落
長崎市北部にある「外海の大野集落」は、もう1つの構成資産の「外海の出津集落」からおよそ3キロ北の、山から海岸に向かって広がる斜面地にあります。外国人宣教師の駐在所が置かれるなどしてキリスト教が広まり、信仰が禁じられた禁教期には、信者たちは、神社の氏子になって、神社をキリスト教信仰の場として利用するとともに、古くからの自然信仰に基づく山の神も崇拝する、独特の信仰の形をつくりました。大野集落は出津集落とともに、「長崎市外海の石積集落景観」として、国の重要文化的景観に選定されています。
黒島の集落
「黒島の集落」は、長崎県佐世保市の沖合およそ12キロの人口およそ400人の離島にあります。キリスト教の信仰が禁じられていた19世紀に、牧場の跡地の再開発のため当時の平戸藩が開拓者の誘致を行い、現在の長崎市外海地区などから弾圧を逃れた多くの潜伏キリシタンが移住しました。信者たちは寺に所属して仏教徒を装いながら、ひそかにマリア観音を拝んで信仰を続けたといいます。黒島は、江戸時代の、石垣に根を張った防風林が広がる景観が、国の重要文化的景観に選定されているほか、ことし全国で公開された映画の舞台にもなりました。
野崎島の集落跡
「野崎島の集落跡」は、長崎県の離島の五島列島の北東部に位置する小値賀町の無人島にあります。島は、神道の神聖な土地として神職を除く一般の人が住むことはできませんでしたが、19世紀中ごろから現在の長崎市の外海地区から弾圧を逃れてきた多くの潜伏キリシタンが移住しました。信者たちは、野首集落と舟森集落の2つの集落をつくり、神道の信仰を装ってひそかにキリスト教の信仰を続けました。
頭ヶ島の集落
「頭ヶ島の集落」がある長崎県新上五島町の頭ヶ島は、五島列島の人口およそ15人の島です。病人の療養地としてあまり人が近づかない場所だったことから、現在の長崎市の外海地区から弾圧を逃れた多くの潜伏キリシタンが移住し、仏教徒を装いながらひそかに信仰を続けました。禁教が解かれたあと、信者たちは周辺で豊富に採れる「五島石」と呼ばれる石を使って石造りの教会「頭ヶ島天主堂」を建設しました。天主堂は国の重要文化財に指定されています。
久賀島の集落
長崎県五島市の久賀島は、五島列島の中ほどにある人口およそ300人の島です。キリスト教の信仰が禁じられた禁教期に、弾圧を逃れて、現在の長崎市の外海地区から潜伏キリシタンが移住し、ひそかに信仰を続けました。禁教期の末期には、大規模なキリシタンの摘発が行われ、信仰を明かしたおよそ200人の信者が狭いろう屋に閉じ込められ、拷問の末42人が亡くなった「牢屋の窄事件」も起きました。
奈留島の江上集落
長崎県五島市の奈留島は五島列島の中ほどに位置する人口およそ2200人の島です。島の「江上集落」は、キリスト教の信仰が禁じられた禁教期に、現在の長崎市の外海地域から弾圧を逃れて移住してきた潜伏キリシタンの集落です。禁教が解かれたあと、信者たちは集落に、木造の「江上天主堂」を建設しました。天主堂は国の重要文化財に指定されています。
大浦天主堂
長崎市南山手町にある「大浦天主堂」は、幕末の1864年、キリスト教の信仰が禁じられていた禁教期に、外国人のための教会として建てられ、国内に残る最古の教会として国宝に指定されています。建設翌年の1865年、潜伏キリシタンがフランス人神父にみずからの信仰を打ち明け、およそ250年にわたる禁教期の間も、キリスト教の信仰が続いていたことがわかった「信徒発見」の舞台になりました。これをきっかけに各地の潜伏キリシタンたちが相次いで信仰を打ち明け、厳しい弾圧が加えられましたが、諸外国から抗議を受け、政府は1873年に禁教を解きました。大浦天主堂には、神父や伝道師を養成する学校が設けられるなど、日本で再びキリスト教を布教する拠点になり、おととしローマ法王庁から由緒ある重要な教会に与えられる称号「小バジリカ」を国内の教会として初めて与えられました。(引用ここまで)