「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

同時代人の死と「命」を思う

2006-12-22 09:02:01 | Weblog
義姉の葬儀へ行く新幹線の車中の電光ニュースで青島幸男と岸田今日子の
逝去の報を知った。ほぼ僕と同時代の人たちだ。とくに岸田今日子は僕と同学
年、疎開先の飯田の学校で勤労動員を受けた経験まで僕と似ている。しかも
長野新幹線の中で彼女の死を知った。なにかの機縁である。

公募で決まった今年の漢字は「命}である。秋篠宮悠仁親王の明るい「命」の誕
生からいじめによる自殺、交通事故などの「命」の損失の悲しい暗いニュースも
あった。一つにくくれば「命」なのだろう。

若いときにはあまり「命」に無関心であった。しかし馬齢を重ねると「命」に感慨
を覚えるようになる。大げさに言えば、金魚鉢の中の金魚、路傍の草木にさえ
「命」の”いとおしさ”を感じることがある。

"死んでしまえば同じさ”という言葉を耳にする。俗世的にはそうなのだが,生
と死とは大違いだ。年の瀬にはよくあの世にいってしまった友人のことを夢み
ることがある。僕だけの現象なのだろうかー。友人たちと酒を飲みながらワイ
ワイ騒いでいると、夢が破れる。みなこの世にはいない連中である。

やはり生きていることと,死んでしまうのとは大変な違いなのだ。生きとし生け
るものを"いとおしむ”こと、「命」の大切さを義姉の死、青島幸男、岸田今日子
の死から改めて知った次第である。



葬儀は儀式が必要

2006-12-22 00:55:20 | Weblog
義姉のお通夜と告別式に参列した。今月初めに脳梗塞で倒れ、僅か半月で
この世を去った。80歳。女性としては平均寿命以下だ。葬儀は善光寺の
ある長野市で、浄土真宗大谷派で行われた。東京生れ、東京育ち宗派が浄
土派の僕にとっては、すべてがま新しかった。

お通夜は自宅で執り行われた。昔は東京でもそうだったが、最近は住宅事
情からまず、なくなった。ご遺体のそばで住職の先導でお経を唱和する。
そのあと親しい者が集まって故人を偲びながら、お斉き(おとき)をする。
東京では、このようなお通夜は今なくなった。葬儀場で形ばかりのお通夜
の儀式が行われ、形だけの飲食があるだけだ。

告別式は市内の法事センターで行われたが、僕が目を見張ったのは参列者の
数の多さだ。義姉は普通の主婦である。それなのに会場はお焼香に列ができ
3百人は参列していた。平日の午後4時からの式である。そのあと再びお斉
きのご馳走である。お斉きは昔ながらの儀式で行われ、北信流の謡でしめら
れる。

東京では葬儀自体が形骸化してきた。そして、これを嫌う人の中には宗教色
を抜きにした”お別れの会””偲ぶ会”が流行している。僕個人はけっして
信仰心が厚いとは思わない。しかし今回、義姉の葬儀に参列して、昔から続
く儀式に心をうたれた。やはり理屈を抜きにして伝統の儀式には日本人の心
がる。